さか柱

小此木センウ

さか柱(一話完結)

 甘い花の香りが、ぷんと流れた。


 本家の門前である。薄黒く巨大な屋敷の前に立つたび、昔から感じていた威圧感と、その香りはひどく場違いで、だから私にはより強い印象を残した。


 本家の建築は明治か、それとももっと前か、市の文化財になるという話もあったほどと聞く。それでも人の住んでいる建物だから、時代じだいに最低限の改造、補修は施してあり、門にはインターフォンが設置されていた。

 来訪を告げて家人を待つ少しの間、私は背後を振り返った。

 山の中腹に位置する、私の今いる本家を起点に、なだらかに斜面を下る、この地方では比較的大きな数百戸の集落だ。棚田と屋根の繰り返しの中に、私の生家も見える。

 小さい頃に好きだった景色だ。本家に来るたび、父にせがんでここで肩車してもらい、飽かず風景を眺めていた。

 なのにどうしてか、今日は心が動かない。薄雲った、くすんだ空のせいだろうか。それとも、昨今どこの田舎もそうであるように、高齢化して衰えつつある集落の現実を、無意識に目の前の風景に反映しているのだろうか。

 疑問に答えの出る前に家人が現れた。軽い戸惑いを空に残したような気分のまま、重厚な門をくぐる。


 玄関を上がると、先ほどの花の香りがより強く漂っていた。この香りは、昔の記憶にはない。誰かが香でも焚いているのか、いや違う、もっと生々しい匂いだ。

 しかし、玄関に生花の類いはない。

「匂いが気になりましょうか」

 立ち止まった私に気づき、家人が尋ねる。

「失礼しました。良い香りと思いまして」

 家人はわずかに微笑み、

「暮らしていれば慣れるものです」

 諦めとも取れる息をついた。


 洋風に作り替えた客間に通されると、意外にも主人は既に待っていた。私は慌てて頭を下げ、無沙汰の詫びをもごもごと告げた。分家のものが本家の長を待たせるなど、かつてなら考えられない。来客の折は、主人があえて後から部屋に入るのが慣習だったのだが。

「お客さんは久しぶりでね。首を長くしとったよ」

 やや固くなって席についた私に、主人は好々爺然とした笑みを向ける。それでまた驚いた。昔のこの人は、謹厳という言葉がふさわしい人物だった。笑顔を見た記憶もほとんどない。

「最近は客もめっきり減った」

 照れ隠しなのか、主人は目を逸らし、さっきと同じ意味のことをつぶやいてから、

「それで君は、民俗学をやってるってね。さっそく見てもらいたいんだ」

 早くも立ち上がって、部屋の戸を開けたところで、お茶を運んできた家人にぶつかりそうになった。

「あなた、お茶くらい召し上がっていただいてから」

「お気遣い恐縮ですが、ご主人がよろしければ私もすぐに見てみたいです」

 家人を無視して早足で廊下を進む主人に、私も従った。


 本家の客間より向こうに入るのは、これが初めてだ。外観の印象とは異なり、奥に進むほど周りが明るくなってくる。この屋敷は、玄関が南面して廊下はまっすぐ北へ伸びている。その向こうは木々の生い茂る斜面だから、採光は奥になるほど悪いはずなのに、不思議に感じた。

「ここだよ。奥の間だ」

 廊下のどん詰まりで主人はやっと立ち止まり、傍らの襖を指差した。いかにも旧家らしい古びたものだが、作りはしっかりしている。

 最前の香りが急に強くなった。誘われるようだ。

 部屋に入る了解を取ろうと口を開きかけた時、自分の手が既に襖の引き手にかかっているのに気づいた。

 心のおののきにかかわらず、手はまるで意思を持っているかのごとく、襖をいっぱいに開ける。

 香り、そして光があふれ、思わず腕で顔を覆った。

「花だ」

 主人の声が聞こえ、次いで部屋の中へ進む足音。

「入ってみたまえ」

 まっすぐ前を向けず、うつむいたままで目を開けると、畳敷の床に花びらの散っているのが見えた。

 菊のようだ。肉厚の湾曲した花弁だった。

 どこからか風が吹いて花弁が揺れる。私は目を上げた。

 部屋の奥に黒ずんだ太い柱がある。光はそこから発していた。いや、柱が光るなど考えられないし、現に光源は見えない。だが、柱に相対した私の影はまっすぐ後ろに伸びている。異様である。

 そして、更にその感を深くさせることに、柱には満開の菊がいくつも貼り付けてあった。

「これは」

 触れると花弁がほろりと落ちた。それでようやく、自分が部屋の奥、柱の前まで入り込んでいるのに気づいた。私は主人を振り返る。

「何か供え物の類いでしょうか」

 主人はわずかに首を振り、私があえて聞かなかった言葉を口にした。

「生えているんだよ。柱から」

「そんな」

 ばかな、という言葉を飲み込んで、私は震える指先で花をそっとずらして裏側を向けた。柱から木質化した茎が伸び、それが徐々にみずみずしい緑に変わり、その先には萼がついている。加工した跡は見られない。

「これは何でしょう」

 紛れもない奇跡に邂逅してしまうと、合理的思考などというものは意味をなくしてしまう。これまでの経験も知識も、がらがら音を立てて崩れるような錯覚に陥りながら、私はかろうじて聞いた。

 主人は薄く笑う。

「これはこういうものだ。そうでなかったら何か、むしろ君に聞きたくて、今日来てもらったんじゃないか」

 私は話したくなかった。

 民俗学、とは学問である。だから、怪異にかかわる伝承だの伝説だのの研究はする。が、怪異そのものの存在については、ある、ない、の判断はしない、そういうものだ。

 ここで話したら、それはもう明らかに、学問では不可知の領域を認めてしまうことになる、そんな気がした。

「やはり、わからないかな」

 主人は笑みを顔に貼り付けたままで聞く。

 一段と強い香りを吸い込んで、つい私はむせた。その様子を主人は黙って見ている。しばらく呼吸を整えているうちに、私は何かに観念した。

「さか柱、というものをご存知でしょうか」

 主人は首を振る。

「こういった大黒柱を立てる時、上下を逆に、つまり木のてっぺんを下に、根のほうを上にして立てることです」

「ああ、それならこの柱もそうだ。何代前か忘れたが、とにかく先祖がこの家を建てた時、そう命じたと聞いているよ」

「あえて命じたのですか? 伝承では、さか柱のある家には様々な怪異が起こる、と言われていますが」

「もちろん、あえてそうしたのさ」

 私の隣に立ち、主人は柱をなでた。

「もし経緯をご存知なら、教えていただけませんか」

「構わないよ」

 どこかおぼつかない視線で柱を眺めながら、主人は言った。

「父から聞かされた話だ。根を上にして立てた柱は、地面ではなく空中から滋養を得るのだという。それで、一定以上育たないように処置をした上で祀れば、柱のある家もその一部を受け取って、富栄えることができると。この家は、代々そうやって繁栄してきたと。信じられるかね」

 私は主人を見て、それから柱を見た。

「信じたくはありませんが、この柱を見ると、信じざるを得ない気持ちにもなります」

 くっくっ、と主人は笑った。

「私も同じだったよ。しかし君と違うのは、私はこの家の跡取りだったことだ。信じるだけならまだしも、それを受け入れて生きねばならなかった」

 柱をなでる手が止まり、力が加わるように指先が曲がった。

「正直にいって耐えがたかった。私が家のために何をしようと、それは私の才覚ではなく、わけのわからないこの柱のお陰なのだと。この家が栄えているのも、先祖の才能でも努力でもなく、たかが一本の柱のお陰なのだと」

 指先が真っ白になり、柱に爪痕が残るほど、主人は強く手を押しつけている。

「あの、少し落ち着いて」

「ああ、すまないね」

 柱から手を離した主人は、畳から花弁を一枚拾い上げ、そしてぽつっとつぶやいた。

「だから私は禁忌を破ったんだ」

「禁忌? どのような?」

「この部屋を封印することだよ」

 思わず開ききった襖に目が行き、その後で、主人の言葉が私の頭の中をぐるぐると巡った。

「封印することで、柱の成長を抑え、一定の繁栄を永く享受できるというんだ」

「では封印を解いたら?」

「柱はとめどなく成長する。周りから養分を吸い取ってね」

 その刹那、柱から新しい芽が生えた。芽はするすると伸び、見る間につぼみをつけて、そして花を咲かせた。匂い立つ、鮮やかな花を。

 私は恐ろしくなった。それで、礼もそこそこに家を出て、実家にも立ち寄らずに集落を去った。


 そのしばらく後、主人の死を知らされた時も、両親から顰蹙を買いつつ、私は葬儀に出ることもしなかった。

 これからも、あの集落には戻らない。私の心にはその決意がある。

 一方で、私は必ずあそこに戻る。その確信も同時に、心の深いところに存在する。


 さか柱は、今も成長を重ねている。私には目に映るようだ。集落の空いっぱいに見えない根を張り巡らせたその姿が。そして、この世ならぬ彩りと、頭の芯まで痺れさせる芳しさで私を待つ、あの奥の間が。

 私も既に、さか柱にとらえられている。いつか、えも言われぬ歓喜と共に、それを受け入れる日が訪れるだろう。

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