第10話

 香杏の視線は、まっすぐ秀峰に向けられていた。秀峰の方も香杏の姿に目を見開き、その場で拱手の礼を取った。


 二人は知り合いなのだろうか。けれど、庭園を管理する太監など香杏は知らないと言っていた。それに先程、香杏が口走った『崔秀峰様』という名前。雪琳が秀峰の名を伝えるよりも早くその名を呼んでいた。


 ううん、それよりも、崔秀峰という人間を雪琳は知らない。雪琳が知っているのは庭園を管理する太監の秀峰だけ。香杏は、いったい雪琳の知らない秀峰の何を知っているのだろう。


「香杏?」

「え、あ、ごめんね」

「ううん。あの、秀峰と知り合いなの?」

「えーと、うーん」


 雪琳の問いかけに香杏はどこか歯切れが悪い。秀峰もどこか気まずそうに香杏から視線を逸らしたままだ。


「二人とも何か変――」

「ごめん、雪琳。私、ちょっと用があったんだ。またね」

「え、ちょっと香杏!」


 雪琳が止めるよりも早く、香杏は踵を返すとその場から立ち去った。残されたのは拱手の礼を取ったまま動こうとしない秀峰と、何がどうなっているのかわからないままの雪琳だけだった。


 そのままそうしていても仕方がないので、雪琳は秀峰の元へと向かう。けれど秀峰は雪琳が自分の元へと向かっていることに気付いたはずなのに、立ち上がり花の世話を始めてしまう。それは初めて秀峰が見せた明確な拒絶だった。


 聞かれたくないことなのかもしれない。けれど、香杏が知っていて自分が知らないことがあるということが悔しくて切なくてやるせない。


「秀峰」

「……何か」


 ビクッと肩を振るわせたのがわかった。そんなにも聞かれたくないことなら……。


「何も聞きません」

「雪琳様……」

「人に言いたくないことの一つや二つ、あることはおかしくはありません。ですが」


 雪琳は花の前でしゃがむ秀峰の隣に並ぶ。膝を抱えるようにしゃがんだまま、隣にいる秀峰に言った。


「こうやって寄り添うことだけは許して下さい。好きな人が辛い顔をしているときに何もできないのは悲しいので」

「雪琳様……」

「駄目、ですか?」

「いえ……。ありがとう、ございます」


 秀峰の口ぶりはいつもと同じだ。けれど、その表情はどこか悲痛な面持ちを必死で隠しているように見えた。いつか、話してくれる日が来るかもしれない。その日までこうやって寄り添っていよう。そう胸に決めた雪琳は何でもない風を装って話しかける。


「これは今、何をしているの?」


 土に触れ何かを確認している秀峰に尋ねるけれど、秀峰は地面を睨みつけるようにしたまま動かない。時折、何かを言おうとしたのか口を開き、けれど何も言うことがないまま口を閉じる。そんなことを数回繰り返し、そして――。


「雪琳様」

「は、はい」


 思い詰めたような声色で視線は地面に向けたまま秀峰は口を開いた。その態度に、雪琳まで緊張で声が上擦ってしまう。そんな雪琳に気付くと、秀峰はふっと空気を和らげた。


「昔話を聞いてくれますが?」

「聞いても、いいのですか?」

「……はい。聞いても気持ちのいいものではございませんが。ですが、雪琳様さえよければ、聞いて頂きたいのです」


 秀峰は「あちらに移動しましょうか」と四阿を手で示した。小さく頷くと、先を歩く秀峰の後ろをついていく。こんなふうに秀峰の後ろを歩くなんて、初めて会った日、怪我した雪琳の腕を掴んで歩いたあの日以来かも知れない。そう思うと、今は触れられていないのに、あの日秀峰が触れた箇所が熱を帯びているような、そんな錯覚を覚える。


 二人並んで長椅子に腰をかける。随分と日差しが暑かったせいか、こうやって四阿にいると少しだけ暑さが和らいだ気がした。


「私は」


 隣に座る秀峰がぽつりと話し始めた。


「ここに入る前、宦官となる前はとある官吏の一人息子として暮らしておりました。裕福、というほどではございませんでしたが食うものにも寝る場所にも困らないような、そんな生活を送っておりました。五年前のあの日までは」

「あの日?」


 隣で秀峰が手を固く握りしめたのがわかった。その手にそっと自分の手のひらを重ねようとした。けれど、雪琳の手が触れるより早く秀峰は首を振った。


「駄目です」

「誰も見ておりません……!」

「それでも……。ここは後宮で、あなたは妃嬪。私は宦官です」


 秀峰の言うことは正しい。けれど、感情が理性を軽く飛び越えてしまいそうになる。それでも雪琳は秀峰の手に触れたい気持ちを抑え込んだ。静かに頷くと秀峰は話を続けた。


「ある日、父に嫌疑がかけられました。実の親殺しの。もちろん冤罪です。どうやら直属の上司である男に嵌められたようでした」

「冤罪って……そんな、どうやって……」


 思いも寄らない言葉に雪琳は絶句する。目を伏せると秀峰は言葉を続けた。


「刑部尚書だったあの男は自らの立場を利用して祖父母の死を父の仕業に見せかけたのです。いくら父や母があれは病死だったのだと主張しても、状況証拠のみで犯人とされてしまい……。親殺しは尊属殺人そんぞくさつじん。その刑は、主上に対する反逆罪と同等に扱われる。つまり……死刑、です」

「酷い……!」

「私も当時憤りました。けれど、そんなの刑部の者にはどうだってよかったのです。ただ容疑者を仕立て上げ、解決したことにできれば、それで彼らの仕事は終わりですから」

「そんなのって……!」


 悔しさを隠しきれずにいる雪琳とは裏腹に秀峰は落ち着いているように見えた。秀峰にとっては、もう過去のことなのだろうか。


「悔しくは、ないの、ですか」


 その問いを口に出したことを雪琳は後悔する。膝の上で握りしめた秀峰の手は、力を入れすぎたせいか赤く変色し震えて見えた。


「悔しくないわけが、ないでしょう。ですが、罪人の子である私がそれを言えば、どう、なるか」


 秀峰は力なく言う。怒っていないわけがない。怒りが風化しているはずがない。ただそれをうちに秘めているだけなのだ。言葉にすることを、許されないだけなのだ。


「その後、父は処刑されました。母は宮婢とされ、あの男の元へと下賜されました。父を冤罪に仕立てあげたはく正林しょうりん。あの男が母を手に入れるために、父を……」


 信じられない、と口走りそうになって両手で口を押さえた。

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