終章 三人よれば

その日も、製鉄所では、水穂さんにご飯を食べさせようと、杉ちゃんが躍起になっていたところであった。最近、史のレッスンとか、やっていたから体調がいいのかなぁと思われていた水穂さんは、昨日、利用者が出したサバ缶にあたって、大変なことになってしまったのだった。

「さあ今日もたべるだよ。今日はサバ缶もなにもないよ。そばだから安心してだべろよ。」

といって、杉ちゃんは、サイドテーブルにそばの器をおいた。ところが、水穂さんは、そばを食べる気がしないようで、起き上がることもしないで、何もしなかった。

「ほらあ、食べるだよ。なんにも食べないのはだめだよ。いくら昨日は悪かったとしても、今日は食べなくちゃね。当たらないように、具材は山菜とキノコにしたよ。肉さかな一切いれなかったから、しっかり食べろ。」

杉ちゃんは、そういうが水穂さんは何も食べなかった。杉ちゃんは一つため息をついて、

「もう、怖いのはわかるけどさ、でも、食べないと、ほんとにだめに、なってしまうぞ。」

と、言ったのであるが、やはりだめだった。水穂さんは、布団を被って、食べ物の反対の方を向いてしまうのである。

「あーあ、どうしたらいいもんかなあ。いちど倒れるとすぐこれだよ。あのねえ、人間は動物だから、食べ物をとらないと、退化してしまうぞ。食べないと、体はもちろんだけど、精神もおかしくなる。それくらいわかるもんだろう?だから、1日3食、食べなくちゃだめなの。」

杉ちゃんがいくら言っても水穂さんは食べようとしなかった。こういうことは、ある意味現実を超えたものというか、心霊的なものが必要かもしれなかった。当たり前のことを当たり前にできないときに、人間が考えられるのはほんの僅かなことに過ぎない。人間同士でできることも限られている。そういうときにシャーマンとか、ユタのような人物が、必要になってくるんだと思う。

「おい、食べないとさ、また、史さんがピアノを習いに来るじゃないかよ。そのときに、寝たままでは、レッスンできないよ。どうする気!」

杉ちゃんがそういうと、製鉄所の玄関の引き戸がガラッとあいた。

「あら、誰かな?」

杉ちゃんが言うと、

「ごめんください。右城先生、いらっしゃいますか?」

中年の女性の声である。

「いま、動けないの。上がってきてくれる?」

杉ちゃんがそういうと、

「分かりました。」

と言ってあがって来たのは龍村千代だった。

「あれ、今日は一人ですか?史さんは?」

杉ちゃんが聞くと、

「史も、落ち込んでしまっているみたいで、最近はこちらにも来たがらないのです。順子が、あんなことになって、しかも、これからのこととか、考えなくちゃならなくなりますよね。あたしも、何がなんだか、わからないんです。なんで順子は、あんな事件を起こしたのか。」

千代は水穂さんの近くに座った。

「あたしも、なんであんな事件を起こしたのか、よくわかりません。順子は、あたしになんでも話してたのに、まさかおじいさんのことをあんなに嫌っていただなんて。」

「まあ、したことはしたことだが、一命はとりとめて良かったな。それははっきりしている。」

杉ちゃんがそういうと、

「そうかな。」

と、水穂さんがいった。

「また、もう一回、やり直さなきゃいけなくなる。相手も意識があるわけだから、やり直すのは、相当難しいと思うよ。」

「私も、そう思っているんですよ。右城先生が言うとおり、みんな感情で、ものを言うから。とくに、順子のおじいさんは、耳が遠いし、人の話を聞かない人だから、自分が被害者という意識がなくならないでしょう。」

千代は水穂さんの話に合わせた。

「まあねえ、いま小久保さんが、華岡さんの助けを借りて、順子さんが、犯行を犯した日、心神耗弱であったことにしてくれているらしいが、華岡さんは、相当難しいって言ってた。」

杉ちゃんは、とりあえず事実をのべた。

「そうですよね。あんな事件を起こす前に、私に話してくれればよかったのに。なんで、順子は何も言わなかったんでしょうね。ほんとにそれだけが悔やまれますよ。」

「まあ、そうですね。でも、人間って、関係が濃くなっていけば行くほど、相手に悪いのではないかという気持ちが働いてしまって、うまく表現できなくなりますよね。」

水穂さんにそう言われて、千代は、たしかにといった。

「例えば、人間を救いたいと思ったら、素人ではなくて、カウンセリングの資格取るとか、そういう職業に就いたほうがいいのかも。それとも、出家するとか、どこかのシャーマンみたいな人に弟子入りさせてもらうとか、方法は色々ある。問題は、それをどう活かすか。」

「そうですね。下手に手を出してはいけないことは私もわかります。」

杉ちゃんがそう言うと、千代はそのとおりという顔をしていった。

「多分きっと、順子さんとは、しばしお別れすると思うから、その間、順子さんを助けられる人間に生まれ変わるのもまたいいかもしれないよね。もう、汚い女郎さんは嫌なんでしょう?」

「そうかも知れないけど、私は、その仕事しかやって来ませんでしたから。」

千代は、恥ずかしそうにそう言うが、

「いや、意外に、そういう女性、いるんじゃないですか?女郎さんと呼ばれていた女性が、誰かを救いたいと思う例は、結構ありますよ。」

と、水穂さんが言った。千代は、水穂さんに言われて、少し考え込む。

「確かに、もう年増女郎ではあるけれど、私に誰かを助けることなんてできるのかしら?」

「それはやってみなきゃわかりませんよ。言葉通りです。やってみなきゃわからない。でも、自分次第で何でも変えることができることもありますよね。」

水穂さんにそう言われて、千代はまた考え込んだ。

「まあ、あんまり深く考えないでさ。気軽な気持ちで、のんびりやれや。」

「そうね。」

杉ちゃんの言葉に千代は、はいと頷いた。

「それでは、というか、私、今日は、これを絶対しなければならないと思って、こさせてもらったんですけどね。でも、」

「はあ、僕がいたらお邪魔虫かな。」

杉ちゃんは、感づくのが速かった。

「じゃあ、お邪魔虫は消えるよ。」

杉ちゃんが、車椅子を動かして、四畳半を出たのを確認して、千代は、水穂さんの顔をじっと見つめた。それは、やっぱり女郎という面持ちもあったけど、でも、自分の意思で、しっかり水穂さんを見つめているのがわかった。

「右城先生。あたしの気持ちを、伝えさせてください。史や、順子の前では絶対言えない、あたしの気持ち。先生は、あたしみたいな女郎を変なやつだと思うかもしれないけど、先生、私、先生が好きです。この気持は、誰にも変えられません。どうせだめになることはわかっていますけど、でも、先生にあたしの気持ちを伝えたかった。だから今日はこさせてもらいました。いつもは、三人一緒だから、こういうときでないと、だめかなと思って。」

「わかりました。」

水穂さんは、千代の顔をじっと見た。

「残念ですけれども、体が思わしくなくて、千代さんの意思に従うことはできませんが、それでも、お気持ちはもらっておきます。お答えできなくて、申し訳ありません。」

水穂さんにそう言われて、千代は、そう言われることを予想していたのか、それとも、それで当たり前だと思ったのかわからないが、なにか決断したような顔をして、

「いえ、いいんです。先生と一度でいいから、人生について、話してみたかった。それだけですから。これ以上、あたしが、男の人を好きになることは多分無いでしょうから、もう最後の恋です。年増女郎の。」

と、言ったのであった。

「でも、そんなことは決めてしまわず、好きな人ができたら、一緒になってもいいと思います。それは、千代さんが決めればいいことですし、誰かに制限されることでも無いと思います。千代さんは少なくとも、僕みたいに、何をやっても成就しない身分では無いわけですから。それは、大きな違いなんじゃないですか。そこは、気にしないでもいいと思います。」

水穂さんがそう言うと、

「いいえ、私も女郎ですもの、似たようなものですよ。おんなじように、自分の身は自分で建てなきゃいけないから。それは同じなんじゃないですか。ただ、先生は、その歴史があっただけで。私は、誰にも言いませんよ。先生がそういうところの出身だったなんて。それが、逆を言えば、私が、先生の事を愛してるっていう証明になるのかもしれないですよね。」

千代は、またにこやかに笑った。

「とりあえず、今度どこかで会うときは、女郎はやめて、もう少しマシな仕事になっているように誓います。だから、先生も、生き抜いてください。ピアニストとして。」

「ええ、わかりました。」

水穂さんは小さく頷いた。

「はあ、なんか、今までやりたかった望みがやっと叶いました。これからは、誰かの望みを叶えてあげられるような、仕事に就きたいな。もう汚い仕事はしませんよ。」

と、同時に千代のスマートフォンがなる。千代は、もしもしと話を始めた。水穂さんは、布団に寝たまま、彼女の話を聞いた。多分、警察の関係者からだろう。順子が、あのとき殺意があったかを調べているのだ。千代は、順子はとても温和な性格で、普段の日は、祖父のことを殺害してやるとか、そういうことは口走ったことはないと、はなしていたから。こういう事件が起こると、必ず何かが変わっていくものなのである。

「いま、順子の担当刑事さんから電話がありました。順子、これから裁判になるそうです。裁判では小久保さんが、順子のそばに着いていてくれて、

順子の弁護をしてくださるそうですから。私も、順子を信じて、帰ってくるのを待つことにします。」

「順子さん、きっと自分の罪をしっかり償って帰ってくると思いますよ。」

水穂さんは、そう言って、千代を励ました。

「順子さんは、寂しかったんだと思います。いくら三人いつも一緒だったと言っても、階級も何も違うわけだし、家族構成だって違ったわけですから、人間仲良くなればなるほど、遠ざかってしまうこともありますよね。」

「ええ。私も、その辛さは少しわかるつもりだったんですけど。順子は、歳が違うし、なかなか言い出せなかったのかな。私は、一生懸命彼女を世話したつもりでしたけど。でも、やっぱり力が及ばなかったんですね。あたしが一生懸命順子のちからになってやりたいと思ったけど、でも、結局できなかった。あたしは、だめな人間でした。順子にも何もしてやれなかった。あたし、順子が帰ってくるまで、頑張って生きて、順子が帰ってきたら、家の明かりをつけて、出迎えてあげますよ。とりあえず、それがあたしの目標。うん、そうしよう。」

千代は、自分の気持ちを整理するように言った。

「まあ、いずれにしても、無理をせずに生きてくださいね。」

水穂さんは、千代にそういったのであった。

一方その頃。蘭の家では。史のバラの刺青が完成したところだった。

「先生、長い間ありがとうございました。絶対半端彫りはしないって、誓って、ちゃんとバラの刺青を完成することができて良かったです。これで一つ目標を達成しました。あたしが、目標を達成できたのが、珍しいくらい。ほんと、先生、ありがとうございました。」

史は、蘭に深々と頭を下げた。

「いやあ、ご丁寧にそんなお礼を言わなくても結構ですよ。」

と蘭は謙遜してそういうのであるが、

「いいえ、あたしが目標を決めてやり遂げられたことは、ほとんどありません。ピアノだって結局、私は失敗しちゃったんだし。情けないことばっかりだったんですから、先生のところにちゃんと通って、半端彫りにしなかったことは、奇跡に近いですよ。」

史はにこやかに笑っていた。普段は、なにか寂しそうな感じであったが、今日は素直に喜んでくれているのだろう。嬉しそうな感じが顔に出ていた。

「本当に先生、ありがとうございます。お礼に、お菓子を作ってきました。素人のお菓子だけど、先生、奥さんと一緒に食べてください。」

史はカバンの中から、急いで箱を一つ取り出した。

「開けてもいいですか?」

と蘭が聞くと、史ははいといったので、蘭は箱を開けてみた。するととても美味しそうなクッキーがたくさん入っている。

「ああ、どうもありがとうございます。ドイツに住んでいたとき、ドイツのポストファミリーがよくクッキーを作ってくれました。それとよくにた作りですね。なんか懐かしくなりましたよ。」

蘭は、嬉しそうに言った。

「ありがとうございます。彫たつ先生。これで私も、リストカットだらけの自分とはさようならできます。本当は、順子と千代と三人でお祝いしたかったけど、順子があんな事になっちゃって、千代も、なんだか芸能界から退くみたいだし。あたしばっかり幸せになっても行けないので、それは無理かなと思います。」

史がそう言うので、蘭は千代が女郎さんを辞めることになったということは、あえて言わないことにしておこうと思った。それに千代が女優というより女郎の仕事に近い仕事だったことも。その辺りは杉ちゃんから聞いていたが、それは史には言わないほうがいいと思った。

「それでは先生。私、これで失礼します。先生、私が変わるのを手伝ってくださって、ありがとうございました。」

史は、にこやかに笑って、椅子から立ち上がった。蘭はそれを見て、

「ああ、あの、史さん。」

と、彼女に言った。

「史さん、あなたは生まれ変わったんだ。幸せになる権利があります。だから、幸せをこれ以上自分の手で逃してしまうようなことは、もうしないで、自分で積極的に幸せを掴みに行ってください。」

「私が、幸せになるんですか?」

史はびっくりした様子で言った。

「だって私が、幸せになろうとしたせいで、順子にも千代にも色々迷惑をかけてしまいました。元はと言えば私がしでかしたんです。私が、ピアノを弾きたいと言ってしまったばっかりに。だから、私は、そんな事してはいけないと思います。」

「史さん。そうかも知れませんが、もう刺青を入れる前の自分には戻れません。刺青とは、そういうものです。それは、どのお客さんにも言っていますが、刺青は消すことができませんから、もう新しい自分になれると思って、前向きに生きて、健康を取り戻してください。」

蘭が優しくそう言うと、史さんは、またびっくりした様子で、

「は、はい、わかりました。」

と、小さい声で言った。

「それじゃだめですよ。せっかく彫ったのが、また中途半端になってしまう。」

蘭がまたいうと、史さんはなにか決断したようで、

「はい!わかりました、先生。」

と、一生懸命言った。そして、ありがとうございましたと一礼して、蘭の家を出ていった。蘭は、こういうときこそ、刺青師としてやってきて良かったと思うのだ。もちろん刺青というと、反社会的な勢力とか、そういうイメージがつよいものであるが、こういう自傷の傷跡や、暴力を振るわれたあと、あるいは、生まれつきのコンプレックスになっている痣などを消すために、非常に役に立つものだと蘭は考えている。それができることを、蘭はすごいことだと思っている。だから、彼女のような人には、一生懸命支えてあげたいと思うのであった。

史は、また日常が始まるんだと思いながら、バスに乗った。バスは、何人かのお客さんを乗せて、疲れたように動き始めた。バスなので、大回りをしてしまうこともある。なので大通りをバスは走って、裁判所の前を通りかかった。順子はここで、裁判を受けているのかなと思った。もし、順子が刑期を終えて帰ってきたら、すぐに迎えに行ってあげようと思った史は、またスマートフォンを取り、メールを打ち始めた。

一方、製鉄所を出た千代は、もう女郎さんとはおさらばするべきだと思って、ハローワークに向かって歩いていった。多分女郎をしていた人間を雇ってくれる企業なんて多分無いと思うけど、でもやれることだけはやっておこうと思った。歩きながら、順子も、刑期を終えて帰ってきたら、こういうふうに生きていくのは難しくなるだろうなと思った。一時は嫌な存在だと思ったけれど、やっぱり友達はいたほうがいいだろうなと思った千代は、またスマートフォンを出して、メールを打ち始めた。

裁判所の中で、順子は小さくなって被告人席に座っていた。小久保さんが一生懸命順子のことを弁論してくれている。法律の、専門用語なんて、なんのことだかわからないけれど、小久保さんは、自分のために、刑を軽くしようと頑張ってくれていることは見て取れた。それは、生まれてはじめて他人が自分の為にしてくれたことなのかもしれないと順子は思った。

「順子さんには、彼女を支えていてくれる大事な友だちが二人もいます。彼女たちは、それぞれの階級も年齢も異なりますが、順子さんのことを思って、生活してくれています。順子さんは、たしかにお祖父様を殴ってしまったかもしれませんが、深く反省していますし、何よりも、社会に二人の仲間を作れるほど、純粋で優しい女性であることは間違いありません。どうか、その事をご考慮して、寛大な処分をお願いします。」

小久保さんが、そう言ってくれているのをきいて、順子はハッとした。

そうか。私には、友達が二人も。

その人達は、きっと私の事を待っている。

順子は、その事を今知った。

その後、裁判員からの質問があるというので、順子は席を立った。

「それでは、私の方から、いくつか質問をします。まずあなたは、二人の友だちを持つことができて、本当に幸せだと、感じていなかったのでしょうか?」

と、裁判員の女性にそう言われて、順子は、ちゃんと答えるべきだと思った。

「いいえ、あの二人と出会えて、私はとても幸せでした。今回は、二人を裏切るような真似をしてしまって、本当に申し訳ないと思いました。どんな厳罰でも、受けようと思います。あの二人が私を待っていてくれると信じています。」

「そうですか。それならきっと、あなたは更生できますよ。」

と別の裁判員が言った。裁判長がそれを制したが、順子は、それを信じていきたいと思った。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

即興曲 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る