Episode 06
世界に音と光が戻ってくる。私は思い切り息を吸い込んで枯渇しかけていた酸素を全身に送る。間一髪、どうにか間に合った。未だ整わぬ呼吸に激しく肩を上下させながら一人海に浮かぶ。
その時、どこかから大気を震わせるような凄まじい轟音が鳴り響く。霧のせいで何が起こっているかはよくわからない。まさか基地から放たれた魚雷が潜水艇に命中したのだろうか。しかし考えがまとまる前に今度は足元の水中から強い衝撃を感じる。こちらはおそらく私が乗っていた潜水機が爆発した衝撃だろう。そう冷静に分析してみるが、体力を使い果たした体では衝撃によって引き起こされた波に抗うことはできない。再び海中に飲み込まれた私は必死にもがく。どうにか水面に浮上するが、もはや方向感覚は完全に失われてしまった。何か浮きになるようなものはないかとあたりを見回すが、この霧ではほとんど何も見えない。水飛沫がまるで雨のように私の上に降り注ぐ。もうどうすることもできそうになかった。
どれほどの時間泳ぎ続けていただろうか。足が疲れてもう動きそうにない。私は仰向けになってただ海面に浮かぶ。辛うじて息はできるがあまり長くは持たないだろう。霧の向こうからうっすらと太陽の日差しが差し込んでいる。
海から生まれ海へと帰る。生物としては自然なことかもしれない。遺体を海に葬る風習もあるそうだから、人間としても間違いではないだろう。そんなことを考えながら波に揺られていた。できれば再びこの海に生物が戻ってくるその光景を見てみたかったが、どうも叶わぬ夢らしい。次第に遠のいていく意識の中で思い浮かんだのは、船上からマッコウクジラを眺める姫の姿だった。
好きなものをただ掛け合わせただけの、子どもじみた実に単純な構図だ。人間というのは本当にどうしようもない生き物だな。
どうか彼女が、望むように在り続けられますように。いるかどうかもわからない機械の神に私は祈った。
海は赤く染まっていた。人間も魚も鯨も、全てがただの死骸になって水中に浮かんでいる。私の体はその中をゆっくりと沈んでいく。直に私も死骸の一つに加わることになるだろう。
海は古の人々にとっては信仰の対象だった。海が荒れた際にはそれは神の怒りだと考えられ、贄として人間が海中に没することで海を鎮めた。そういった伝説を聞いたことがある。この廃海にも神はいるのだろうか。私はその贄足り得るのだろうか。生物学者の私にはわからない。
死に満たされた赤い世界の中で一隻の潜水艇だけが動き回っている。果たすべき役割が消失してしまったことを知った時、そこに搭載された精巧なAIは何を考えたのだろう。姫は人に近づこうとし、そして人に尽くすことを選んだ。この機械鯨は兵器として全てを破壊しつくすことで、最後までその存在意義を果たそうとしたのかもしれない。それはまさに海を司る荒ぶる神のようだと思った。
何かモーター音のようなものが聞こえる。私はゆっくりと目を開けた。冷え切ってはいるが体の感覚はある。どうやらまだ死んだわけではなさそうだ。
「シマザキ、意識が戻ったのかい?」
その機械的な声には聞き覚えがあった。私はメディックに抱えられて海面を泳いでいた。いつのまにか救命ジャケットも着せられている。
「メディック……!? どうしてここに……」
「君との通信が途絶えてすぐ姫の指示で海に出たんだ。私の役割には人命救助も含まれるからね。間に合ってよかったよ」
そう言うとメディックはゆっくりと私から離れる。あらためてその姿を見ると、背中に推進機らしきものが強引に溶接してあった。
「エンジニアに海でも移動できるようにしてもらったんだ。とはいえこんな運用は想定外だ。耐水性の低い私ではそろそろ限界だろう」
「メディック……」
「姫は私たちにとっても特別な存在だ。彼女がいなければとっくにあの潜水艇のようになっていただろう。こんなことを言うのはおかしいかもしれないが、どうか姫のことを頼む」
「……ああ、わかった」
私の返事を聞くとメディックは満足したように海中へと沈んでいった。
基地はもうすぐそこだ。私は最後の力を振り絞ってまた泳ぎ始めた。
「おかえりなさい、シマザキ」
「ああ……ただいま」
「潜水艇は破壊できたわ。作戦成功ね」
「……エンジニアとガンナーはどうしたんだ」
「今はスリープモードに入ってる。施設の電力を使い過ぎたから、当分は私しか動けないわ」
「そうか」
目的を果たした今となっては些末なことだ。姫がいてくれるならそれでいい。私は軽くシャワーを浴びてから医務室のベッドに倒れこむ。姫は私の体に寄り添って、その電気式の体温で私をゆっくりと温めてくれる。
「ねえ、一つお願いがあるの」
「なんだい?」
「もしこのままあなたに助けが来なかったら、その時は私を壊してほしいの」
「それは——」
「機械と心中なんてやっぱり嫌かしら?」
メディックの最後の言葉が脳裏に蘇る。きっと「姫を頼む」というのは、単に気にかけてやって欲しいという事ではない。私にしかしてやれないことがあるからこそ、メディックはああ言ったのだろう。それはつまり、機械として破綻してしまう前に終わらせてやるという事。役割に縛られる者としてのプライドのようなものを、私は彼らの在り方に感じた。
「……わかったよ、姫。その時は君を壊すと約束する」
「ありがとう。優しいのね」
これでできることは全てやったはずだ。今となっては救助が来ても来なくても、どちらもあまり違いはないように思えた。アンドロイドたちにとっては活動時間というのはそれ自体では何の意味も持たない。大事なのは己の役割を果たせたかどうか、その一点だけだ。
では人間に与えられた役割とは何なのだろうか。機械を作り、機械に生かされる存在。救いを与えるものが神であるのなら、機械を終焉という救いに導けるのは人間だけであり、それ故に機械の神は人間でしかありえないのだろう。私はただ、姫を救いたいと思った。
冷え切った体が少しずつ温度を取り戻していく。波のように打ち寄せる睡魔に身を預け、私は深い眠りに落ちた。
「こんなに大きいのね。こうして見ると確かに鯨の仲間って感じがするわ」
「これでもまだ小さい方だ。野生の個体にはもっと大きいのもいる」
「シマザキさん、職場に愛人を連れてくるのはやめてもらえませんかね」
「あら、これでも一応助手ってことになってるのよ。愛人って響きも悪くないけどね」
「そういうことだ。まあ今日だけ勘弁してくれ」
「でもなんでシャチなんです? 鯨を見に行く機会なら他にもあったでしょうに」
「私が好きなのよ、シャチ」
「……本当に変わったアンドロイドだなぁ」
「そこがいいのさ。従順なだけじゃつまらないだろう?」
「そういうものですかね。……はぁ、俺もどこかで拾えないかな」
巨大な水槽の中を泳ぐシャチはまるで誰かに感謝を告げるように元気よく鳴いた。
機械鯨と廃海の姫 鍵崎佐吉 @gizagiza
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