ガンダムの時間

機械科ボイラーズ

ガンダムの時間

 日本の各家庭に、まだそれほど録画機器が普及していなかった時代。テレビで放送される番組は、一度見逃せば再放送されるその日まで、二度と見られることのない尊い存在であった。特に目当ての番組ともなれば、皆が皆、一期一会の心境で食い入るようにブラウン管を見つめていたものである。それゆえ、二人以上の人間が同居する家庭内でのチャンネル争いなど日常茶飯事であった。

 これは、そのような日常がどのような家庭でも見られた最後の時代の物語である。





「なんでガンダム見ちゃダメなんだよぉ!」


 兼松少年は、父親に対して悲痛な叫びをあげた。父親は、長椅子にだらしなく横向きに寝そべりながら、テレビの大相撲を観戦している。


「たまに家にいるときぐらい、相撲ぐらい見たっていいだろう!」


 父親は、ランニングシャツにステテコというだらしない格好のまま、もはや威厳の失われて久しい怒鳴り声をあげた。


(なんで今日に限って……)


 少年は、心の中で毒づいていた。いつも夕方のこの時間は仕事で不在の父親が、何故か今日に限って居間のテレビの前に居座っているのだ。

 少年はいらだつあまり、家にこれから救急車がやってきて、父親を連れ去っていってはくれないものだろうか、という妄想すら抱き始めていた。


「お願いだって、四時半から三十分だけでいいからさあ」

「だめだ」


 父親は冷たく即答した。こうなると、もうテコでも動かない。少年は小学生の身でありながら、この状況で父親を説得するのは不可能だと悟っていた。


「ガンダムなら、友達の家にでも行って見ればいいだろう。晩メシまでには帰ってこいよ」


 股間をボリボリと掻きながら息子を諭す父親。少年はその態度に失望した上に、自分の行動まで父親に決めつけられたことに対して怒り、ワナワナと拳を震わせた。

 だが、ここは冷静にならなくてはならない。少年は、今まで「機動戦士ガンダム」(再放送)を、一話たりとも見逃していないことに誇りを感じていた。こんな些細なアクシデントで、この誇りに傷 がつくようなことがあってはならない。屈辱的だがここはやはり、 友人の家に行ってガンダムを見せてもらうのが最良の判断だと思わ れた。


 現在の時間は四時二十分。四時半までに、ガンダムを見せてくれそうな友人の家に辿り着かなくてはならない。兼松少年は、録音用のラジカセを片手で持ちながら、素早く自転車を漕ぎ出した。





 まだビデオデッキすら普及していなかった時代、マニア達はなんとかしてテレビ放送作品を何らかの形で保存できないものかと試行錯誤して いた。その試みの最もスタンダードなものに、せめて音声だけでもラジカセで録音しようというものがあった。兼松少年は、音声だけのガンダムを友人達も呆れ返るほど聞き返し、ほとんどのセリフを暗記している。実に涙ぐましい努力であった。

 兼松は、友人である明石少年の家に辿り着いた。現在の時間は四 時二十五分。ここがダメなら、放送に間に合わなくなる可能性がある。兼松は、祈るような気持ちで明石家の門を叩いた。


「明石くーん」


 家の中に呼びかけると、ドタドタという足音が迫ってくる。明石だ。


「どうした? ガンダムか?」


 姿を現すなり、兼松の目的を知り尽くした発言をする明石。ガンダムの熱心なファンではないものの、兼松にとって明石は頼るべき親友だった。


「まあ、上がれや」

「おう」


 会話は一瞬で終了し、靴を脱ぎ散らかして家に上がり込む。居間にズカズカと侵入し、明石に断りもなくテレビのスイッチを入れた。

 さらに、素早くラジカセのコンセントを挿入し、録音の準備を整える。兼松は、念のためにラジカセのカセットデッキを開けてテー プの中身を確認しようとした。だがそのとき、兼松の脳裏に不吉な予感が走り抜けた。


「……しまった!」

「どうした!」

「見ろ!」


 兼松がデッキから取り出したテープを見ると、ラベルに『松山千春』と書かれている。しかも手に取って見ると、テープのツメが折られているのだった。


「お気の毒に……」

「お前、空いてるテープ持ってないか!?」


 兼松が、切迫した声をあげた。明石は、少し考えて台所の方に歩いていき、そこで夕飯の支度をしている母親に尋ねた。


「お母さん、カセットテープってどこに置いてたっけ?」

「ああ、寝る部屋にあるけど。何か録音するの?」

「友達が使うんだって」


 母親との短い会話を終え、居間に戻ると明石は驚愕した。兼松の姿が、すでに忽然と消えていたのだ。


「まさか!」


 明石は、母親が「寝る部屋」と呼んでいた寝室に急ぐ。案の定、 兼松はすでにテープというテープを手に取ってラベルの確認作業に入っていた。


「どれだ! どれを使っていいんだ!?」


 兼松がテープを漁って、ガチャガチャとケースがぶつかり合う音が響く。


「やめろ! ここであんまり騒ぐな! 妹が……!」


 明石は、思わず慌てて叫んでしまっていた。ハッと気がつき、口をつぐむ。そのときだった。二人は、嫌な予感を感じてゆっくりと「ベビーベッド」に目を向ける。


「オンギャアアアアァァ!」


 唐突に、赤ん坊のけたたましい泣き声が、部屋に響き渡った。


「見ろ! 起きちまったぞ!」

「今のは、お前だろ! 絶対お前だ!」

「何やってんの、あんた達!」


 二人が言い争っているところに、母親が怒鳴り込んできた。泥沼だ。だがそのとき、兼松は視界に自分の求めていたものを発見した。未開封のテープだ!


「あとは任せた!」


 兼松は素早く寝室から脱出し、走りながらテープから包装を剥ぎ 取り、すかさずラジカセのデッキにセットした。時間は、四時二十八分。あと二分だ。

 だが、ガンダムの時間まであと二分だというのに明石家の長女は ご機嫌斜めな様子で、無遠慮に大音量で泣き喚いていた。これでは、録音したときに泣き声を拾ってしまうではないか!

 どうやら寝室では母親が赤ん坊をあやしているようだが、あの様子では泣き止むまでに何分かかることやら。


「明石! 妹を二階に連れて行け!」


 兼松の言葉に、母親があからさまに不愉快な表情をする。しかし、明石はすかさず妹を抱えると、母親の悪口雑言を背に受けながらも二階へと駆け上がっていった。

 兼松は、そんな明石の行動に男の友情を感じ、いたく感動してい た。


 ついに時計が運命の四時半を指した。今まで何度となく見た、ガンダムのオープニングが流れる。ラジカセの録音も快調だ。兼松は、 満足げな表情でオープニングに見入っていた。

 そのとき、明石の母親が台所へと戻りながら、ブツブツと文句を言っているのが聞こえてしまった。なんということだ! たいした音量ではなかったとはいえ、今の母親の文句もきっとしっかり録音されてしまったに違いない!


『おばさん、おばさん!』


 オープニング後のコマーシャルの間に、明石の母親に声をひそめて呼びかける。兼松は、口に人差し指を立てて、『シーッ!』という仕草をした。


「ハイハイ」


 不機嫌そうに返事をする明石の母親。こっちの言っている意味が分かっていないのだろうか? たぶん、今の『ハイハイ』も録音されてしまっているだろう。幸いにして、コマーシャルの間でまだ救われたが。

 しかし本編開始後後も、兼松は台所から時折聞こえてくる、食器がカチャカチャいう音や、蛇口から水が出る音などに悩まされ続けた。

 ほどなくして、明石がソロリソロリと一階に降りてきた。流石に明石はよく分かっている友人で、話し掛けるときもキチンと声をひそめてくる。


『思ったより早くおとなしくなってくれたよ』

『そうか』


 その後、二人は黙って息をひそめてガンダムを鑑賞した。実に平和なひとときで、もはや何の問題もないかのように思われた。だが、またしても不運な出来事がガンダムの音声の録音を妨げることになろうとは、神ならぬ身の兼松と明石には知る由もないことであった。


 一瞬、何かの音が聞こえたような気がした。今や様々なトラブルを乗り越えてきた兼松の聴覚は、極限まで研ぎ澄まされている。だが、まだテープに録音されるレベルの音量には遠く及ばない。兼松は気にしないことにした。

 しかし、次にその音が聞こえたときはさらに大きな音になっていた。 そして、時間に比例してその音は大きくなっていく。近づいてきて いるのだ。途中で判明したのだが、それは音ではなく、声であった。


『……腐……豆腐……美味しい豆腐……栄養満点……豆腐はいかが……』


 兼松は、戦慄した。


『豆腐屋が近づいてくるぞ!』


 いったい誰にこんなことが予想できただろうか? 恐るべきことに、豆腐屋の車に搭載されたスピーカーが、大音量をあげて迫ってくるのである!


『まずいな……』


 明石は豆腐屋の通るルートを熟知していた。このままでは、間違いなく豆腐屋は数分以内に家の前を通過するだろう。その際に響き渡るスピーカーからの呼び声は、ボリュームを最大にしたテレビの音量を遥かに凌ぎ、さらに結果として二階の妹を叩き起こす。

 まあ、どっちにしても妹は二階に寝かせておけばいいとして、やはり問題は豆腐屋の呼び声であった。


『くそう! せっかくここまできて、どうすることもできんのか!』


 兼松は、焦りを隠し切れず、顔を汗だくにしてうめいている。こんなときでもしっかり小声だが。一方明石は、算数のテストで五十六点をマークした頭脳を全力で回転させ、一計を案じていた。


『コマーシャルまで、あと五分てところか……』

『それがどうした!?』

『いいか、聞け。コマーシャルの時間はおそらく一分ぐらいはあるだろう。なんとかしてその間に、豆腐屋に家の前を通過させることができれば、被害を最小限に食い止めることができるかもしれん』

「それだ!!」


 兼松は、自分でもしまった、と思うぐらいに大きな声で叫んでしまっていた。


『今の声……入ったと思うぞ……』

『……ま……まあいい……しかし、このままだとコマーシャルの前に豆腐屋が来てしまうぞ』

『時間をかせぐ必要があるな』

『どうするんだ?』

『やはり、豆腐を買ってくるしか……』


 明石と兼松は、以前に豆腐屋の車に立ち小便をかけている現場を、 二人そろって豆腐屋の親父に押さえられた経験があるので、親父に頼み込んで話をつけるという発想は思い浮かばなかった。


『金はないぞ』

『俺もだ』

『お前ん家、今日の晩飯に豆腐使わないか?』

『カレーライスだし……。駄目だな。家の母さん、ケチだし』

『冷やっこが食いたいとかなんとか言って……』

『カレーと冷やっこかよ。駄目だと思うぞ』


 話している間にも、豆腐屋の呼び声はどんどん迫ってくる。すでに注意しなくても聞き取れる音量だ。音量的には、そろそろ録音テープに入ってしまう危険域に突入しようとしていた。


『………』


 兼松は、真剣な眼差しで何かを考えている。目線は一応テレビのガンダムに向けられているが、意識はもうそこには向けられていな い。兼松がいったい何を考えているのか、明石は少し不安になった。


『カレーは豚肉か?』

『は?』


 意味不明の問いに、思わず明石は間の抜けた返事をした。何故こんなときに、豚肉が?


『カレーの具は豚肉か、と聞いているんだ』

『まあ……ウチの定番はポークカレーだけど……』

『よし。まだルーは入れてないか?』


 明石は、台所で調理している母親の様子を窺った。


『まだみたいだけど……』


 釈然としないまま、明石は答えた。今、晩飯のカレーの話をして何になるというのだ? 明石には兼松の考えが全くわからなかった。 ところが、当の兼松は不敵な笑みを浮かべている。


『よし……』


 兼松は、おもむろに言い放った。


『カレーを、豚汁に変更するんだ』

『!』


 明石は一瞬で兼松の考えを汲み取った。豚肉。まだルーを入れていないカレー。豆腐。豚汁。

 全ての線が繋がった。確かに、豚汁ならば! 豚汁ならば、豆腐が具に使えるのだ!


『すごい! すごいぞ兼松!』

『行け! 行くんだ明石!』


 明石は、脱兎の如く台所へと駆け出した。すると、信じ難いことに、母親が今まさにルーの箱を開封しようとしているではないか!


『ダメだあぁっ!』


 明石は、なりふり構わず母親の腕を鷲掴みにする!


「ちょっ、ちょっと! 何するのよ、この子は!」


 今の母親の声が、思い切りテープに録音されてしまった。


『馬鹿めが……!』


 兼松は、頭を抱えてうなだれる。一方、明石は自分のうかつさを呪いながらも、さらに信じ難い事実を発見してしまっていた。


 ビーフカレー。ルーの箱に、そう書いてある。


 豚肉じゃないのか? 明石は思い当たり、すかさずごみ箱に捨てられた空のパックに視線を注いだ。そのパックの表示には、『牛角切りカレー用 426円』と、明記されている。


「なんで今日に限ってビーフカレーなんだよう!」

「何言ってるのよ! あんたこの前、たまには豚肉以外のカレーも食べたいって言ってたから、せっかく奮発したんじゃない!」

「そ、そうだっけ?」


 動揺するあまり緊張が一線を超えてしまったのか、明石までもが 声をひそめるのを忘れてしまっていた。


「で、どうなの? カレーでいいのね?」

「う、うん、カレーでいいよ」


 明石はその場を取り繕うように受け答えし、台所を離れた。居間に戻ると、兼松が怒り心頭の顔で睨み付けてくる。


『俺はお前を、見損なったぞ』

『……い、いやあ、悪気はなかったんだ』


 明石は愛想笑いを浮かべつつ、必死に弁明する。だが、迫り来る豆腐屋の呼び声を聞きながら明石は、もはや何を言おうとも少なくとも今日中には兼松の機嫌が直ることはないと気づいていた。

 豆腐屋の呼び声はどんどん大きくなってくる。もう録音テープにも、記録されはじめているだろう。二人は絶望を感じ始め、心中にあきらめの思いが強くなっていった。


 そのときである! 予想もしなかったことが起こった! なんと、豆腐屋のスピーカーからあれだけ鳴り響いていた呼び声が、突然ピタリと止まったのだ!

 これはいったいどうしたわけだ? 二人は窓越しに身を乗り出し、豆腐屋の車を見やった。

 するとどうだ! 明石家のお隣の米山のおばさんが、豆腐屋の親父を呼び止め、豆腐を買おうとしているではないか!

 二人は思わず顔を見合わせ、口々に意味不明な喜びの言葉をしかも小声で叫び合っていた。

 やがて、再び豆腐屋の車が動き出し、スピーカーから呼び声が流れ始めた。その瞬間、まさに絶妙のタイミングでテレビの方もコマ ーシャルに突入する。

 約一分間、奇跡のような時間が流れていた。豆腐屋が家の前を通過し、去っていく。過ぎ去っていく。二階で明石の妹が豆腐屋のスピーカーで起こされ、大声で泣き始める。母親が二階に駆けつける。

 あまりの出来事に兼松と明石は狂喜乱舞し、握り締めた拳を天に突き上げた。


 ところが。ところが、これだけのことがこの十数分間という短い時間に起こったにも拘わらず、さらに今度こそ本当に誰も予想し得なかった事態が待ち受けていようとは! 恐ろしいことが起こった。 本当に恐ろしい出来事は、この直後に起こったのだ! そう、まさにこのとき、コマーシャルが終わり、この日のガンダムのBパート が始まるはずだったというのに!


『番組の途中ですが、臨時ニュースをお伝えします。グリコ・森永事件に関する新しい情報が入りました。犯人の特徴に関する……』


 一瞬、兼松と明石は何が起こったのか理解できなかった。思考は一時的に完全停止し、兼松は呆けた表情で、口を半開きにしたまま何か言おうとしていた。


「なにが……なにがおこったのれすか?」


 ようやくまともに発声できた言葉がこれだった。明石はその言葉でようやく我に返った。テレビの画面に映し出された「キツネ目の男」の似顔絵と、兼松の呆けた顔を交互に見比べる。

 明石は全てを悟った。もはや何もできることはない。彼はせめてもの手向けに、絶望の笑みを浮かべ、兼松の肩をそっと叩くのが精一杯だった。

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