5


 朝食の食器を流しへ運び、出かける準備をする。

 ネクタイが曲がっている、と〈彼女〉に言われ、鏡の中で直す。

 玄関まで、彼女が見送りに来る。行ってきます、とこちらが言うと、行ってらっしゃい、と頬をわずかに朱くしながら言う。

 何かを待っているようでもある。俺は〈彼女〉から、〈彼女〉の映ったタブレットを抱える彼女本人へ目を移した。

「どうぞ」

 何でもないように言われて少し迷ったが、時間もないのでその頬に軽く口づけをした。人肌とは思えない、冷たく固い感触が唇に触れた。離れてみると、された方は顔色一つ変えていない。画面の中のアバターだけが、照れてうつむいている。

 バス停の列に並ぶ。誰もが前を向いたまま直立している。バスが来る。乗り込む。空いているスペースに、自ずと流し込まれる。

 駅に着き、人流に従って改札を通る。満員の電車が来る。乗る。乗客の一人となる。ここに俺という個人はいない。満員電車の一部として、都心へ向けて運ばれていく。電車を降りれば都市の、あるいは社会の一部としての、仕事が待っている。

 家に帰れば自分を取り戻せるかといえば、そうでもない。あそこにだって本当の俺はいない気がする。

 どこでいなくなったのか。

 そもそも初めからいたのか。

 今となってはわからない。

 このまま、見えない何かが選んだものを己の選択として受け入れていくのか。

 何かの代理として生きていくのか。

 そうかもしれない。

 まあ、下手をこくよりはずっといい。

 電車が荻窪を過ぎたところで、拡張視界に個人広告が表示された。子供の誕生、会社での昇進、マイホーム購入、子供の受験——。これから起こるであろうライフイベントをAIがシミュレートし、最良の人生設計を提示するというサービスの宣伝だ。それに従ってさえいれば、順当な人生を歩むことができるのだろう。

 広告の詳細を表示する。半透明のウインドウの向こうでは、車窓の景色が右から左へ、音もなく流れていく。それを止める術はない。少なくとも、俺は持っていない。


(了)

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代恋愛 佐藤ムニエル @ts0821

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