いなくなった妻とわたしと息子
藤光
ダンボールの剣と尾の長い金魚
手に持ったダンボールにカッターナイフを突き立てる。
ざくざく。
ダンボールは乾いた音を立てて切れてゆく。
ゆらりゆうらり。
伸ばした左脚の横を、尾の長い金魚の影が泳いでゆく。
もう、小学校の授業は終わっただろうか。
ざくざく、ざくざく……。
窓際の水槽のなかを泳ぐ金魚は、景子と湧太が神社の縁日ですくってきたものだ。もう四年も前になるのか、あのときは何匹もすくうことができて、少し大きめの水槽を働いていた会社の近くで買ってきたんだっけ。縁日で売られる金魚は弱いと聞いたとおり、いまはこの赤い一匹だけが水槽のなかで尾を揺らしている。
部屋の窓から差し込む日の光が斜めになって、本棚の上で泳ぐ金魚の影を畳に投げかけている。ひらりとその長い尾がひるがえった。午後三時三十分。そろそろ湧太が帰ってくる頃だ。
ミカン(10kg)の箱を切り開き、ホウレンソウ(1.5kg)の箱に貼り付けて剣の柄にしよう。近所のスーパーでもらってきた空のダンボール箱から湧太の手に合う柄を切り出すと、ボール紙にクレヨンで描いた青白い刀身を繋ぎ合わせる。一振りの剣ができあがった。
「ええな。ダイヤの剣やな」
「楯も作ってみたで」
小学校から帰ってきた湧太に、作り上げたばかりの青白い剣と灰色に塗った楔形の楯を取り出して見せた。
「こっちは鉄の楯か。お父さん、ダンボールで武器を作るの上手やな。学校でショウヘイに見せたらな。『おれもこれほしい』って言われた」
「こんなものでよければ、いくらでも作ってやる」
「ほんまに? じゃあ、ショウヘイとダイキにも作ってやって。学校で『マインクラフト』ごっこするんやから」
「よし」
湧太と仲の良い友達の間では、いまコンピューターゲームの『マインクラフト』が人気だ。ショウヘイも、ダイキもゲームソフトを持っていて、毎日小学校で『マインクラフト』の話をしているらしい。わたしも湧太からエンダードラゴンの倒し方がどうの、ウィザーの方がもっと強くてヤバいだのとよく分からない話を聞かされている。
友達と同じように『マインクラフト』で遊びたいだろうに、湧太がそんなことを言っことは一度もない。父親にゲームソフトを買ってやる余裕がないことをわきまえているのだろう。自分のことを振り返れば、小学生の頃のわたしはまだまだ子どもで、欲しいものはほしいと無邪気に親にねだっていたというのに。
――不甲斐ない父親でごめんな。
一本の棒のように伸びたまま曲がらない自分の左脚に目を落とす。息子に子どもらしい時間を与えることができていないんじゃないかと、胸の内が申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
まだ水槽に何匹もの金魚がいたころ、水槽の水が汚れてきたので汲み置きと交換しようと、湧太とふたりアパートの外階段を駆け下りようしたときのことだった。金魚に気を取られて赤錆の浮いた鉄の踏み板を踏み外したわたしは、二階から一階まで転落して気を失った。
――大丈夫! お父さん、大丈夫!?
湧太の泣き声で目が覚めた。
ああ、大丈夫だよ。お父さんは大丈夫だ。でも、ごめんよ。水槽をひっくり返してしまった。湧太とお母さんが可愛がっている金魚なのに。
コンクリートの上で跳ねている金魚の長い尾をつまみ上げて、空になってしまった水槽に入れる。湧太、金魚に水をあげてくれ。
助けられた金魚は一匹だけ。地面に這いつくばって動けないわたしの手が届いたのはそれだけだった。左手をねん挫し、脚の腱もひどく痛めていた。仕事を優先してすぐ医者に診てもらわなかったのも良くなかった。痛めた左脚はやがて石のように固まって動かなくなった。
仕方なく入院した。
入院している間に、工務店の仕事はクビになった。
――悪いけど、もう来んでもええわ。
――そりゃそうやろ。うちは工務店やで。人さまに家を建ててなんぼの商売や。大工が屋根に登れません言うて、そんなん仕事になるわけないやないか。
――そう言うけど、脚さえ治ったらあとはなんぼでも潰しのきく仕事や。堪忍な、いまはゆっくり養生しい。
電話の向こうで工務店の社長が頭を下げている様子が伝わってきた。なにも言い返せなかった。社長が悪いわけじゃない。
医者からは、脚は元どおりに動かないと告げられた。
――この怪我をする以前にも同じ箇所を痛めてますね。
――そうですか。そのとききちんと治療していればよかったんですけど。
――難しいですね。元どおりというのは。腱が切れてますし、ずっと放置してきたため周辺の組織と癒着してます。再建手術には費用も時間もかかるうえ、元どおりと約束はできません……難しいですね。
――もちろん、きちんとリハビリを受ければ良くなりますよ。気長に怪我とつきあっていきましょう。
無機質な診察室で白衣を着た若僧が、諭すようにそう言った。手術はできない。リハビリだって通えるかどうかわからない。わたしには時間も金もないんだから。
退院の日、湧太がひとりわたしの病室へやってきた。
アパートへ戻ると、部屋から景子の姿が消えていた。
「お母さんがな……病院までお父さんを迎えにいってほしいって言うたんや――」
景子の荷物だけがそっくりなくなったアパートの部屋で、湧太とふたり言葉を失ったまま立ち尽くした。わたしは時間と金だけでなく、家族も失おうとしていた。
景子は、優しくて気が弱く、なにかに依存せずにいられない女だった。このとき働いていた店の客との関係が怪しいとは思っていたけれど、わたしは放っておいた。これまでにも何度かそういうことはあったし、その都度、傷ついた彼女はわたしのところへ戻ってきていたからだ。そもそも、結婚するまでのわたしだって、景子の客だった。彼女のことはよく分かっているつもりでいた。
しかし、わたしが怪我をして働けなくなってしまったという事実は、わたしが思っていた以上に彼女にとってショックなことだったようだ。すがりつくものがなくなってしまう不安に耐え切れなくなった景子は、つまり――
わたしのことよりも可哀想なのは湧太だった。まだ子どもだから、景子の心の動きは理解できない。家族を置いて家を出る彼女の苦悩を想像できない。分かるのは自分が母親に捨てられたという事実だけだ。わたしは彼のために腹を立てたし、声に出してそこにいない妻を詰ったりした。言葉にはしないけれど、お父さんはいつもきみの味方だ――と伝えなければならないと思った。
景子が家を出て半年になる。
母親のいなくなった当初は、精神的に不安定だった湧太も落ち着いた。毎日、小学校に通えているし、友達と遊んだこと、学校での出来事などよく話してくれるようになった。ただ、いなくなった母親の話は決してしようとはしなかった。
「ダンボールの剣、どうやって使うんや」
「ちがうでお父さん。ダンボールの剣やなくて『ダイヤの剣』やって――あのな、こうやって構えてな。こうやって振るんや。見てて」
息子は『ダイヤの剣』を振り回しながら、自身は遊んだことない『マインクラフト』の敵キャラの撃退方法を教えてくれる。毎日、友達とその話をしているのだ。
「――って、こうやるねん。やってみせるから、お父さん相手して」
湧太にせがまれ、ダンボールで作った『鉄の楯』を手に立ち上がる。父親が『マインクラフト』ごっこに付き合ってくれると分かった湧太はうれしそうだった。息子が喜んでくれると、つい、わたしも調子に乗ってしまう。左脚が良くないことも忘れて、ダンボールの剣を振り回す湧太とふざけ合っていると、剣を避けた拍子に力の入らない左脚で体重を支える体勢になり、バランスを崩してしまった。
大きくふらついたわたしの肘が金魚の水槽を突き飛ばし、大きな音を立てて水槽が床の上にひっくり返った。アパートの畳は水槽の水でびしょ濡れである。
「しまった。すまん、すまん」
謝って台所の雑巾を取ろうと手を伸ばそうとしたわたしは、大きな声とともに激しく突き飛ばされてその場に転倒した。
「阿呆! 金魚が――死んでしまうやろ!」
突き飛ばしたのは湧太だった。素早く駆け寄ると横倒しになった水槽を起こし、畳の上で跳ねている金魚をそっと手ですくいあげて水槽に戻していた。
「死んだらあかん。死んだらあかん――」
湧太は真っ青な顔のまま部屋を飛び出すと、カルキ抜きのために汲み置いた水道水を抱えて戻ってきて水槽に継ぎ足した。死んだらあかん、死ぬのはいやや――と泣きながら呟いていた。そして夜、布団に入るまで、晩御飯のことも大好きな『マインクラフト』のことも忘れてしまったかのように黙りこくって、ただ水槽のなかでひらめく金魚の尾ばかりを眺めていた。
「ごめんな。お父さんのこと阿呆いうて」
その日の夜、部屋の電気を消すと、並べて敷いたわたしの布団の中に何年ぶりかで湧太が潜り込んできた。
「ええんや。水槽をひっくり返してしもうたお父さんが阿呆やったんやし」
「お父さんは阿呆ちゃうで!」
「そうか――」
湧太は布団の中でも泣いていた。
「あのな。お父さんが退院してきた日の前の晩にもな。こうやってお母さんとふたりで寝たんや」
「……」
「泣いとった。お母さん泣いとった。お父さんにもごめんなって、泣いとった。その時はなんでか分からへんかったけど、苦しそうに泣いとった……。
思い出すねん。金魚を見てるとお母さんのことを。悲しくて苦しくなるけど……ぼく、忘れたくないねん……」
泣きながら湧太は眠ってしまった。
わたしは自分のことを阿呆やと思った。やっぱり阿呆なんやと、まだ小さい息子を泣かせてしまうどうしようもない父親やと――思った。父親がそうだからといって、同じように母親を憎める子どもがいるだろうか。仕事を失い、景子を失ったわたしは、まだ小学生の湧太にすがりつこうとしていたのだと気づいた。
翌日――。
湧太が小学校へ行っている間、わたしは怪我をして以来、久しぶりに家を出た。入院していた病院へ出かけ、以前働いていた工務店の社長に電話をかけた。左脚のリハビリと、遅くなった退院のあいさつである。まず、脚が動くようになるまでリハビリをしよう。そして、また仕事に戻るのだ、元どおりになる必要はない、新しい自分を見つければいいんだ、そう考えることにした。新しい生活をはじめるんだ。そのためには――買っておくものがある。
「ただいま」
「おかえり」
「なにこれ……『マインクラフト』や! ニンテンドースイッチもある! これどうしたんお父さん」
もちろん、おまえのために買ってきたんや。湧太をいつまでもダンボールの剣で遊ばせておくわけにいかへんからな――お父さん頑張るで。いつまでも下ばかり向いてられへんわ。わたしは、まだ棒のようになったまま動こうとしない左脚をさすった。
玄関に移された水槽のなかでは、まだ小さな金魚がその長い尾を揺らして泳いでいる。
いなくなった妻とわたしと息子 藤光 @gigan_280614
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
「百年の孤独」日記/藤光
★7 エッセイ・ノンフィクション 連載中 40話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます