第11話

「いやあお待ちしておりました」

 冬が終わり雪が溶け、一冬ぶりに訪れた村でエリーシャとハンナは歓待を受けた。

 村のまとめ役であり商人でもあるドリーは、その豊かなひげを揺らし二人に椅子と白湯を勧めた。いたく機嫌が良い様子であった。

 エリーシャとハンナは毛皮の他に冬の間消費しきれなかった獣の肉を持ち込んでいる。

「もしお持ちであれば売って欲しい」と前の年にドリーから頼まれていたのだ。

 北果ての冬は長い。雪と曇天に閉ざされる間、村人たちは日持ちのする芋や固く固く焼いたパンで過ごさねばならない。いつ終わるともわからない寒さの中、細く長く息を吐くように食い繋ぐ。そんな村人たちにとって、エリーシャとハンナが持ち込む肉は春を迎えたお祝いのご馳走なのだ。

「お肉持ってきたよ!」

「おお、これは素晴らしい」

 もちろんドリーはハンナが背負い鞄から引っ張り出した肉の塊に目を細めた。

 しかしそれ以上に、エリーシャの背負い鞄から出てきた毛皮へ目を輝かせた。

「うん、うん。いやはや、お二方の技術は本当に素晴らしい!」

 鹿やウサギ、キツネの毛皮を手に取っては褒めちぎる。例年にない喜びようだ。エリーシャは照れる以前に驚いた。

「今年は毛皮、高く売れるんですか?」

「ええ! 冬の前、前回お二方がいらした後から毛皮が飛ぶように売れ始めたのです。どんな毛皮でも良いから売ってくれ、と言われておるのですよ」

 ドリーはひげもじゃの顔を紅潮させ、満面の笑みを浮かべていた。嬉しくて仕方がない、とその表情は如実に語っている。

 北の果ての村はその日を生きるので精一杯だ。麦も僅かな野菜もお金になるほど売りには出せない。エリーシャとハンナが持ち込む毛皮は外の物を買うために重要な品だ。それが高騰しているとなれば、村の蓄えを増やす絶好の機会だ。

「なんでもお貴族さまがたが挙って北に越して来ているようなのです。こちらは寒いでしょう? 防寒着にする毛皮が足りないんだそうで」

「ふぅん。自分で獲ったらいいのに」

「お貴族さまはお忙しいですからなぁ!」

 珍しくドリーは大笑した。ハンナもつられて笑う。口元に両手をあて、歯を隠すような笑い方をハンナは他人の前でしかしない。


 毛皮の対価はこの日では渡しきれない、とのことなので幾ばくかの堅焼きのパンと細々とした雑貨だけを受け取り帰ることにした。

「あ、ハンナだ!」

「ハンナだよ〜」

 村の外れで子供たちに囲まれた。雪が溶けたとはいえまだ肌寒いのに、薄着で元気に駆け寄ってくる。

「ハンナ犬触らせて!」

「ハンナだっこ!」

「ねえ斧投げてるの見たい」

「じゅんばん! じゅんばんだよ〜」

 ハンナは村の子供たちからの人気が高い。二人でも三人でもまとめて抱え上げられる剛力と、それに反した柔らかな口調が要因だろう。

 いつかは遠巻きに見られているだけであった。だが幾度も通い、そのたび遠くからでも「こんにちは」と声をかけ続けた結果、こうして子犬のように懐かれるまでになった。

 村の人たちとも仲良くしたい、というハンナの願いは、彼女の地道な努力で叶った。

 そのことはエリーシャにとっても喜ばしくあった。──ハンナが自分以外を抱き上げ、笑いかけるのは確かに面白くはないが、村にいる間だけだ。森へ帰れば、ハンナはまたエリーシャだけのハンナになる。

 だからハンナが子供たちの相手をする間、エリーシャは騒がしい子供が苦手な犬と共にゆったりと待つことにしている。

「エリーシャさんこんにちは」

「こんにちは、犬、さわっていい?」

「こんにちは。優しくね」

 そうしているとおとなしい子供はエリーシャの下へ来る。犬に触ったり、なんでもない日常の話をエリーシャへ話しに来るのだ。

 エリーシャは犬が不快にならない触り方を教え、子供特有の脈絡の無い話に相槌を打った。

「あら」

 この日もまた冬の間に村であった由無しごとを聞いていたエリーシャは、子供たちの顔を眺め気付いた。いつもであれば同じ顔ぶれが揃っているのだが、今日は一人足りない。冬の間に亡くなっていたのであれば、ドリーがその話をしているはずだ。かといって、ハンナにまとわりつく子供たちの中に混ざっているわけでもない。

 エリーシャは何気なく子供たちに尋ねてみた。

「おかあさんがね、病気なんだって」

「冬のね、真ん中くらいから、咳が出て」

「熱も上がったり下がったりして、大変なんだってー」

 来ていない一人──ある少女は、どうやら母親の看病で表に出て来られないらしい。冬は越えられたものの、母親の容体はけして良いとは言えないようだ。

「おくすりがあればいいんだけど」

「おくすりたかくて買えないって、村長さんが」

 村長──村のまとめ役であるドリーが毛皮の高騰に喜んでいたのは、もしかするとその薬の代金のためかもしれない。しかし、薬が手に入るまで少女の母親は待てるのだろうか。

 はにかみ屋で、犬に触れるのにもおっかなびっくりで、でも犬に興味津々の弟たちのために率先して犬と触れ合おうとした幼い女の子。

「その子のおうち、どこか教えてくれる? お見舞いに行ってあげたいの」

 子供たちも心配だったのだろう。小さな手の群れはエリーシャの手や裾を掴み、我先にと村の奥へと誘った。


「ハンナ、日が暮れちゃう前に行こう」

「エリーシャ!」

 男の子を両腕に一人ずつぶら下げたハンナは弾けるような笑みをエリーシャへ向けた。

「うん、かえろ!」

「えー!」

「まだ遊ぼう!」

「また今度! みんなもお家のお手伝いあるでしょ?」

「やだー」

「次おれのばんなのにー」

「キミはさっきおんぶしたよぉ」

 幼児特有の甲高い声と共に縋る子供たちを、ハンナは一人一人撫でている。その手つきは優しいとは言えないが、犬にしてやるような乱雑な撫で方がむしろ心地よいのか。子供たちはキャアキャア笑いながらハンナから離れた。

「また絶対来てね!」

「今度は負けねーぞ!」

「うん、またね!」

 犬の子のように駆けていく彼らをハンナは目を細めて見送っていた。

「エリーシャはもういいの?」

「うん」

 犬好きな子供たちとの別れは病んだ母を持つ少女の家の前で済ませてきた。今頃あの子供たちは少女と喜びを分かち合っているだろう。

 先に立って歩き始めた犬たちを追うように、エリーシャとハンナは村を辞した。


「どこか行ってたの?」

「んー、ちょっとお見舞い」

 中天から穏やかな日差しが降り注ぐ中、エリーシャはハンナと繋いだ手をぶらぶらと揺する。

 追放されてからのエリーシャには、癒しの力を他人のために使う気はひとつもなかった。この力は自分と自分の愛した人のためだけに使うと決めていた。

 エリーシャとハンナの目線の先、二匹の犬と戯れる白い狼と灰色の狼。この二匹の母親を助けたのもエリーシャにとっては「自分のため」であった。「子を守る母親」を見捨てれば、そのことは小さな棘となって生涯エリーシャの記憶に刺さり続ける。後悔という小さな棘を抜いておく、そのためにエリーシャは癒しの力を行使した。

 結果的にその行為は狼の子を犬たちの群れに加える、というプラスの結果に繋がったのだが、それはあくまで副産物だ。

 では今回は。

 これからも毛皮を売り、森には無いものを買う、という交流が続く村の住人に恩を売るのは、間違いなくエリーシャとハンナの益になる。

 しかしそれと同時に、「エリーシャには癒しの力がある」という情報を与えることにもなる。癒しの力を持つ者は希少だ。エリーシャのような触れただけで病を治せる強い力であれば尚更。知られれば、村人たちはエリーシャを村に留め置こうとするだろう。それこそどんな手を使ってでも。

 エリーシャは北の果ての村を気に入っている。豊かでは無いがその分住人たちは助け合い、支え合って暮らしている。辛いこともあるだろうがみんな穏やかだ。まとめ役であるドリーの気風も影響しているだろう。

 だからといって村で暮らしたいわけではない。村に住めば村の住人としての役割を果たさなければならない。誰かと子を成し、育てる。エリーシャはそんな役割を望んでいない。


 結論だけを言えば、エリーシャは顔見知りの少女の母親を癒した。

 涙ぐみながらも気丈に堪え、意識のない母親を看病する少女の姿。そして朦朧としながらも娘と息子を案じる言葉を口にする母親の姿に胸を打たれたのだ。

 ただし誰にも見られぬようこっそりと。連れ立って見舞いに行った子供たちが少女を慰める間、一瞬の隙をついて少女の母親に触れた。状態は良いとは言えなかったが、体調不良の大元である肺の病を消し去った。

 耳障りな喘鳴が治り、安らいだ表情で眠る母親を見て、少女は涙を流して安堵した。それと同時に不思議がっていたが、エリーシャは「あなたの看病のおかげ」と言い含めた。

 少女が子供らしい楽しみを投げ打って母親を看病していたのは本当だ。エリーシャはそれを否定したく無かった。

 その場にいたお見舞いの子供たちもそうだそうだと少女を讃え、エリーシャの癒しの力に気付いた様子は無かった。

 それで良かった。


 その年の春は雨が多く、木々は青葉を旺盛に茂らせた。その葉を喰む獣たちも旺盛に肥え、エリーシャとハンナはその肉を享受した。

 そうして蓄えた毛皮を手に村へ向かった時には、夏は盛りを迎えていた。

 寒さに怯える必要も、雪に備える必要もない夏は、北果てでは喜びの季節だ。秋の実りに向け働く必要はあれど、温かな日差しと長い昼は束の間の余暇を与えてくれる。

 明るい声と日に焼けた笑顔が迎えてくれるはずの村は、ひっそりと静まり返っていた。

 例年であれば畑仕事に精を出す男たちの姿はなく、沈んだ表情の女たちが黙々と畑や家畜の世話をしている。その中には子供の姿も多く、女たちと同じく暗い表情で小さな手を動かしている。エリーシャやハンナに気付いても、駆け寄って来ることはない。

 その理由はドリーの口から語られた。

「王国の兵士が来たのです。男はみんな兵隊にすると言って、連れて行かれてしまったのです」

 ドリーと他数人の男だけは、年老いていたり体が不自由であったりの理由で兵役を免除されたのだそうだ。

「畑も家畜もこれからが忙しくなるっていうのに……お嬢さん方の毛皮も奪われてしまいました」

 面目ない、と言って頭を下げるドリーを、エリーシャもハンナも責められなかった。ドリーの顔面には痛々しい痣が残されていた。それに毛皮以外にも村に必要であった品々が奪われてしまったのだろう。ドリーの店は明らかに物が少なくなっていた。

「顔、大丈夫?」

「ご心配には及びません。こんなもん、目立つだけで痛くも痒くもありませんで……」

 苦く笑うドリーだが、その所作はどこかぎこちなかった。

 渡せる対価が何もないから、とドリーは固辞したが、エリーシャとハンナは毛皮と肉を置いていった。前回の毛皮の対価と一緒に覚えておいてほしい、と言い含めて。

 その日はすぐに村を出た。

「ハンナ、みんなのこと助けたい」

 呟き、ハンナはいつものようにエリーシャと繋いでいた手に力を込めた。

「畑のこと、ハンナはよく知らないけど……でも手伝えるなら、手伝いたい」

「うん。……ウサギとかシカとか、ちょっとでも持っていこう」

 頷き合い、お互いの手を硬く握り合う。犬たちが先導する草の原は青々と広がっているが、遠くには雨雲が沸き上がっていた。


 それからハンナとエリーシャは折を見ては村を訪れるようになった。森で狩った獣を携えて村へ行き、畑や家畜の世話を手伝い、また森へ帰る。天候や狩りの成果で不定期ではあったが、村の女たちは仕事の手が増えるのを純粋に喜んでくれた。子供たちも父親や兄弟が連れて行かれた悲しみを、ハンナとの交流で癒しているようだった。

 ドリーは二人が訪れる度、何度も深々と頭を下げてくれた。

「何もお渡しできないのが、本当に心苦しい」

 涙ぐんで感謝するドリーにエリーシャは首を振って返した。

「いずれこの困難を乗り越えた時には、お返ししてもらいますから」

「それはもう是非に。村をあげて感謝の宴を催しましょう」

「そこまで大袈裟なのは勘弁願いたいですね」

 豊かな髭に埋もれるようなドリーのくしゃくしゃの笑顔を見たのは、本当に久しぶりのことだった。


 森と村とを往復し、狩りと畑仕事とをこなす。忙しない毎日は矢のように過ぎていく。

 村の男たちを連れて行った兵士たちは姿を見せていない。男たちも誰一人帰ってこない。

 家畜はいくらかが老いて潰され、いくらかが新しく生まれた。

 エリーシャとハンナが定期的に犬を連れてくるからか、今年の畑は獣に荒らされることなく実りの季節を迎えられそうだ。

 朝晩の空気が冷涼さを増し、日が落ちるのが一日ずつ早くなってき、たある日のことだった。


 その日の昼近く、エリーシャとハンナは村を訪れた。犬は狼を番とした二匹だけを連れていた。いつもであれば番の白狼と灰色の狼も一緒であるが、今回は留守番だ。

 雌であった白狼と灰狼はつい先日子を産んでいたのだ。夫である二匹の犬は、村への訪問について来ないかと思っていたのだが、彼らはいつも通りエリーシャとハンナの共をしてくれた。初産を迎えた白狼と灰狼には、いつも森に残る犬たちがついている。彼ら彼女らに任せていれば安心だと判断したのだろう。

 女たちと子供たち、そしてわずかな老いた男だけの村は、少しずつそれが日常となりそれなりに活気を取り戻していた。

 この日は麦の刈り入れを予定していた。女たちの懸命な努力と、ほんの少しのエリーシャとハンナの手助けの結晶は、首を重く垂らしてその時を待っている。

 村の総出で刈り取り、干す。小さな子供から腰の曲がった老爺まで、動ける者はみんな働いた。

 勝手のわからない本当に小さな子の面倒は、犬が見ていてくれた。天候に恵まれたため揺籠を外に置き、その周りに低い柵を巡らせ、その中で赤子とよちよち歩きの幼児は忙しなく働く母親を不思議そうに眺めている。その側で二匹の犬は寝そべり、不埒な気配に耳と目を配っている。

 やはり男手がない分、刈り入れには時間がかかった。だが力持ちのハンナや、女たちの疲労をこっそりと癒していたエリーシャの働きもあり、どうにか終えることができた。

 その日の夜はドリーの家に招かれ、エリーシャもハンナもぐっすり眠った。


 翌朝。刈り入れで張り切りすぎたのだろう、腰が痛むドリーに代わり、エリーシャは村の共用の井戸で水を汲んでいた。傍らには共に村を訪れた犬の一匹がいる。村への滞在も慣れたもので、今は呑気に後ろ足で耳を掻いている。

 彼が桶を持てれば、水汲みの手間が半分になるのに。などと思いながら、エリーシャは滑車の片側に据えられた桶を井戸へ落とす。

「あの」

 水を汲むエリーシャへ声を掛けてきたのは、いつかエリーシャが病を癒した母親だった。あれ以来彼女には特に変わった様子もなく、看病に精を出していた少女もその弟たちも村の手伝いをしながら子供らしく暮らしている。

 井戸を使いにきたのか、とエリーシャは思ったが、彼女は桶も何も手にしていない。

「どうかされました?」

「ちょっと、お話したいことが……一緒に来ていただけませんか」

 村の中に人の姿はない。が、家々では生活の気配が起き始めている。そろそろ他の村人も井戸を使いにくるかもしれない。

 口篭る母親の態度は落ち着かない。口にし辛い、秘密を打ち明けようとする態度。

 心当たりもないことはないため、エリーシャはその母親に誘われるまま人気のない村の外れへと向かった。犬ももちろんエリーシャについて来た。

 収穫を終えた麦畑はただただ広々として、寒々しい。これから迎える雪の季節には一面が真っ白に覆われることだろう。そんな畑と粗末な納屋があるだけの場所にエリーシャは連れられて来た。

「話、というのは……」

 うぉん、と犬が吠えた。途端母親は走り出し、納屋の扉を叩く。

 納屋から現れたのは複数の男だった。見るからに屈強で、見るからに村人たちとは身なりが違う。

 王国の兵士だ。それぞれが帯剣しており、槍を持つ者までいる。


「エリーシャルト様……!?」


 その中の一人、中央のリーダー格であろう男が呆然と呟いた。

 エリーシャも彼に見覚えがある。エリーシャの母の護衛をしていた騎士だ。確かエリーシャの母が父と結婚するずっと前から支えていたはずだ。

 ただ、その時と比べると男の顔は大分変わってしまっていた。こけた頬はまばらなヒゲに覆われ、目の下には濃い疲労が影を落とし、身につけた鎧もあちこちがへこみ、くすんでしまっている。

 とはいえそれはエリーシャも同じだ。もう何年も森で暮らし、身なりも肌艶も、あの頃のように整ってはいない。

 それでもお互いに一目でわかってしまうとは。

「あの」

「もう良いぞ」

 おずおずと声を上げた母親に、男の一人が皮袋を渡した。ひどく重そうなそれを胸に抱き、母親は足早に去っていく。エリーシャから目を逸らし、足元だけを見つめながら。

 エリーシャは自身を騙し、売り渡した彼女を怒る気にはなれなかった。この北果てであの小さな皮袋いっぱいの金貨がどれほどの価値を持つのか、知らないわけではない。

 ふ、とため息を吐くエリーシャの前に、母の護衛騎士が進み出る。

「エリーシャルトさま、よくぞご無事で。御母堂もさぞかしお喜びになるでしょう。さ、こちらへ」

 言葉は丁寧で促す空気だが、彼のそばに控える男たちはじわりじわりとエリーシャを取り囲み始めていた。無理矢理にでも連れていく気が透けて見える。

 エリーシャの足元で犬が唸る。井戸でののんびりとした空気とは一変。鋭い牙を剥き出し、今にも飛びかからんばかりに姿勢を下げている。彼にはエリーシャを守ろうとする意思がある。

 エリーシャの腰にはいつもの手斧が二つある。あとは獣の解体のために使う小ぶりなナイフだけ。

 いくらエリーシャの腕が上がったとはいえ、エリーシャだけではこの人数を倒しきれない。共に戦ってくれるだろう犬が怪我をする恐れがある。最悪の場合だってある。

 それに、抵抗すればこの村に害が及ぶかもしれない。

 エリーシャはそれを望まない。正確には、村に害が及び、ハンナが悲しむだろうことを望んでいない。

 腰の手斧にも、ナイフにも手を伸ばさず。エリーシャは男たちを刺激しないようゆっくりと腰を落とす。

 膝をついた傍らでは犬が未だ牙を剥き、剣や槍を携えた男たちを威嚇している。その首に腕を回し、そっと抱き締める。

「いい子。……私は大丈夫だから、ハンナのところへ行って」

 ピンと立った耳元で囁く。

 唸るのをやめた犬は濡れた瞳でエリーシャを見上げた。男たちとエリーシャとを見比べ、小さく鼻を鳴らす。

 抱き寄せた犬の柔らかな毛皮は太陽と大地の匂いがした。降り注ぐ日差しに温められた、肥沃な土の匂いだ。野に生きる獣の独特な匂い。

 名残を惜しむように頬を指先で掻いて、エリーシャは最後に犬の背をぽんと叩いてやった。それを合図とするかのごとく、犬は踵を返し駆け出した。

 一度だけ振り向き、あとは放たれた矢よりも早く村へと走る。

 男たちも犬が走る方を見ていた。

「追いますか」

「いや、放っておけ」

 もしも誰かが追おうとすれば、エリーシャはその彼へ容赦無く手斧を投げていただろう。

 膝についた土を払い、エリーシャは立ち上がる。

 背筋を伸ばし、軽く肘を曲げた手は身体の前でゆるく組む。見上げる形になれど、視線は逸らさず相対する男としっかり合わせる。

「何用です」

 貴人としての感覚は久しぶりだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る