後編 足音の先には

 

 “ダッダッダッ”


「ことはっ!!」


 咲花は突然現れた親友琴葉の姿を見た途端、その目に涙を溢れさせた。琴葉は咲花の腕を掴み、ぐいっと引っ張って必死に走る。


「琴葉っ! 今逃げたらだめなのっ!!」

「何言ってんの。あいつが本当に咲花を逃がすわけが無いから。心配しなさんな。私が、今回は、私が解決するから!」


 嫌がる咲花を必死で握りしめ、部室へと駆け込む。


「えっ! どしたっ⁉」


 小柴は驚きのあまり、椅子から落ちそうになっている。


「咲花を頼む!」

「おっおい!」


 早くしなければ。きっと今までこの力がありながら見ないふりをしていたツケが回ってきたのだ。琴葉は大きな足音を廊下に鳴らし響かせながら全力で走る。


 長い廊下を走ると津川の姿が見えてきた。こちらに気がついたらしい。琴葉ははぁはぁと全身で呼吸をしながら、津川を睨みつける。


「君か。本田さんを連れ去ったのは」

「そのままお返しします」


 フッ、と笑って津川は持っていたわざとらしく持ち上げた瓶から手を離す。パリン、と音を立てて瓶は割れてしまった。割れた瓶からはどこかで嗅いだ甘い香りがする。確か、初めは天文部の部室で、二度目は化学室で香ったあの匂いだ。やはり瓶の中身はあの薬品らしい。


「で、何か用事かな?」

「先生は学校にある薬品を使い、毒薬を作って校長室に仕掛けた。理由は知らないが、それを知ってしまった咲花に計画を手伝わせ、校長とともに毒薬の蔓延した部屋に入れるつもりだったんだろ?」

「さあ?」


 段々と津川の顔が曇る。

 やはりだ――。咲花の足音がずっと続いていたのは一度しか化学室へ行っていないと嘘をついたから。私を巻き込まないようについた、優しい嘘だ。優しいその嘘が咲花を苦しめた。だが、そのおかげでここまで辿り着く事が出来たのだ。


「まあ、教えてもいいか。どうせ話しても誰にも言えなくなるんだからな」


 窓から土砂降りの外を眺め、顎に手を当て悩む素振りを見せながら津川は語りだす。


「俺は少々危険な実験をするのが趣味でね。ある時、しまい忘れた薬品を生徒がうっかり触ってしまった。軽い事故では済まなかった。あの校長はすべて知っていたよ。他の薬品の事も。だが、校長はなぜかその事を口外しなかった。そしてそれからおかしな事を要求してきた。『君の嘘は隠す。だから代わりに君の物を何でもいいから貸してください』とね。このままでは脅されつづける。そう思って実行することにしたのさ」


 嘘をついた人ほどよく語るものだ。しかもどこか芝居がかっている。津川の悪びれもせず涼しげな顔で語る姿が琴葉の怒りを湧き上がらせた。


「それだけの理由で人を殺そうと? そんな酷い真実なら、よっぽどその辺の嘘の方がましだよ。よっぽど静かだよ!!」


 琴葉の言葉は雨によって揉み消される。

 こんなに熱くなったのはいつぶりだろうか。両手を握り締め、今にも津川に殴り掛かってしまいそうなのを押さえつける。琴葉は息を吐き、なんとか冷静を保とうとした。


「仕方無い。予定外だが、君で試すとするか」


 急に冷酷な顔になり、殺気の様なものをまとった津川が、琴葉にゆっくりと近づいてくる。このままではまずい。今なら、今なら、まだ逃げられるだろうか。革靴のコツンコツンという音が、琴葉の体が動く事を許さない。足音が、耳に響く。足よ、どうか動いてくれ。


 津川に追われる琴葉は逃げようとするも足が動かなかった。重々しい革靴の足音が、体を縛り付けてしまっているようである。今なら後ろに向かって全力で走れば簡単に逃げられるはずなのだが。


「どうした? 逃げないのか? それとも逃げられないのか。あんな口叩いてたのにな」


 不敵な笑みを浮かべ、琴葉の手首をガシッと掴む。


「離せっ!」

「離せと言われて離すわけがないだろ? それくらい猿でも分かるさ」


 嫌味な津川と恐怖心を抱き動くことの出来ない自分に腹が立つ。津川の手を必至に振り払おうとするも、逃れる事が出来ない。

 狂気じみた目と手首を掴むその強さから、津川が本気で人を殺そうとしているのだという事が伝わってくる。もうこの人は駄目なんだ――。冷たい、寂しい目が琴葉を鋭く見つめた。


「友達を助けようとしたその勇気は褒めてやる。だが、自分が犠牲になるとはよっぽどの阿呆だな」

「お前程、阿呆じゃない」


 何も返さない津川。もはや私の声など耳に入っていないのだろうか。もしくは阿呆だという自覚があるというのか。

 ふと、ポッケに天体観測用の小さな懐中電灯が入っていた事を思い出し、ガサガサと必死に取り出す。どうせなら最後まで抵抗してやりたい。なのに――。何故だろう。手が震えて仕方無い。思えば、これまで自分から嘘に、足音に向き合った事があっただろうか。


「その手にあるのは何だ?」

「あっ」


 悩んでいるうちにすっかり懐中電灯を隠す事を忘れてしまった。津川は懐中電灯を琴葉の手から無理やり奪い取る。


「懐中電灯? こんなもので抵抗出来るとでも?」

「やめろっ!」


 勢いよく投げ捨てられた懐中電灯は鋭く空気を切り、廊下の端へ鈍い音を立てて着地した。無惨な姿になった金属の塊が廊下の隅で横たわる。今度こそ、なす術が無くなってしまったのだ。


「夕方だ。まだ懐中電灯は必要ない」

「部活で使う物だ。投げるなよっ」

「部活? もう関係無い事だろ」


 段々と近づく校長室。私はこのまま――。遂に津川はその扉を開けた。微かに目が痛い。やはり部屋には何か薬品が充満しているようだ。


「この夕立じゃあ誰も気がつかないだろうな。さよなら、琴葉さん」


 “とんっ”と津川は琴葉の背中を押す。琴葉は一本の棒のように呆気なく、その場に倒れ込んだ。


「ぐっ、津川っ!!」


 扉がギィと小さな音を立てて閉まる。意識も次第に遠のいていった。あぁ、幻聴だろうか。遠くから「タッタッタ」と足音が聞こえてくる。夕立の音にもかき消す事のできない靴の音である。そして何やら争う声が――。


 “ドサッ”


 何かが倒れた様な重い音も聞こえてきた。扉の外で何が起こったのだろう。そして、再びガチャッという扉の開いたような音がした。それ以降、琴葉の耳に音が届くことはなかった。


 ――その後――


 目を開くと、明るい蛍光灯の光が目を突き刺した。ソファの上らしく、フカフカとした感触がある。ここはどこなのだろう。津川に押されて――。それから先の記憶が全くない。

 起き上がり、辺りを見渡すと、高そうな椅子やテーブルが並べられていた。壁には歴史を感じる色あせた集合写真が掛けられている。


「くだらない嘘でもついておくものですね」


 ふと声のした方を向くと、見覚えのある姿がそこにはあった。


「こっ、校長先生……?」

「はい。校長の高橋です」


 穏やかな校長先生の顔。どうやらしっかり生きているらしい。そうか。ここは、校長室か。校長室――?


「もしかして助けてくれたのって」

「まあ、私の責任でもあるからね。それより琴葉さん。あの時嘘ついたでしょ?」


 あの時――。あぁ、化学室の前で盗み聞きしていた時の会話か。確かに落とし物をしてしまっと嘘をついたっけ。いつもは辿る側だったというのに、今回は辿られたのか。


「先生も、足音が聞こえるんですね」

「ええ。何十年も聞いてきました。流石にこの年になると耳も辛くてね。ごめんなさい。足音を消していたのは私だよ」


 校長は机から万年筆を取り出してきた。わりと新しい物らしく、光沢を帯びている。


「嘘をつくと足音が刻まれる。だがね、その人の持ち物を持ってその足音を辿ると、それが足音を吸い取ってくれるんだよ。これは津川先生から貸してもらったものだ」


 万年筆を渡される。見た目以上に重く、万年筆からは振動が伝わってきた。足音が、本当にここに入っているのだ。


「これが足音の重さなんですね」

「そうです。同時に罪の重さでもあります」


 校長先生は学校に広がる足音を毎日消していたらしい。鳴り響く騒音に耐えられなかったのだという。津川のしていた事はもちろん分かっていた。だが、大きな騒ぎにするのが嫌で、代わりに毎日足音を消したのだという。今までの違和感も、すべて校長先生によるものらしい。


「情けないだろう。せっかく足音が聞こえるのにね。でも、琴葉さんの姿を見て決めたんです。足音に、向き合ってやろうと」

「やっぱり、悩みは同じなんですね。あの、津川先生はどうするんですか」

「もちろん、厳正な処罰を受けてもらう。本当に申し訳無い。気がついたあの時にそうしていれば良かったんだ」


 静かに琴葉は首を横に振る。


「あの事があったから、私は足音に向き合えたんですよ。後悔はしていません」


 ――それから――


 津川は教職解雇、この事件は報道もされた大きな騒ぎとなった。琴葉は津川が苦手であった。今も許せない。だが、校長先生の殺害を目的としていたとはどうも考え難かった。第一、あんなに異常な臭気の放つ校長室に自ら飛び込む人間がいるとは思えない。無理やり押し込む気だったのだろうか――。確かにあの人はおかしくなっていた。そのおかしさと、あの人の本性が何故か全く一致しない。しかしあの一連の出来事は事実。あの人の真実は、あの人にしか知り得ない。  


 あれから何日か経ったが、全てが解決したわけではない。咲花はあの事をまだ少し引きずっているようである。


「あの時はごめん――。私のせいで巻き込んじゃって、助けにも行けなかったし」

「気にしなさんな。後半分しかない高校生活、楽しみましょうよ」

「やっぱり琴葉は優しいなぁ。これからも、よろしくお願いします」


 フフッと二人で笑う。二人の目の前には真っ青な空が広がっている。


 今日も散歩をする。特に意味があるわけではない。いつの間にか事務室前に来ていた。やっぱり来てしまうのだなぁと思いながら、水槽を眺める。透き通った水槽には、きれいな赤やオレンジの金魚たちが優雅に泳いでいた。


「美しいですね」

「でしょ? 私が頑張って掃除したんですよ」


 校長先生はニコニコと水槽を眺めている。鍋山さんもいつの間にか事務室から現れ、校長先生と楽しそうに話している。


「そういえば、新しい顧問は誰がいいかね?」

「出来れば校長先生がいいです。もちろん、嘘じゃあ無いですよ」

「分かっています。ふふふ。そういえば、これを渡し忘れてました」

「これ?」


 渡されたのは、青色のピカピカとした小さな懐中電灯だ。以前の無機質な黒いものでは無かった。


「前のあれは少々使えるような状態では無くなってしまったのでね」

「あっありがとうございます。大切に使わさせていただきます」


 ――暗くなって――


 星がぎゅうぎゅうに敷き詰められた空を眺めながら、忙しすぎた夏のはじめを思い起こす。


「流れ星見えた?」

「見えないなぁ。今日は流星群じゃなかったの?」

「そうだよ。おっかしいな」

 

 静かな屋上。天文部のみんなと、咲花とリフレッシュがてら流星群の観測をすることにしたのだ。風が気持ちよく、絶好の天体観測日和である。


「せんせ〜い、何で見えないんでしょう?」

「もうすぐ見えますよ。あっ、ほら!」

「えっ、先生ずるいですよ!!」


 一年生と校長先生が流れ星を見つけた数で競っている。なんて平和なのだろう。校長先生も楽しそうだ。

 

「咲花、小柴、私達も勝負しよっ!!」

「仕方ねぇなぁ」

「負けませんぞっ!!」


 まだまだ夏は続く。前はそれが憂鬱だったが、今は全くそうではない。


 嬉しそうに望遠鏡を覗く先生。こんな時に悪い気もするが、つい、疑問に思っていた事を聞いてみたくなってしまう。


「先生、足音は、嘘は、あるべきですかね?」

「正直無いほうが嬉しいです。でも、聞こえることが今はちょっと楽しいのです」


 ニコッと優しく笑い、再び一年生と流れ星探しを始める。無邪気な姿に思わずこちらまで笑顔になった。


 足音は嘘をその空間に記憶する。辿ればその人に辿り着く。人を傷つける嘘は酷い音がする。優しい嘘は優しい、静かな音がする。嘘は嘘であるのに、音は全て違う。


 これからも多くの足音に出会うだろう。辿った先に何があるのか、真実はどうであるのか。どんな足音も、自分自身で、これからは確かめなければ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

フットステップ 如月風斗 @kisaragihuuto

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ