君の骨の髄を見れたら

鍋谷葵

君の骨の髄を見れたら

 風がごうごうと吹きすさぶコンクリートの高所にて、僕は流動的に人と車とがひしめきながら動き続ける大都市東京の大路を見下ろす。安っぽい錆付いた鉄柵に腕を乗せて、灰色の世界を見つめてみる。空はどんよりとした雲に閉ざされて、命を称える太陽は汚されている。鼻につく臭いも天蓋のせいか普段よりも酷く感じられる。町全体から漂う腐敗は、人間社会に立ち込めて息苦しさを演出する。

 胸やけがする。

 今にも胃の中のモノを吐き出しそうだ。

 見えない籠に覆われた世界の狭苦しさ、その不快感に僕は吐き気を覚える。中学生の時からずっと感じてきた、閉塞的な感覚は遂に僕の精神面に侵し、僕の実存在を脅かしてくる。僕が空間に生きることを否定しているように。しかも、厄介なことに僕がこんなことを感じているのは、他でもなく僕の自意識のせいだ。僕が胸の内で成長させた過敏な自意識が、僕の心を締め付ける。

 血管が硬直し、肉体が病にかかるように、僕の善良で柔軟だった精神は僕自身の思考によって硬直化した。硬くなった僕の精神は、僕の精神に流れるべき享楽の感覚の流動性を押し殺した。少なからず僕は、そう思っている。

 長い間切ってない黒髪が、風になびき続ける。こんなに風が吹くってわかっていたら、昨日髪を切っておけばよかった。目に細い髪がかかって邪魔だ。せっかくならさっぱりとした髪型でいたかったなあ……。

 風が吹き終えるまで、髪が目に入らないように目を閉じる。一時的に閉ざした視覚の影響か、僕の体は音と風の生暖かさがより感じられる。先鋭化された知覚は、僕の体を震わせる。漠然とした不安が、僕の体を包み込む。


「ああ、来てたんだ」


 背後で聞き馴染みのある声が、風の音にかき消されることなく僕の耳に届く。僕がここに来るときに開けた蝶番のさび付いた重い扉を開ける音はしなかった。

 ただ、あの人の声は僕の耳にそっと届く。


「君に来てと言われたからね」


「私に『来て』って言われたら来るんだ」


 聞き馴染みのある気だるい声から、僕は表情を瞼の裏で想像する。君の白々しくて、こちらを軽蔑する表情を思い描くと心なしか、僕の閉塞感は緩む。


「それは来るよ。君は僕なんだから」


「私をアナタと一緒にしないで。私はアナタとは違う。アナタみたいな安っぽいくて、衝動に侵されやすい人間とは違う」


 音もなく僕に歩み寄った君は、僕の背中をバシッと叩く。ひりひりとする痛みが、背中に残る。けれど、背中に残された痛みは僕の硬直化した精神を弛緩させる麻薬となる。

 心地よさに僕の脳は痺れる。いや、溶ける。何か神聖な存在と同化する。そんな感じだ。


「heroin……」


「何を言ってるのアナタ?」


「ヴェルヴェッツの曲。君も聞いた方が良いよ。きっと気に入るはずだからね」


「違う。アナタが私をそう知覚しているだけ」


 機能しない脳が紡いだ言葉とその言い訳に関し、君はため息を漏らす。

 確かに僕は君を劇薬と同等に見なしているかもしれない。僕にとっての君は、替えの利かない大切な存在なのだから。目に入れても痛くない、傷つけられても痛くない意思の集合体だ。


「私は人間」


「十字架? それとも月光。果たして蝙蝠?」


「私は私。人間。そう思いたいのよ」


 急に君は声色を弱々しくさせる。

 僕はじれったい君を猛烈に摂取したくなった。君の恥じらいの端から端まで、全部僕は食べつくしてやりたい。

 不安な心持は、享楽に預かりたいという欲望に変貌する。音を立てて、硬直化した精神は一時的に硬化を解いて、僕の中に快楽を生み出さんとする。

 衝動は膨れ上がる。


「なら、今から証明してあげるよ。君は存在的には非人間だ。世間一般から見れば御伽噺から飛び出た存在だし、唯一無二の存在だ。だからこそ僕と君とは一緒に居るんだよ」


「そう……」


 振り返って、僕は欄干に背中を預ける。後ろに倒れれば、僕の体は真っ逆さまに硬い地面に叩きつけられる。エネルギー保存則から察するに、僕はバラバラに砕け散る。骨と肉が混ぜ合わさったグロテスクが、流動する社会に衝撃を与えて一時的に、この空間だけでも止めるはずだ。あるいは見向きもされず、回収されるか。

 ただ僕はグロテスクになりたくない。なるとしたら、君の手で、僕の肉から、脳から、骨から、髄液まで粉々にしてもらいたい。僕は君に殺されたい。


「嫌よ」


 明らかに拒絶する君の声に、僕は目を開ける。

 強風になびく白い髪を君は、真っ白な手で押さえている。そして赤い目を細めながら、僕を忌避的な視線で見つめる。

 僕は君の視線に、ぞくりと快感を覚える。


「そっか。残念だ」


「こっちから願い下げ」


「そっか……。eをつければ」


「私とアナタはそういう関係じゃない。私とアナタは、満ち欠け」


「ヴァンパイアと神父……?」


「片方は正解。片方は間違い。アナタはジャックザリッパー」


「Riders on the Storm」


「理性ある殺人。享楽を求めるための言動。つまり、一時的な幸福の追求」


 顎先に手を当てながら君は、僕と君との関係、その僕なりの回答を導く。そして理知的な冷たさと、白く美しく愛らしさを持つ少女はにこりと笑う。


「正解」


 僕も君の回答に笑う。


「それなら早くして。今日は曇りだけど、やっぱり陽には弱いから」


「ドンドン」


「何それ?」


 唐突に吐き出した僕の声に気を取られた君を、僕は懐に隠しておいたモンキーレンチで一殴り。君の脳天に、鉄製工具は勢いよくぶつかる。

 頭蓋が割れて、血と脳漿が混じり合った液がぴしゃり。君は硬くて冷たいコンクリートの上に、だらりと倒れこむ。

 倒れた君の頭から血はだらだらと、とめどなく流れ続ける。けれど、君は死の間際にも関わらず僕を睨みつける。


「いきなりなんて最低ね」


「いいじゃないか、これで救われるんだから」


 僕は腰を低くして、君に視線を合わせる。モンキーレンチはそっと足元において、いまだに君を殺した心地良い感覚が残る右手を君の口元に差し出す。


「対価だよ」


「割に合わない」


「そっか。でも、とりあえず」


 そういって君は、鋭い白い歯を曇天に輝かせる。そして、君は僕の手に力強く噛みついて、血を吸う。

 すると君から溢れ出た血は、見る見るうちに傷口に集まって、空いたはずの穴は修復される。

 いつ見ても不思議な光景だ。

 異様な光景に僕が目を奪われている内に、君は立ち上がっていた。顔色は悪く、いまだ頭に残る鈍痛に悩まされている。


「これで今月分は終わり?」


 そんな君に僕は上目遣いで問いかける。


「ええ、これで終わり。それじゃあね」


 君は明らかに疲れた様子で、僕の隣を通り過ぎて、鉄柵を超えて、宙に舞った。


「そっか……」


 右手に残る感触を温めて、僕は曇天を見上げる。

 さっきよりも随分といい気分だ。


「ああ、いつか君の骨の髄が見れたら……」


 僕の声は強風にかき消される。

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