第12話


 母の護衛騎士に伴われ、エリーシャは村外れにひっそりと停められていた馬車へ乗った。貴人が使うような乗り心地に特化したものではなく、荷台に幌をつけただけの簡素なものだ。

 随行の男たちは一人が御者席に、他は繋がれていた馬へ乗った。

 急ぐ馬車の乗り心地はひどいものだった。そもそも北の大地は舗装された道などない上に、荷車に近い馬車だ。母の護衛騎士は幾度もエリーシャを気遣う言葉を述べた。

 合間、母の護衛騎士は今の王国の現状をエリーシャへ語った。

 エリーシャが聞き出したのではない。彼が自らが語り出したのだ。


 エリーシャが想像していたよりもずっと、王国の状況は悪かった。

 砂の国との戦争は撤退に次ぐ撤退を余儀なくされ、王国の各地では火石の鉱山が次々と枯れている。

 貴族たちは砂の国に近い場所から続々と北へ逃げ出している。他国との戦争なぞ、三代前の王から起きていなかったのだ。平和に慣れきっていた貴族たちが己の本来の仕事を忘れるのは容易かっただろう。

 領主がそんな有様だ。領民たちも土地を捨て逃げ出すか、土地を守るため独断で砂の国へ降伏した。

 火石が採れなくなったのは、そうして採掘の指揮を取る人間と、実際に掘る人間の両方がいなくなったのが一番の理由ではないか、とエリーシャは思っている。

 長く続く戦争で枯渇するのは物資だけではない。兵士の数も圧倒的に足りていない。王国が有する兵士も騎士も、ほとんどが戦乱の中に散った。

 残された少数の騎士は、母の護衛騎士のように王家を守るための者がほとんどで、戦場に立つのは地方から召集された雑兵ばかり。無理矢理に連れてこられた彼らに国を守る義務感や王に対する忠義などあるはずもなく。無惨に殺されるか隙をついて逃げ出すかしている。

 北の村から連れて行かれた男たちも、そんな雑兵の一員にされたのだろう。彼らが無事に逃げ出せているように、とエリーシャは密かに祈った。

 王国の戦争に必要な人間は兵士だけではない。癒し手と呼ばれる、癒しの力を持つ女たちだ。かつては国王直下の騎士団に癒し手の一団も据えられていたらしいが、平和な世が続いていた今では形骸化し、癒しの力を持つ者は数名だけになっていたはずだ。

 癒し手は戦場で傷ついた戦士たちを癒し、また戦場へ送り出す役目を持つ。王国がかつて武を誇っていたのはこの癒しの力のおかげもある。

 王国が金貨を積んでまで癒しの力を持つ者を探していたのは、そのためだろう。きっと残っていた騎士団所属の癒し手たちは、もうこの世にいない。

「──エリーシャルトさまが生きておられたのは、きっと大地母神さまのお導きでしょう」

 母の護衛騎士は疲れ切った顔に笑顔を乗せていた。希望に満ちた笑みだ。

 彼はエリーシャが非常に強い癒しの力を持っているとその身をもって知っていた。「母の」護衛騎士であるため、エリーシャの断罪に際し発言権は無く、また断罪の場にもいなかったが。

 なぜエリーシャが北の果ての村にいたのか、知らないわけではないだろう。エリーシャが抵抗もせず馬車に乗ったからか、エリーシャの協力を得られると思っている様子だが。

 触れるだけで瀕死の重傷を癒し、病を消すエリーシャの癒しの力。それさえあれば、砂の国の侵攻を止められる。

 彼は本気でそう思い込んでいる。

「あなた様がいらっしゃれば、我々も心強い」

「……ええ」

 エリーシャは曖昧に微笑むだけに留めた。


 馬車から降ろされたエリーシャが見上げた空は、茜色に染まっていた。ハンナの髪に似た色。村に置き去りになってしまった彼女は、今何を思い、何をしているだろうか。

 感傷に浸るエリーシャの眼前。聳え立つのは左右に伸びる石積みの城壁。もう二度と見ることはないと思っていた監獄の門だった。

 母の護衛騎士に先導され、門をくぐる。

 北の果ての監獄は、エリーシャが知る頃とはだいぶと様変わりしていた。

 苦役に向かう囚人の列はなく、忙しく立ち働くのは侍女や下男。看守の代わりにそちらこちらに立っているのは騎士や兵士。

 母の護衛騎士によれば、この監獄は臨時の砦となっているのだそうだ。滞在しているのは戦場には立てない王族たち──女や子供だ。戦線はまだ王都から遠いが、万が一のことを考え、国王が避難させたのだとか。

 囚人の姿はどこにも見当たらなかった。みんな兵士として最前線に送られたのか、それとも。

 エリーシャは監獄ではなく、そこから少し離れた場所に建てられた屋敷へ案内された。監獄の全権利と責任を負う、監獄長が住まうための屋敷だ。

 この屋敷の主人である監獄長は不在である、と母の護衛騎士は言った。囚人がいなければ、看守も彼らを統率する監獄長もいらない。ゆえに最重要任務である国防を担ってもらっているとか。……つまりは最前線送りだ。

 哀れな監獄長に代わり、今この屋敷と監獄の全権を握っているのは、この場で最も貴い方──王姉殿下、つまりはエリーシャの母親であるのだそうだ。

 当たり前であるが、屋敷は監獄とは比べようもない豪奢な作りをしていた。落ち着いた調度に、柔らかな敷物。重厚な扉と壁は隙間風のひとつも通さない。

 屋敷の中の侍女や下男は、エリーシャの姿を見ると皆ギョッとしたような表情を浮かべた。すぐさま表情を取り繕い頭を下げるが、護衛騎士が連れるあまりにも異質な姿の女性に驚きと疑問が隠しきれていない。

「どうぞこちらでお寛ぎください」

 母の護衛騎士はエリーシャを屋敷の二階にある部屋へ通し、立ち去った。主人──エリーシャの母に、エリーシャのことを伝えに行ったのだろう。

 その部屋は客室のようであった。窓には厚いカーテンがかけられ、清潔なシーツのかけられたベッドと二人がけのソファセットがある。広くはないが、上品で落ち着いた部屋だ。

 護衛騎士が退出していくらも経たないうちに二人の侍女がやってきた。その手には一揃いの清潔そうな衣服があった。

「湯浴みのお手伝いを、と……」

 二人は困惑とわずかな恐怖の入り混じった表情でエリーシャに切り出した。侍女とはいえ、王族に侍るのは貴族の子女がほとんどだ。髪も短く、見るからに野蛮な女の世話を命じられるのには戸惑いしかないだろう。

 エリーシャは侍女たちの申し出を丁寧に断り、代わりに桶一杯の湯とタオルだけをもらい、下がらせた。

 北の果てに追放されてからというもの、エリーシャは入浴という習慣から遠ざかっていた。夏であれば川で洗濯をするついでに水浴びをするのだが、冬ともなればそうもいかない。湯で濡らしたタオルで身体を拭くのがせいぜいだ。それも二、三日に一度。

 ハンナや村人たちと接する間は気にしていなかった。何せほとんど変わらない生活だ。が、貴族と接するのには、確かに今のエリーシャの汚れ具合は気になるだろう。

 侍女が置いていった衣服は、簡素ではあるが仕立ての良い下着と普段着のドレスだった。これに着替え、王姉殿下との謁見に備えよ、とのことなのだろう。

 湯で身体を拭き清めたエリーシャは、渡された衣服には袖を通さなかった。ずっと着たきりのシャツとズボンに革のベストを再び身につけ、白い狼の毛皮を羽織る。

 まるで見計らっていたかのようなタイミングで客室の扉がノックされた。誰何はせず、エリーシャは入室を許可する。

 やってきたのは先ほどエリーシャに入浴を勧めてきた侍女の一人だった。ドレスに着替えずにいるエリーシャに対し困惑の目を向けるが、疑問は口に出さず一礼する。

「お食事をお持ちしました。王姉殿下さまは、明日の朝お会いになられるそうです」

「そうですか」

 エリーシャは侍女が食事を配膳し、湯桶を下げるのを黙って見ていた。侍女は一礼して去っていった。

 供された食事はパンとスープと肉料理だった。北果てでの生活を思えばご馳走だが、王族の客人をもてなすのには貧相である。

 エリーシャは出された食事をしっかりと平らげた。白く柔らかいパンをハンナに食べさせてやりたかったが、ポケットに入れておくわけにもいかない。残念に思いながらも食べ切った。

「それではごゆるりとお寛ぎください。何かあれば何なりとお申し付けを」

 食事を下げに来た侍女は慇懃に一礼する。

 火石ランプの灯された部屋は静かだった。窓にかけられたカーテンを捲り外を見下ろせば、すっかり夜になっている。眼下を歩哨の持つ灯りがゆっくりと流れていった。

 エリーシャはベストもズボンも着たまま、ブーツも脱がず、ベッドへ仰向けに寝転がった。上等なベッドは柔らかく、羽布団はきっと潜り込めば軽く温かい。

 寝心地の良い寝台に寝転がりながらも。エリーシャが思うのは、あの北の果ての森にある小屋と、そこにある硬く粗末なベッドのことだった。



 翌朝。朝食を取ってしばらくの後、母の護衛騎士がやってきた。

「謁見の準備が整いました。こちらへ」

 着替えなくて良いのか、と尋ねられたが、

「この格好が落ち着くので」

 とエリーシャは断った。

 案内されたのは一階にある広間だった。両開きの扉が従僕たちに開かれる。

 入ってすぐ目に入るのは緑溢れる庭だ。扉の真正面に据えられた大きなガラス窓越しに見える。小さな池もある庭はきっと春には花で溢れ、来訪者の目を楽しませていたのだろう。手を入れる暇がないのか、今は荒れ気味だ。

 天井も高く、豪奢なシャンデリアの吊るされた広間は、かつては監獄長の友人や家族が集まり、茶会や夜会を行なっていたのだろう。

 今は広間の中央にソファとローテーブルが置かれ、応接室の代わりになっている。

「エリーシャルト」

 庭を背にしたソファから立ち上がったのは、見目麗しい女性だ。艶めく長い髪に、おっとりとした目元。古式ゆかしくも上品で気品のあるドレスの胸元は豊かで、そこから続く腰もたおやかだ。

「……お母様」

 エリーシャの母は、老いてなおその美貌に磨きがかかっていた。

「さあ、こちらへ。……あなたは下がって良いわ」

 母親は微笑みながらエリーシャを手招き、連れ立つ護衛騎士には退出を命じた。

「しかし」

「下がりなさい」

「……は、」

 母の一言で護衛騎士は一礼し、退出した。

 それを待っていたかのように、侍女たちが動き出した。ローテーブルに粛々とティーセットが並べられ、湯気の立つテーカップが三つ並べられる。

 エリーシャはソファには座らず、立ったまま母親と向き合っていた。

 そんなエリーシャの頑なな様子に母親はふっと息を漏らした。

「息災で安心したわ」

 言いたいことはエリーシャの頭の中で渦巻いていたが、まずエリーシャは母親の左隣のソファへ視線を向けた。

 母の座る二人がけのソファ。その左に配置されているのは肘掛けが片側にだけあるソファ──寝椅子だ。ビロード張りで寝心地の良さそうなそこには、一人の女性がしなだれかかっていた。背もたれの後ろには侍女が二人、気忙しげな様子で立っている。

「……そちらの方は」

「アティールティ王太子妃とお呼び!」

 怒鳴り声が響く。女性は今にも噛みつきそうな表情でエリーシャを睨みつけている。だが叫んだのが応えたのか、苦しげに胸を押さえ呻いた。侍女が慌てて水の入ったグラスを差し出す。


 アティールティ。その名前でようやくエリーシャは思い出した。

 彼女こそが、エリーシャを偽者の聖女だと告発した子爵令嬢、その人だ。

 当時は輝くような美貌に子犬のような人懐こさを持ち、良くも悪くも社交界の注目の的となっていた。

 今は。

 玉の肌は土気色に枯れ、当時も十分細かった手足は枯れ枝のように痩せ細り、ゆったりとした夜着から覗く胸元は痛々しいほど肋が浮いている。絶えず笑顔を振り撒いていた花の顔(かんばせ)は憎しみと屈辱に染まり、猛禽のような視線をエリーシャに向けている。

 何か悪い病に侵されているのだろう。触れずともエリーシャにはわかった。


 彼女の所業を思い出してなお、エリーシャの内に湧き上がる感情はなかった。

 王太子妃、と自ら名乗ったのだから、元はエリーシャの婚約者であった王子と結婚したのだろう。砂の国の王子との決闘の末散った、現王唯一の王子。

 ではその後ろに控える少女は。

「あら」

 エリーシャの視線を追った母は、今気付いたとばかりに呟いた。

 アティールティが寝そべる寝椅子の後ろ、二人の侍女が控えるそのさらに背後。壁際に控える年嵩の侍女の後ろから、一人の少女がこちらを伺っていた。

 金を紡いだような髪に、鮮やかな新緑色の瞳。愛らしい顔立ちはアティールティによく似ている。年のころは三つか四つくらいだろうか。

 人見知りにはにかみながらも、抑えきれない幼児の好奇心でもってエリーシャを見つめている。

「王子とアティの娘よ。可愛らしいでしょう?」

「姫なんて嫁にやるしか使い道がないわ」

 微笑ましげな母の言葉にアティールティの吐き捨てた台詞が被さった。

 少女の表情が曇り、侍女のスカートに隠れる。

「私は王子を産むのよ。丈夫で、賢くて、強く美しい王子を……」

 その言葉はうわ言めいて、誰に向けるものでもない響きを伴っていた。

「私は国母になるの。卑しい平民の子、洗濯婦の娘と私を蔑んだあいつらみんな、私の足元にひれ伏すのよ」

 恨みつらみ、妬み嫉み。暗く澱んだ感情の発露がそこにあった。

「私が産むの! 平民の子の私の血が! 王家に入るのよ!」

 血を吐くような叫びと共に痩せ細った指が寝椅子に食い込んだ。何をしてでも生き延びてやる、という生への執着がその爪に込められている。

 ギラギラとした瞳はエリーシャを睨みつける。

「だから私を癒しなさい」

「……私は癒しの力を持たないはずでは?」

 エリーシャの皮肉にアティールティは歯噛みする。

「王太子妃は姫の出産と同時に癒しの力を失ったのです」

 母親の澄んだ声は広間によく響いた。

 振り向くエリーシャにおっとりとした微笑みが向けられる。

「追放後のことはわたくしの騎士から聞きましたよ、エリーシャルト。

 北果ての森での厳しい暮らしの中、罪を悔いたあなたは本当の癒しの力を得たのですね。

 大地母神はあなたをお許しになられたのです」

 母親が両手を広げると、蝶の羽のようにその長い袖が広がる。光沢のある絹地の羽は、年を経て麗しい容姿と合わさり神々しく見える。

 今のエリーシャにはそれがどこか演劇めいた仕草に思えた。

「エリーシャルト。大地母神からの許しを与えられたあなたには、王国から恩赦が与えられます。

 今ここで癒しの力を示し、癒し手として王立騎士団へ入りなさい。

 その癒しの力を王国のために使い、尽力した暁には「救国の聖女」としてあなたの名誉は回復されるでしょう。

 侯爵家から男子を入夫させ、ラブラドライトの家名を復活させましょう。あなたには妃専属の癒し手としての地位を与えます。

 ……エリーシャルト、もう野良犬のような暮らしをしなくて済むのです」


 なるほど、『そういうことになっている』のか。

 慈愛に満ちた視線を前にエリーシャは心中で頷いた。


 偽の聖女として追放した手前、どんなに強い力をもっていたとしてもエリーシャを癒し手に任命できない。それは王太子妃アティールティの告発が間違いであったと認めることになる。ひいては、アティールティの告発を真であるとした王家の判断も間違いになる。

 王家が間違いを犯してはならない。

 王家は、国王はいつだって正しくなければならない。

 ゆえに、エリーシャの母である王姉は筋書きを書いたのだ。

 「偽聖女エリーシャルトの癒しの力は追放後に芽生えたものだ」と。

 その癒しの力こそが、エリーシャが自らの罪を悔い、大地母神から許しを得られた証なのだ、と。


 これにより王家の間違いは「間違い」にはならず、エリーシャの名誉は回復され、エリーシャが癒し手として活躍することにより国も助かる。

 王姉、エリーシャの母が思い描くのは、そういった未来だ。

 そしてエリーシャがこの判断を喜ぶと思っている。

 慈愛と自信に満ちた表情が、そう物語っている。


 エリーシャは母を真っ向から見据える。

 生まれてこの方、そんなことをしたことはなかった。ただ目を合わせ、顔を合わせて話すのでさえ、かつてエリーシャの母は「不敬である」とエリーシャを厳しく叱っていたのだ。血の繋がった、親子であるのに。

「ひとつお尋ねしてもよろしいですか」

 ええ。と母は鷹揚に頷いた。

「……どうして私を追放したのですか」

 柳眉を寄せ、母親は沈痛な面持ちを作った。

「仕方がなかったのよエリーシャルト。あなたを王子と結婚させるわけにはいかなかった。

 あなたには、王家の血がすでに流れている。……これ以上血を濃くするわけにはいかなかったの」

 エリーシャの母は現王の姉。エリーシャと婚約予定だった王子はいとこ同士だった。

 いとこ、はとこ、叔父と姪。権力と財産が散らばるのを防ぐため、親族間での婚姻は王家にはよくあることだった。

「貴女も知っているでしょう? 現王の身体の弱さを。

 そして成人まで生きられた王子はただ一人。他はみな産まれることもできず、産まれてもすぐ……」

 幾度もあった悲劇のことはエリーシャも知っている。国王の妃もまた王家の血筋のものであり、王子の前に生まれた兄や姉は産声を上げぬまま鬼籍に入った。

 そして王子のあとに生まれるはずだった弟と共に、妃も儚くなった。

 家臣がみな優秀であるから国の運営に支障を来たしてはいなかったものの、現王は若い頃から公務を休みがちであった。老いた今は一刻も早く王子を一人前にしなくては、とことあるごとに語っていた。

 それは現王だけではない。予兆は先王の時代からあった。

 同じ血筋でつがい続けた結果表れるという、薬も癒しの力も効かない血の病。

「王家から遠い血が必要だったの。ずっと遠い、卑しくとも強い血が……

 それが王家を存続させるために、必要だったのよ」

 そのときエリーシャが思ったのは、北の森で共に過ごしてきた犬たちのことだった。

 ずっと同じ群れの中でつがい続けてなお、丈夫で強い犬たち。共に暮らし始めた白色と灰色の狼と、顔立ちがとても近い、野性に溢れた犬たち。


 アティールティは、王族という血統に混ぜられた狼だったのだ。


「王子との婚約を破談にしたかったのであれば、お父さまにそう言えばよかったでしょう?」

「あの人は私がいくら訴えても聞く耳を持たなかったわ。もちろん、あの子も」

 王姉である母親が「あの子」と呼ぶのは実弟である国王その人であろう。

 現王とエリーシャの父親は幼い頃からの知己だった。父親がことあるごとに現王を「無二の親友」と呼んでいたのをエリーシャは知っている。

「男の友情とは面倒なものね。……だからあの人には消えてもらわねばならなかった」

「だからと言って、私も追放するなんて」

「あなたが残っていたのであれば、あの子が約束を反故にできないでしょう?」

 エリーシャの父親の不正を現王は信じた。その程度の信用関係で、国王はその娘であるエリーシャを次期王妃の座に据えただろうか。

 据えるかもしれない、という可能性ごと、母親は切り取りたかったのだ。


「……王子はすでに死んだと聞きました」

「何も王家の血は王子からしか受け継がれないわけではないでしょう?

 現王はご存命なのだから」

 うっとりと微笑む母親は一枚の絵画のように美しい。

 その美しさの中に、エリーシャは得体の知れない恐ろしさを感じていた。それは自分の理解の範疇を超えた現象を前にした感情と似ている。あまりにも高すぎる断崖から見た景色。雪解けの湿原を埋め尽くす蝶の群れ。

 王家を存続させるため、王子の子ではなく、その父親──現王の子を産む。

 アティールティはそれを了承しているのか。エリーシャがちらと見やった彼女は、もはや半分以上瞼を閉ざしていた。その顔色は蒼白を超え紙のように白い。そばに控える侍女たちが、温めようとしてか肩や腕を摩っている。

「私が産むのよ……王家の子を……」

 意識を朦朧とさせながらも、アティールティは呟いていた。自らの野望を。王姉の本懐を。


 エリーシャの母親にとって、我が子であるエリーシャも、夫であるエリーシャの父親も、哀れなアティールティも。きっと自分自身ですらも。

 この国の全ては王家を存続させるための道具でしかないのだ。

 王家を存続させるためならば、夫であろうと謀殺できる。

 王家を存続させるためならば、我が子であろうと北の果てに追放できる。

 王家を存続させるためならば、結婚し娘まで産んだ相手の父親と子を成せと命令できる。

 野に生きる獣ですら行わない非道。それすら軽々と行って見せる。

 エリーシャの母は、そういう生き方しか知らないのだ。


「ねえ、理解してくれるわよね。エリーシャルト」

 エリーシャの両手を掬い取り、エリーシャの母は哀願する。白く滑らかな指先は、幼い日のエリーシャがいくら願っても与えられなかった。温かで柔らかく、傷ひとつない手触りだ。

 この手に撫でられるために、エリーシャはどんなに辛い教育だって耐えてきた。

 今、あっさりと与えられたその感触に、今のエリーシャはなんの感情も得られなかった。

 やっと私を見てくれた、という喜びも。

 今更何を言うんだ、という怒りも。

 実の娘ですら道具としてしか見れないのか、という哀れみも。

 何もなかった。

 そのことにエリーシャはひどく安堵した。母親のことも、アティールティのことも、エリーシャにとってはもう「終わったこと」だったのだ。

 今願うのはただひとつ。


 エリーシャが求める手は。

 こんなに白くも滑らかでもない。


「お母さま」

 エリーシャはじっと母親の目を見た。エリーシャと同じ鮮やかな空色の瞳。

 息を吸い、言葉を紡ぐ。

「私、ラブラドライトの家名も聖女の名誉もいらないわ。

 王都での暮らしも大きなお屋敷も綺麗なドレスも宝石もいらない。

 ……私、野良犬のままでいい。

 私にはもう私の群れがあるの。

 私には何もなくたって私を愛してくれる人がいるから。

 何もなくたって愛したい人がいるから。

 ……あなたは私の群れじゃない。

 あなたは、私の群れにいらない」

 母親の笑みが凍りつく。

 エリーシャは彼女の手を押し除ける。自然と湧き上がる笑みは、愛おしい人を想う時に溢れる胸の高鳴りに呼応している。

「野良犬の生活だって、いいものだよ」



 遠吠えが聞こえた。



 王姉殿下、と誰かが叫ぶ声と、ガラスが砕け散る破砕音が重なる。エリーシャはすでに駆け出している。誰の手も入っていない、銘々が方々に枝葉を伸ばした緑の庭へ。

 広間と庭とを隔てるガラスは無くなっている。粉々に砕けたそれは広間の床に広がり、陽の光を浴びて満天の星空のように煌めいている。

 今まさに振り下ろした鉈を手にした人物は、エリーシャの姿を捉えている。その身に纏う黒に近い灰色の毛皮。逞しく長い手足。広く豊かな胸。春の新芽色の瞳。

「エリーシャ!」

 広げられた両腕の中にエリーシャは飛び込んでいる。抱き止める腕の力強さに、鼻腔をくすぐる甘酸っぱい汗の匂いに、心から歓喜している。

「ハンナ……!」

 その名前の響きのなんと美しいことか。

「怪我してない? 嫌なことされてない?」

 気忙しげに身体をまさぐる大きな手がくすぐったく、エリーシャは思わず笑い声を上げる。

「大丈夫。ありがとうハンナ」

 再会の抱擁を交わす二人のそばを、幾つもの影が駆け抜けていく。黒、灰、白、薄茶。様々な色の毛皮を纏った、犬たち。

「きゃあ!」

「王姉殿下! こちらへ!」

「王太子妃様をお連れして!」

 広間の端に控えていた侍女たち、そして騒ぎを聞きつけた護衛騎士たちが王姉とアティールティを囲む。

 犬たちは彼らに牙を剥き、吠えたてる。侍女たちはただ怯えるだけだが、騎士たちは剣を抜き、振り払う。

 犬たちはその鋭い刃が届く距離には近づかない。騎士に飛びかかるでもなく、ただ吠え、威嚇するだけだ。

 エリーシャとハンナに近付かせないために。

「行こうエリーシャ」

 ハンナが手を引く。犬たちが吠える声はこの広間だけではなく、外からも聞こえてくる。きっとこの砦のあちこちで騒ぎを起こし、逃げる時間を作ってくれている。

 エリーシャはハンナへ向け頷き、駆け出そうとした。

「……あ」

 その時、気付いた。

 自分たちを見つめる、幼い視線に。

 彼女は突き飛ばされか転んだか、床に膝と両手をついた格好でへたり込んでいた。艶のある金の髪は乱れ、仕立ての良い衣装は土埃にまみれている。だのに侍女も、騎士も、誰も幼い彼女に手を差し伸べない。駆け寄ることも、声をかけることも、まして視線を向けることすらしていない。

 幼い少女──アティールティと王子の娘は、泣きもせず、ただじっと淡い緑の瞳でエリーシャとハンナを見ていた。

 エリーシャは少女に駆け寄っていた。誰にも──母親にすら顧みられない幼い少女に、かつての自分を重ねたのかもしれない。

「おいで!」

 エリーシャが差し出した手を少女は瞬き二つ分見つめる。

 どんなに羨んでも、自分の手には入らないと思い込んでいたプレゼントを差し出されたような、驚きと喜び。

 丸い瞳に浮かんだ感情を、エリーシャは確かに見た。

「うん」

 頷き、伸ばされた小さな手を、エリーシャはしっかりと握る。

 抱え上げた少女と共にエリーシャはハンナの下へ走った。

「その子だれ?」

 尋ねるハンナにエリーシャは一拍置き、考える。

 答えは自然と口をついて出ていた。

「新しい家族!」

「そっか」

 ハンナは歯を見せて笑う。疑問も反対もない。ただエリーシャの言葉を受け入れる。

「よろしくね!」

 乱暴に少女の髪を撫でるハンナと、その乱れた前髪を耳へかけるエリーシャ。二人の顔を見上げ、ようやく少女は表情を和らげた。

 それからエリーシャは振り返らず走った。緑の庭を抜け、昼に近付く日差しが降り注ぐ監獄の外へ。ハンナと並び、ただ前だけを見据えて。犬たちが後から追いつき、並走する。


 犬たちの吠え声があちこちから響いている。





 女は自身の護衛騎士たちに娘を追わせた。女の娘は聖女だ。強い癒しの力を持つ、おそらくこの国一番の癒し手だ。女はその力をよく知っている。女にはその力が必要だった。

 割れたガラスが散らばり、野良犬に荒らされた広間はひどい有様だった。指示するまでもなく、優秀な侍女たちは手に手に箒を持ち、ガラスの欠片や土埃を片付けている。

 無事だったソファに深く腰掛け、女はそれを悠然と見ていた。きっと今すぐにでも護衛騎士たちが娘を連れて帰ってくるだろう。彼らは優秀だ。野良犬に遅れをとるはずがない。

 犬の毛皮を纏った大女の存在が気がかりだったが……所詮は野良犬だ。鍛えた騎士たちの敵ではないだろう。

 女は思う。この北の地から遠く離れた王都と、王都へ留まる国王──自身の弟のことを。

 迫る蛮族たちの群れに臆することなく、自ら国王としての勤めを負った、愚かだが王に相応しい男。

 彼の姿こそ、この国の男たちが模範とするべき姿だ。国土を、財産を、女子供を守るために踏みとどまり、戦うことこそ。

 であれば、女は女のするべきことを全うしなければ。

 女は歯噛みする。

 娘さえいれば。娘の持つ、強い癒しの力さえあれば。国王の下に集った兵士たちは、いくら傷ついてもすぐ戦場へ戻れる。所詮は蛮族。彼の国は王国と違い大地母神の加護──癒しの力を持たない。傷ついてもたちどころに癒される不死身の兵士たちにかかれば。蛮族たちによる王国領土の侵略も、たちまちに押し返せるはずだ。


 護衛騎士たちの吉報を待つ女の下へ、一人の男が転がる勢いで駆けつけた。

「お、王姉殿下に、申し上げます!」

 所々が欠け、へこんだ鉄鎧の男は、息も絶え絶えといった様子で平伏した。汗みずくで薄汚れた男の鬼気迫る姿に、女だけではなく侍女たちも何ごとかと注目する。

「聞きましょう」

「は、──」

 男は顔を上げ、しかし言い淀んだ。血走った目に痩けた頬。流れる額の汗は彼が急ぎに急いでこの知らせを運んできたのだと如実に語っている。

「聞くと言っているのです」

「は、はい」

 ごくり、と男は生唾を飲み、そして大きく息を吸った。


「王姉殿下に申し上げます。王都が、っ。

 ……王都が陥落し……国王陛下が、崩御なされました!」


「…………は」

「蛮族どもは王都を攻め落とし、もはや、我が国は……」

 そこから先は言葉にならなかった。

 事実を伝え終えた男はそのまま突っ伏すと、声をあげて嗚咽し始めた。王都を守るための兵であった自分が、伝令として生き延びてしまった。その痛惜が広間に響く。

 言葉を発する者は誰もいなかった。誰も彼もが、伝えられた事実を信じられず、ただ呆然と立ち尽くしていた。

「じゃあ……」

 どれくらいが経ったのか。ぽつり、と呟いたのは一人の年若い侍女だった。

「ここも、いずれ……蛮族たちが」

 呟いた侍女は自分の言葉に怖気付き、後ずさる。それに触発された侍女たちは顔を見合わせる。

 悲鳴を上げ一人が走り出した。手にしてた箒を放り投げ、はしたなくもスカートを蹴り上げながら割れた窓から飛び出していく。

 あとは雪崩のように続いていった。ある者は意味のない悲鳴を上げ、ある者は「父さん母さん」と幼な子のように喚き、ある者は恋仲にある男の名を呼びながら。

 みんな、逃げ出して行った。

 後に残されたのは、今だソファに腰掛けたまま立ち上がれずにいる女と、寝椅子に横たわる王太子妃。突っ伏したままの伝令の男だけだ。

 王国崩壊の知らせが死病のように広まる。

 喧騒が遠く響き出す。


「……血を」

 女はゆらりと立ち上がった。誰もいない、がらんとした広間の中。

 整った容姿に上質なドレス、艶のある髪。どこから見ても身分の高く、上品な出で立ちの女の、その瞳は爛々と光っている。

「血を、絶やしてはなりません。……王家の、王族の尊く青い血を……」

 うわごとのように呟きながら、女は定まらない足取りで歩み始める。

 その裾を骨張った指先が捉えた。枯れ枝のように乾いた細い指は、どこにそんな力があるのか、上質な絹地に爪を食い込ませる。

「わたしが、……うむの、わたしが王家の男子を」

 広間に落ちる呟きは耳障りな喘鳴混じりだ。女はその声の出所に視線を向ける。

 寝椅子に横たわった女──アティールティ王太子妃。彼女のそばに、専属の侍女たちの姿はない。

 女がその執念と王家から遠い血筋を見込み、王子に近づけさせた令嬢。

「わたしが……王子を……」

 女はまなじりを吊り上げ、痩せた手を振り払う。

「王家の男は皆消えたのです! あなたはもう用済みよ!」

 あっ、というか細い悲鳴に女は頓着しない。ドレスの裾を翻し、足音を抑えることもなくその場を立ち去る。


「わたし、わたしが産みますから……王姉さま、……王姉、さまぁ……!」


 悲痛な叫びを置き去りに、女は広間を後にする。

 屋敷の廊下は閑散としていた。すでに下働きの者たちまで逃げ出したようだ。

 淑やかさを忘れた歩みは、女の焦りと苛立ちを激しい靴音に変える。蛮族たちの襲来に備えるため、女は下働きの者たちを束ねていた執事の姿を探している。

 屋敷の中を歩きながら、しかし女の思考を占めるのは蛮族のことではなかった。

「女が、女が王子を産まねば……王家の血を引く女が」

 はた、と女は廊下の真ん中で思い至る。

 王家の──それも直系の男子の血を引く、尊い姫の存在に。

 王太子妃アティールティは嫁にやるしか用途はない、と吐き捨て、女もまた内心同意していたあの幼い姫君。

 彼女こそが、王家再興の最後の手札だ。

 王族の直系の男子が絶えた今、彼女が産む男子こそがこの国の王になる。

 野良犬たちの混乱でどこへ行ったのか。女にはわからない。

 一番懐いていた年嵩の侍女がどこぞにでも避難させたのか、と推測することしかできない。

 見つけねば。最後の希望を。


「誰か! 誰か姫を! 姫をここへお連れなさい! 誰か!

 王族の血を! 絶やしてはなりません!

 誰か! 姫を……!」

 叫び、女は走る。人の気配の絶えた屋敷の中を。


 その声に耳を貸すものはいない。





 誰かに呼ばれた。

 そんな気がして目を覚ましたエリーシャは、一度二度と瞬いて辺りを見回した。

 身体に感じる不規則な揺れと、鼻腔をくすぐる土埃の匂い。男たちの穏やかな話し声。幌の隙間から漏れる日差しは夕暮れの色に近い。

 エリーシャは粗末な馬車の荷台にいる。芋や麦が詰まった木箱と、剣や盾といった雑多な鉄製品が無造作に積まれた、その隙間に収まっている。

 視線を横に向ければ、鮮やかな緑の瞳と視線がかち合った。

 おはよう、という挨拶は口の動きだけでエリーシャに伝えられる。

 おはよう、とやはり口の動きだけでエリーシャはハンナへ返す。

 示し合わせたように二人で下ろした視線の先では、ハンナとエリーシャに挟まれ幼い少女が眠っていた。


 少女を抱え、ハンナと犬たちと共に飛び出した砦の中は、混乱の坩堝と化していた。

 あちこちで犬の太い吠え声が響き、悲鳴や何か物が倒れたり割れたりする音、そして男の怒声が上がっていた。

 ハンナは走りながら指笛を吹き、それに呼応して遠吠えが聞こえた。

 砦の外へはエリーシャが危惧していたよりもずっと簡単に脱出できた。どういうわけか、北の森へ続く門は開け放たれていたのだ。

 その理由はすぐにわかった。

「狩人さんじゃねえか!」

 馬や馬車に乗った男たちの一団がそこにいた。

 彼らは、北の果ての村の男たちだった。夏に王国の兵士たちに連れて行かれたはずの彼らが、門を開けていたのだ。

 少女を抱え、犬たちを連れたハンナとエリーシャを見渡した男たちだが、なんの疑問もなく。

「乗りな!」

 ハンナとエリーシャへ向け、馬車の幌を大きく開けてくれた。


 馬車はすぐに砦を飛び出し、限界に近い速度で走った。当たり前だが馬車の荷台は揺れに揺れた。荷箱や麻袋が跳ね回る中、エリーシャは幼い少女に怪我を負わせないようにと抱きしめた。そんなエリーシャをハンナは少女ごと抱きかかえてくれた。

 少女は悲鳴すら上げず、泣くこともなく、ただ丸い瞳でエリーシャとハンナを見上げていた。

 馬車と馬では圧倒的に馬の方が速い。にもかかわらず、追手はなかった。

 砦が豆粒ほどにも見えなくなった頃、ようやく馬車は速度を落とした。


 落ち着いてから、エリーシャは馬車から顔を出し男たちに話を聞いた。やはり彼らは村から連行されてすぐ戦場に送られたのだそうだ。

 戦場にいた兵士は、みんな彼らと同じ境遇だった。彼らが他の兵士たちと結託し、逃げ出すのに時間は掛からなかった。

 何せ、戦場に連行された兵士たちを見張る王国直下の兵士は数が少なかったのだ。

 その上、砂の国の戦士たちは『逃げるのならば追わない』『我々は非戦闘員を攻撃しない』と王国の言葉で何度も宣言していた。

 先に独断で砂の国に投降した村や町は、王国の貴族に統治されていた頃よりも楽な暮らしができているらしい、という噂もあった。

 戦う意欲が湧くはずなどなかった。

 そうして男たちは戦場から逃げ出し、他の逃走兵たちとも助け合い、北の村へ帰る途中この砦へ寄ったのだそうだ。


 目的は一つ。北の村から奪われた品々の奪還だ。


 男たちを連行するのと同時、王国の兵士たちが商人であり、村のまとめ役であるドリーの家から奪っていった、刃物や芋や砂糖や塩。そういった北の果てでの貴重品を、どうにか取り返せないだろうか。男たちは村へと向かう道すがら、ずっと相談していたのだ。

 男とはいえ、戦う訓練などしたことはなく、戦場からもさっさと逃げ出した。そんな彼らが、護衛の兵士や騎士がいる砦へ正面から乗り込んで、貴重品を取り返すなどできるはずもない。

 であれば、夜闇に紛れて忍び込み、少しでも盗んで帰ろう。

 そう決めて、砦の近くに潜んで機会を待っていたのだそうだ。


 そこにタイミングよく現れたのが、エリーシャを助けるためにやってきたハンナと犬たちだった。

 犬たちが城壁の外で騒ぎ立て、その鳴き声を不審に思った見張りの兵が出てきたところで、ハンナは犬たちと共に押し入った。

 男たちはそれに便乗したのだ。


 あの日。護衛騎士たちと対峙したエリーシャから離れた犬は、すぐさまハンナに異変を知らせてくれたのだそうだ。

 ただ、ハンナが駆けつけた時にはエリーシャは馬車に乗せられ連れ去られた後だった。

 ハンナはドリーが止めるのも聞かず、すぐに村を出た。幸いなことに、犬がエリーシャの匂いを辿った先には馬車の轍が残されており、追うのは容易かった。

 道すがら、犬たちは定期的に遠吠えをしていたらしい。

 それは遠く北の森へ届いていたのだろう。ハンナが気付いた時には、森で留守番をしていたはずの犬たちが揃っていた。

 さらにそれだけではなく、見知らぬ犬──狼たちの姿もあったのだそうだ。

 一頭二頭ではなく。十数頭の狼の群れ。

 その群れを率いていたのは、見覚えのある白い狼と、狼によく似た犬だった。

 エリーシャが助けた白狼と、彼女についてハンナの群れから離れた三兄弟犬の一匹。彼女らは、森で独自に狼の群れを作っていたのだ。

 犬たちの遠吠えに応えた彼女らもエリーシャの救出に加わってくれた。

 エリーシャへの恩返しなのだろうか。それとも、離れてはいても未だエリーシャとハンナを群れの一員だと思っていてくれたのか。

 そうして膨れ上がった犬と狼の群れとで砦へ押し入り、見張り兵たちを混乱させることで、ハンナはエリーシャの捜索と救助を成し遂げたのだ。


 あとはエリーシャも知る通り。

 騒ぎに便乗し、砦から物資を奪い返した男たちに偶然合流し、砦からみんな揃って脱出できたのだ。


 今、物資を積んだ馬車と男たちが乗る馬の一団についているのは、ハンナとエリーシャと共に暮らす犬たちだけだ。

 狼の群れは、砦を出たところでまたどこかへと消えてしまった。一足早く森へ帰ったのだろう。

 またいつか、森で暮らしていれば相見えることもあるだろう。その時までに何かお礼を考えておかねば。


「名前」

 ハンナの声で、エリーシャは思考の淵から浮上した。

「名前、どうしようね」

 柔らかく微笑んだハンナが、眠る少女の髪を撫でていた。金色の髪は、中天で眩しく輝く太陽にも、重く首を垂れる麦の穂にも似ている。

 うたた寝に落ちる前、エリーシャとハンナは少女にいくつか質問をしていた。

 名前がその一つだ。少女は少し考えてから答えた。

「ひめさま」

 姫様──彼女は敬称でしか呼ばれてこなかったのだろう。侍女や下男や騎士たちから。

 彼女に名前をつけたはずの、彼女を名前で呼ぶはずの人物は。彼女を呼ぶことはなかったのだろう。

 誰にも呼ばれなかった名前は、少女の自意識には根付かなかった。

 なのであれば。

「二人で考えよう」

「うん」

 これから共に暮らすハンナとエリーシャが、考えてやらねばなるまい。

 二人で考えて、二人で呼んでやらねば。


 エリーシャにはハンナと犬たちがいれば十分だった。

 きっとそれはハンナも同じだ。ハンナは北の村の人々との交流を望んだが、共に暮らそうとは言い出さなかった。

 それでも、エリーシャはこの幼い少女を連れ出した。

 ──放っておけるはずがなかった。母親にすら顧みられない少女を。

 北の果ての森に捨てられるはずだったエリーシャを、ハンナが家族と呼んだように。

 母親にすら見捨てられた少女を、エリーシャは家族と呼びたくなった。

 それはかつての自分への手向けであり、かつて自分を捨てた者たちへの意趣返しだ。


「この子の服、用意してあげないとね」

「そうだね、村にあるかな」

「仕立ててもらおう」

「そうだね。あと、この子の手にあったナイフもあった方がいいかも」

「うん、それから──」

 潜めた声で相談しながら、エリーシャはハンナに微笑みかける。ハンナはその新緑色の瞳を柔らかく細め、頷く。



 馬と、馬車と、犬たちの一団は北を目指し、進んでいく。



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北果ての野良聖女 こばやしぺれこ @cova84peleco

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