第七章 事件

その日は雨が降るとか天気予報では言っていたが、現実の天気は晴れで、雨なんてとても降りそうにない天気であった。こういうときには体調を崩す人も現れるのは珍しいことではない。でも、本当に大きな病気のある人はごく少数で、体には特に問題は無いことのほうが多いのだ。しかし本人には、そういうときこそ、重大な症状のように感じてしまう人が多い。これがなかったらと訴える人も多く、周りの人は、それを言われても、どう対処したらいいのか、わからなくなる場合がある。

その日、順子は、今日も仕事で不在の父親を除いて、母、祖父、そして彼女で朝食をとっていた。なぜ家族全員で食事をしなければならないか、順子にはよくわからなかったけれど、何故か、順子たちの家族には、そうしなければならないことになっている。

母が、食事を目の前に置いて、さあ食べようと言ったところ、祖父がやってきた。何故か知らないけど、祖父はまた機嫌の悪そうな顔をしていた。それはいつものことなので、順子はそのことは気にしないように努めていたが、やっぱり気になってしまって、その顔を思わず見てしまうのである。

「さあご飯にしましょうね。ご飯はおろそかにしないで、食べてちょうだいね。」

と母が、順子と祖父の前にご飯を置いた。ご飯は焼き魚と、白いご飯と味噌汁だ。洋食は、祖父が嫌いだからと言って、ほとんど食べさせて貰えないのだった。順子自身は、ハンバーグやパスタなどの洋食を食べたいなと思っていたし、マクドナルドとか、そういうファストフードなども食べたいなと思ったことはあるが、そういうものは一切食べることはできない。そういう家庭だった。みんな、血圧が上がるからとか、祖父がいうので食べれないのだ。

「どうしたのその顔。」

母が、祖父にそう聞くが、祖父は黙ったまま答えない。これもいつものことだ。耳が遠いので、反応しないで、無視してしまうことも数多い。補聴器も買ったりしたこともあるけれど、耳が痛いとか、そういう事を言って、結局つけないものだから、順子たちは、毎日毎日大声で叫ぶように喋らないと行けないのだ。

「まあ、いいわ。どうせ、聞く気が無いんでしょ。さ、食べましょ。」

母は、そう言って、ご飯を食べ始めた。母だから、そうやって祖父のことを流すこともできるのだ。でも順子はそれができなかった。何故か知らないけど、祖父が、自分たちの事を馬鹿にして、自分たちの話をわざと聞かないのではないか、そう思ってしまった。

「じゃあ、これ、いつもどおり、お醤油つけて食べてくださいね。食塩は、少なくしてありますから、血圧には響きませんから。それでは、どうぞ。」

母はそう言うが、これにも祖父は返事をしなかった。母は、小さくため息をついて、それ以上質問しないまま、ご飯を食べ始めた。しかし、祖父は、ご飯を食べようともせず、いきなりこんな事を言い始める。

「お前たちは、今日、用事は無いのか?」

「特にありませんけど。」

母がそう答えると、そういうときだけは、何故か返答する祖父なのである。順子は、やはり自分たちの話を聞いているのではないか、と思った。

「じゃあ、今日、耳鼻科に連れて行ってくれるか。もう喉が痛くて仕方ないんだ。あのとき、内科で、薬もらってから、喉が痛くてしょうがない。扁桃腺が腫れているのかもしれないから、見てもらって来たい。」

「そうですか、それなら、内科でもらった薬、少し減らせばいいんじゃありませんか。その時の副作用だと思いますから。そういうことは誰だってありますよ。それは、もういいやくらいの気持ちでいればいいと思いますよ。」

母はそう言って受け流してくれたのであるが、それを聞かないのが祖父だ。

「内科でもらっているのは必要だからもらっている。それとこれとはまた違うのかもしれない。もしかしたら、そうかも知れないから、一度見てもらいたい!」

終いには怒って怒鳴りだすんじゃないかと思われるような、恐ろしい表情をして祖父は言うのだ。母は、怒鳴られるのが怖いのか、それとも、これ以上面倒を見ないと金を出さないぞと言われるのが怖いのかわからないが、そうやって強く言われると、従わなければならないと思ってしまうタイプなのだ。だから、本当は、行かなくてもいいんじゃありませんかと言いたくても、それは言えない。でも、言えない事を、顔の中で隠すこともできるわけではない。母も嫌々ながら言っているのがよく分かる。なので順子は、母ばかりが責められて、自分たちは、祖父の奴隷のように扱われているような気がして仕方なかった。

「わかりました。耳鼻科は、予約しなければなりませんから、ちょっとまってください。」

母が言えるのはそれだけだった。順子は、何故かその時、自分がなにかしなければと思った。

「いい加減にしてよ!お母さんのこと、奴隷みたいに扱うんじゃないわよ。あたしたちは、これでも忙しいんだし、何でも、あんたの言うとおりに動いてくれる道具じゃないのよ!」

「順子!」

母がなにか起きるのを止めようとしてくれているのだろうか。でも、順子は我慢できなかった。

「あたしたちが、あんたにお金をもらっているから、あんたの言うとおりにすると思ったら大間違いよ!お母さんだって、どれだけ負担がかかってると思ってるの!お母さんの聞くことは聞かないで、自分のしていることだけ聞いてくれなんて虫がよすぎるわよね!人の話を聞こうともしないで自分の体のことばかり心配して、生活のことはすべて握っているからって、私達に八つ当たりしないで!」

「順子、やめなさい!」

母がそう言うが、それは逆に火に油を注ぐようなもの。そういうところを父がもしいてくれたら、また変わるかもしれないが、父は前述したように、いるようでいない、迷惑な人物に過ぎなかった。順子は更に激して、祖父に怒鳴りつけた。

「長く生きて、力も知恵もあるからって、それを私達に押し付けるようなことはしないでもらいたいわね!聞こえないことを言い訳にして、私達を振り回したりしないでよ!」

ここは祖父には通じてくれたようだ。でも、こういう事を言われればおしまいと思われた。

「お前が、ここまで来るのにどれだけ手間をかけてきたと思ってる!お前のためにお母さんや俺たちがどれくらい苦労したと思ってるんだ!」

普段の順子であれば、そこで黙るはずだった。でも、この日は不思議な力が働いて、彼女は更に怒鳴った。

「ああ、わかってるわ。それなら一つお願いがある。今すぐここで死んで!それが私達の望みよ!お母さんも私も、あなたがしてくれたことに感謝どころか迷惑だと思ってる。それが私達の望む言葉よ!」

「この!」

祖父は、椅子から立ち上がって、順子に平手打ちをしようとしたが、順子はそれを見事にかわし、テーブルの上にあった父の灰皿を手に取った。

「ねえお願い死んで!」

こう叫んで、灰皿を祖父の体に五回打ち付けた。返り血がどうのとか、そういうことは一切気にならなかった。

「順子!」

六回目を打ち付けようとしたとき、母がそう叫んだことで、順子は我に返った。目の前にいるのは倒れている祖父と、泣き崩れている母だった。あまりにも無我夢中と言うか、何もわからなかったせいで、周りのことなど目に入らなかったが、パトカーと、救急車の音が聞こえてきた。多分母が、通報したのだろう。ガチャンと音を立てて、警官が入ってきたが、順子はそれを反省するとか、そういう気持ちは一切起らなかった。

「女性が勝ってます!女性の勝利です!」

順子は選挙演説する人みたいに、そう叫びなから、警官と一緒に、パトカーに乗っていった。少なくともこの時点では、自分が初めて祖父に勝利して、嬉しいと思っていた。頭の中にはそれしかなかったと思う。

それからその後で何があったか、順子は知らなかった。あとは、警察で取り調べを受けたけど、順子はひたすらに女性の勝利だと繰り返した。思えば、祖父に対して、いや、もしかして父にも言えるのかもしれないが、この事件が生まれてはじめてした「男性に対する反抗」なのかもしれなかった。

ちょうど、順子の家に、旅行土産のおすそわけを持ってきた千代は、道路を歩いているとき、順子の家から、覆面パトカーが出てきたのを目撃した。千代は、彼女の家で何があったか、すぐ予想できた。千代も、彼女がそのような事件を起こすのではないか、と予想しているところがあった。近所の人たちも何事かと外へ出ているが、その中には、ある意味しょうがないよ、と言っている人もいる。それは他人だから言えることだ。直接関わっていれば言えるはずもない。千代は、涙をこぼしたが、でも、すぐきを取り直してスマートフォンを出した。

一方の史は、蘭の家にいて、ちょうど施術が終わって、お茶をしているときだった。スマートフォンがなったので、ちょっと失礼しますと蘭に言って、メールアプリを開いてみると、順子が事件を起こしたと書いてある。史も、順子から、祖父の事を散々聞かされてきたものだから、それを本当だとすぐに分かった。これは、嘘では無いと思った。

「どうしたんですか?なにかありました?」

蘭が優しくそう言うと、

「先生。今日はもう帰ってもいいですか?ちょっと、順子が大変なことに。」

と、史は急いでいった。

「大変なことってなんですか?交通事故とか?」

蘭がそう言うと、

「いえ、、、これは、ちょっと。」

史は言うのを渋った。蘭も、史が何をいいたいかすぐわかってしまった。

「そうですか。そうなっても仕方ない状況だったと、史さんも仰っていましたものね。もし、順子さんが男性であれば、もっとひどい手口をしていたかもしれません。そうなると、順子さんのことを、弁護してくれる人が必要でしょう。よろしければ、紹介しますよ。」

「え?」

と、史は思わず言ってしまった。

「ええ、だから、順子さんの弁護をする人を紹介するといったんです。もうかなりお年を召していますけど、そのほうが順子さんも話しやすいのでは無いでしょうか。多分、心神耗弱であった事を主張できれば、刑も少し軽くなるのではないでしょうか。僕が連絡しますから、お願いしてみましょう。」

「いいんですか?そんな事してくださって。」

史がそう言うと、

「ええ。大丈夫です。僕の信頼している方ですから、すぐに分かり会えます。連絡先をお教えしますから、史さんにもお伝えしておきますよ。」

そう言って蘭は手帳に、小久保さんの名前と住所を書いて、それを破って、史に渡した。

「先生、ありがとうございます。そういう事をしてくださる人がいてくれれば、順子は、喜ぶと思います。」

「いえいえ、じゃあ僕が、小久保さんに連絡してみますから、少しお待ち下さい。」

そう言って蘭は、小久保さんに電話をかけ始めた。史はそれを眺めて、事件を起こす前に彼女の気持ちを聞いてくれる存在があったら良かったのにな、と思った。

翌日。小久保哲哉さんが、富士警察署にやってきた。確かに歳を取っている人ではあるけれど、知識のたくさんありそうな、威厳のある顔をしている。

「失礼いたします。先日傷害の容疑で逮捕された、木本順子さんとお話をしたく、参りました。」

と、小久保さんが受付に言うと、

「ええ、彼女は、誰とも話したくないと言っていますが。」

受付はぶっきらぼうに言った。

「ですが、鬼頭史さんと、龍村千代さんからお伝えしたいことがあるということで、こさせてもらったんですがね?」

と、小久保さんが言うと、そこへ華岡がやってきて、

「ああ、弁護士の小久保先生。丁度いいところへ来てくれましたね。木本順子の取り調べも難航しているので、手伝ってくださいませ。よろしくおねがいします。」

と挨拶した。受付は変な顔をしたが、

「わかりました。じゃあ、お話を伺わせていただきます。彼女と接見させてくださいませ。」

小久保さんは、華岡と一緒に、署の中へ入っていった。

「ああ良かった。小久保さんが来ていただいて安心しました。実は俺たちも、彼女と取り調べをして話をしていますが、何も話してくれないんですよ。もうだめだとか、私はとんでもないことをしたとか、そういう支離滅裂な話ばかりして、事件の事を全く話してくれないので、困っていたところです。」

華岡は頭をかじりながら、そういったのであった。

「そうですか。多分、華岡さんが感情的な取り調べをするせいだと思いますけどね。」

と、思わず小久保さんがつぶやくくらい、華岡の話下手さは、有名であったから。小久保さんは、華岡に案内されて接見室に入った。

「弁護士の小久保哲哉と申します。鬼頭史さんと、龍村千代さんのご依頼で、あなたの弁護を引き受けることになりました。あなたには、弁護人を使う権利がありますから、今まで辛かったことなど隠さずに話してください。よろしくおねがいします。」

小久保さんは、そう挨拶したのであるが、目の前にいる、被疑者である木本順子は、ただ泣きはらすだけであった。

「慌てないで結構です。気持ちが落ち着きましたら、事件のことを、ゆっくり話してみてください。あなたのペースで構いませんので。こちらは、いつまでも待ちますから。」

と、小久保さんは優しく言った。そんな事、他人に言われたのは初めてのことだった。家族には、馬鹿とかのろまとか、そういうことしか言われたこともなかったのだ。順子は、そう言われたことに、ちょっと恐怖を覚えながら、わなわなと体を震わせて小久保さんを見た。

「ああ、構いません。落ち着くまで、いくらでも待ちます。きっと、鬼頭史さんも、龍村千代さんも、あなたが、回復してくれるのを、待っていると思います。」

小久保さんがそう言うと、

「史と千代が、そういったんですか?」

と、順子は、思わず言った。

「ええ。そう言っていました。二人とも、あなたのことを心配していましたよ。自分たちの力がなくて、順子につらい思いをさせてしまったと言っています。」

と、小久保さんは優しく言うと、

「もう、千代も史も私のことなんか、気にしないで、それぞれの人生を歩いてと言ってください。あたしは、もうどうしようもない事をしてしまいました。」

順子は泣きながら言った。

「そうかも知れませんが、あの二人にとっても、あなたの存在というのは、大きなものだったと思いますね。あなたと、千代さんと史さんのことは、磯野水穂さんから伺いました。日頃から、三人で姉妹のように付き添っていたのでしょうね。それを、切り離してしまうのは、どうかと思いますけどね。」

「磯野?」

「ええ、磯野水穂さんです。旧姓は右城です。」

「右城先生が、、、。」

順子は、涙が止まらなかった。皆、口に出して言わなくても、私の事を思ってくれていたんだなと初めて知った。それは史と千代だけではなくて、水穂さんもそう思ってくれているのだろう。

「人間は、悩みを抱えたままでは生きてはいけないと、水穂さんが言っておられました。多分、大変だと思うけど、頑張ってくれと。」

「ありがとうございます。」

「いいえ、感謝するとしたら、史さんや、千代さんに言ってください。」

小久保さんは静かに言った。

「それでは、事件の事を、少しだけ、話していただけませんか?」

「はい。」

順子は、涙を拭いて言った。

「順子さんが、供述を始めたそうです。史さん、まずはじめに、あなたが、悪いことをしたとか、そのようなことは全くありません。それは、気にしないで、これまで通りに生活してください。」

蘭が、スマートフォンのメールを見ながら、史に言った。

「そうですか。私、できる限り、順子のそばにいてやりたいと思っていたんですけど、それが通じなかったんでしょうか?」

史は、蘭に言った。

「私、順子にひどいことをしましたよね。ピアノを習い始めたり、コンクールに出たりして、自分のことばっかりして、私ばっかり変わって、順子のことを。」

「そんなことありません。変わるのは当然のことです。」

蘭は、史に優しく言った。それはしっかり伝えてあげたいと思った。

「でも、私だけが変わることをしていたら、あとの二人は、大いに傷ついてしまったんだなと思います。だから、あんな事件を起こしたんでしょうね。私が調子に乗りすぎていました。」

そういう史に、蘭は史が本当に優しい心を持っていることに気がついて、なんだかそれを別のところで発揮できたら良かったのにな、と思ってしまった。

「自分を責めることはありません。もう一度言いますが、変わるのは当然のことなんですから、それに犠牲が出るということも仕方ないんです。だから、それを忘れられなくて、刺青として形に残したいという方もいらっしゃいます。僕が相手にするのはそういう人ばっかりだ。史さん、本当に自分の事を悔やまないでください。順子さんは、仕方なかったんですよ。そう思って、割り切ることも、必要なんじゃないですか?」

「なんで、あたしは、どちらも取り逃がしてしまうんですかね。ピアノのコンクールに出て、なにかしたいと思ったけど、結局、なにか得られたわけでもないし、せっかく得た親友も、こういう形で失ってしまうとは。なんで私はこんなにだめな人間だったのでしょうか?」

史の演奏活動は、実は中止になってしまっていた。史が演奏する日が決まる前に、社会福祉法人の方から、あの話はなかったことにしてくれとい割れてしまったのだ。多分きっと、もっといい演奏者を見つけてきたのだろう。そうすれば、簡単に消すことはできるから。

「あたしは、虻蜂取らずだったんです。演奏もできなかったし、友達もなくしてしまって。」

そう言って涙をこぼす史に、

「まあ、人間にできることは限られてますからね。こういう仕事していると、人の弱さもわかりますよ。もしかしたら、弱い方をもうちょっと強調させていれば、史さんも順子さんも千代さんも、長続きしたのではないでしょうか?」

と蘭は、慰めるように言った。

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