蛙は初めて冬を知る

一齣 其日

蛙は初めて冬を知る

 ずっしりと重くのしかかってくるような鉛雲は延々と空を覆い尽くし、陽の光ひとつ地面には届いちゃくれない。

 びゅうと吹きつけた風に肌が凍るようだ。吐く息ももう惚れ惚れするほど真っ白に染まっていた。


 そうか、冬というのはこういうものか


 己が吐く息で、初めて冬を知る。

 生まれてこの方十年か、随分と生きたと思う。

 人間様から見れば、取るに足らない年月だろうが、おいらからしてみれば随分と生きたものと思う。

 そうさ、おいらは蛙、踏み潰されれば一息でお陀仏なちっぽけな蛙さ。

 蛙の目線で十年とは長生きも長生きだ。共に生まれた同胞達は、皆々子をたんまり作って、土へと帰っていったさ。

 しかし、おいらは寂しく一人取り残された。

 この体が頑丈なだけか、それとも未練がましく現世にしがみついてるだけか。

 ただ、せっかく長く生きてしまったのだ、何か死んじまった奴等が面白がるような、土産話が欲しいと思った。

 おいらの生涯に語れるような武勇伝があるわけでも、心が躍るような冒険譚もあるわけでもない。

 みんなと同じように生きていただけだ。

 振り返るとやはり、どうして十年も生きてしまったのか、余計にわからなくなってくる。

 いや、生きてしまった理由なんてどうでもいい、重んずるべきは今だ。

 今どうするか。

 などと考えていたら、どうしたことか考えすぎてしまっていたらしい。

 十年目の春が散って、新たな命が芽吹く夏が終わり、寝ぐらを探す秋が通り過ぎようとしている。いつもの寝ぐらはすでに若い衆に取られてて立ち行かなくなってしまった。

 どこぞで自分で作ればいい話、とはいえ十年目の体はガタがきて、足腰だって歩くのが精一杯だ。生きながらえてこれじゃあざまあない。

 人間どもが舗装したコンクリートの道をとぼとぼと行く。

 そうこうしているうちに、いつの間にやらこの身体は冷たい風に当てられていた。

 寒い、これが寒い。

 体がぶルルと震えて、足を出すのも億劫になってきた。

 冬が、追いついてきた。


 こんなにもしんどいもんか、冬とは


 十年目、初めての冬は老体に鞭打つような代物だった。

 びゅうとまた、肌を刺すような風が吹きつける。

 おお寒い、心底寒い、寒過ぎる。

 冬がこんなに過酷とは知らなかった。

 皆が皆、冬は次の春に向けて子を作るためにぐっすりと眠るのだと言うものだから自然と流されて眠っていたが、こりゃあ眠らざるを得ない。

 死んじまうぞ、こんな休む間も無く冷たい風が刺してくるんだ、外に出ていたらどうしたって凍え死んじまう。

 視界が霞む、体の感覚だって遠い。

 とっくに死んでりゃあよかった。

 知らないものも多い蛙生だったが、このしんどさは知らない方がずうっと良かった。

 ふと、上を見上げる。

 鉛空の厚さが増して、こちらに近づいてきているように思えた。

 もしかしたら、おいらの方が近づいているのかもしれない。

 お陀仏が近くて、いつの間にやらだんだんと天に昇っていっているのかもしれない。

 遂に足が止まった。

 身体を動かす気力もない。

 限界だった。

 若かったならもうちっと頑張れたのだろうが、十年目の老体は悲鳴に音を上げた。

 

 おいらはなんでここまで生きた

 おいらは、この冬の過酷さを知るためだけに、生きたのかよ


 思えば、冬の話を聞いたことなんてなかった。

 皆寝ちまってたんだ、知っている奴がいる方がおかしい。

 誰かがこの過酷さを知っていれば、こんなことにもならなかったんだろうか。

 もうちょっと真面目にねぐらを探したり、早く準備だってしたんだろうか。

 誰かが……でも、その誰かは一人だっていやしない。

 誰も知ろうとしなかった。

 知らなくても、よかった。 

 こんな過酷さ、知らない方がずっといいに決まっている。


 ……その時だった、チラリと白いものが降ってきたのは。


 どうしようもなくなって、ぼんやりと眺めていた鉛雲から、花弁のような白いものがチラチラと降ってきた。

 何が降ってきたのか、見当もつかなかった。

 ただ、綺麗だった。

 綺麗なのは確かだった。

 一つ、二つ、四つ、八つ、白いものは目に映るだけでももう捉えきれなくなってきた。

 老体の、力のこもらない腕を頑張って伸ばして、白いものを掴もうとする。

 思いの外降ってきたそれは、運良く掌へと乗っかった。

 白くて、やっぱり綺麗で、これがなかなか何度も吹雪く風よりも冷たい。その冷たさに思わず覗き込もうとしたら、綺麗さっぱりに無くなっていた。

 確かにおいらは掴んだはずだ。

 この手の感触に冷たさだって残っている。

 なのに、白いものは跡形も無い。

 道路には白いものが降れば降るほど、いつか見た白百合のような咲き誇りようを見せているってのに、おいらの手に乗っかったものは跡形も無いのは何故だ。

 白いものはまだ降ってくる。チラチラだったものが、いつのまにかハラハラとなってきた。

 降れば降るほど、寒さは容赦なくおいらの体を襲ってくるが、そこにもうしんどさはかけらもなかった。


 面白え、冬たあ存外過酷だけじゃあねえんだなァ


 何故、この掌に掴んだはずの白いものが消えたのかは終ぞ分からなかった。

 何故道路にはこんなにも白いものが咲き誇るのか分からなかった。

 そうだ知らない、分からない。

 分からないことは、面白い。

 この分からないは今、おいらの目の前だけに広がっている。

 この光景は、おいらだけのものだ。

 どうやら、冬の過酷さにくたばるのはまだまだ早いらしい。

 いや、敢えて言おう、くたばるのはまだ御免だと。

 おいらはお前を知りたい。

 気づけば一面を白の世界で染め上げていく、誰も知らないお前のことをもっと知りたい。

 力も無かった老体が、面白いものを目にした途端、漲るような気力に溢れる。

 現金なやつだと、言いたいやつは言えばいい。誰も彼も寝ているものだから、このおいらの姿も白いヤツも知らないだろうがね。


 十年目、おいらは冬を知った。

 冬の過酷さと、未知なる美しさを、おいらは知った。

 誰も知らない冬を知った。

 十年を生きる蛙は土産話に、白に広がる冬に足を伸ばし、そして駆けた。

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