第11話
秀峰の言葉が信じられないのではない。そんなことをする人間が存在することが信じられなかった。
「母が宮婢とされたように私も宦官となり、ここ後宮に入れられました。ただ罪人の子だと周りからは思われていることもあり、なるべく人の目に付かない仕事を隠れて行っておりました」
それでか、とようやく雪琳は得心した。何度もこの庭園に通っていた雪琳が、あの日まで秀峰と顔を合わさなかった理由がようやくわかった。「それから」と秀峰は続ける。
「先程の香杏様、彼女のお父上と私の父の間に親交があり、何度かお会いしたことがございました。それで覚えていて下さったのでしょう。こんなところで再会するとは思っておりませんでしたので、少々戸惑いましたが……」
秀峰は困ったように言う。自分の過去を知っている人間に会いたくなかったのかも知れない。けれど。
「いいなぁ」
「え?」
思わず呟いた言葉に、秀峰は首をかしげる。
「あ、えっと、いえ。なんでもないです」
「……言って下さい」
「本当に、なんでも、なくて」
「雪琳様。……こちらを向いて下さい」
隣に座る秀峰がまっすぐに雪琳を見つめる。こんな距離でこんなふうに見つめられれば逃げることなどできない。
観念して雪琳はおずおずと口を開いた。
「……その、いいなって。香杏は私の知らない秀峰のことを知ってるんだなって、そう思うと少し寂しくなった、だけです」
「雪琳様……」
「く、くだらないことを言ってすみません。それにほら、あのこうやって話してくださったということは私のことを信頼してくれているということで、それはそれで嬉しいなとか。ああ、もう。何を言ってるんでしょう、私は……。今のは全て忘れて下さい!」
それ以上は耐えきれず、雪琳は秀峰から目を逸らすと俯きもう一度「ごめんなさい」と呟く。そんな雪琳のすぐそばで「ふっ」と笑い声が漏れ聞こえた気がした。
「え……?」
顔を上げるけれど、そこにいたのはいつも通りの仏頂面で感情を消した秀峰だった。先程の笑い声は、気のせいだったのだろうか。首をかしげる雪琳に、秀峰はまっすぐ前を見据えたまま話しかけた。
「雪琳様、私の名は崔秀峰。今はもう名乗ることを許されてはおりませんが、それが私の本当の名前です」
「崔、秀峰様」
「はい。……この名を、覚えていてくれますか? あなたには知っていてほしい。私がただの太監、秀峰ではなく、崔秀峰として生きてきたことを」
その言葉が持つ重みを、わからないはずがない。本当はきっと、こうやって雪琳に名乗ることすら許されてはいないはずだ。性を奪われるということは、それだけ重大なことだから。
気付くと雪琳の頬を涙が伝っていた。何度も何度も必死に頷くと、雪琳はほんの少しだけ左手を秀峰の方へと寄せた。その手は秀峰の右手の指先に触れる。
抱きしめ合うことも、手を握り合うこともできない。今はこうやって指先を絡めるので精一杯だ。
後宮の妃としてこんなことを祈るのは間違っているのはわかっている。しかし、それでも願ってしまう。
いつの日か後宮を出られたら、ぶっきらぼうで優しくて、大好きで愛しくて仕方のないこの人の身体を抱きしめて「辛かったね」と言ってあげたい。そっと両腕で包み込んであげたい。指先に感じるぬくもりに触れながら、心の底からそう思わずにはいられなかった。
けれど、すぐにそんな想いが夢物語でしかなかったのだと、打ちのめされることになるとは、このときの雪琳はまだ知らなかった。
後宮咫尺天涯物語 望月くらげ @kurage0827
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