第六章 現実は

数日後、史はいわゆるSNSと呼ばれているインターネットのウェブサイトを拝見していた。特にSNSを重視しているわけでもないのだが、顔のない世界で、誰かの投稿にコメントしたり、その逆をされるのもなかなか好きだった。現実的なつながりではないけれど、こういうものもたまにみておきたくなる史であった。

史が、パソコンを立ち上げて、SNSを開くと、メッセージ欄に一件メッセージが届いているのが見えた。史はそれをクリックして、メッセージを開いてみた。

「私、富士市内で社会福祉法人をやっています平沢と申します。私共は、週に一度、演奏家を施設に招いて演奏をしていただいているのですが、今回、鬼頭史さんに演奏をしていただきたくご連絡いたしました。もちろん、気が向いたらで構いませんので、お返事いただけたらと思います。よろしくお願いします。」

史は、声に出して読んでみた。こんな人間が、社会福祉法人の前で演奏してもいいのだろうか?こんな人間が演奏するなんて、ちょっと虫がよすぎるのではないかと思う。とりあえず、返事として、自分がやってもいいのだろうかという内容のメールを送った。すると、すぐ返信が返ってきた。

「大丈夫です。そんなに大掛かりなことではありませんから。それよりも、気軽に楽しんでいただけるような演奏をしていただければと思います。今、来てくれる演奏家も少なくて、困っていますので、ぜひ、こちらへ来ていただきたいと思います。よろしくおねがいします。」

史は、その内容を読んでまたびっくりする。

でも、ここでわかりました、やりますと決断できないのが史だった。私のようなものが、こんな大舞台に立ってもいいのだろうか?大変迷いながら、とりあえず、二人の親友にメールを送った。

木本順子は、また憂鬱であった。そんな中で、スマートフォンが二回音を立ててなる。誰かと思ったら、鬼頭史殻で、演奏を依頼されたけど、どうしようかという内容であった。史には悪気のないメールではあるけれど、順子は腹がたった。なんで史が人前で演奏する機会に恵まれるのだろう?史は確かにコンクールで審査員特別賞はもらった。でも、特別賞ではないか。ランキングに入ったわけでもない。それなのにどうして?と順子は妬ましく思う。

隣の部屋から祖父が怒鳴っている声が聞こえる。順子の母に、また病院につれていけと怒鳴っている。母が祖父に、まあまあそんな症状は誰にでもあることだからと言ってなだめている声も聞こえてきた。母はこういうときにつよいものだ。なんでも嫌だ嫌だとワガママを言い続ける祖父に、どうして話をすることができるのだろう?あまりにひどいことを言われて頭に来ないのか。順子はそれが不思議だった。母はやり遂げられるが、自分には絶対にできないと思う。

祖父が、血圧が高いから、病院につれていけと、母に怒鳴りつけているのを聞きながら、順子は耳を塞いだ。全くできることなら、一人で病院に行ってもらいたいものだ。元気がありすぎて、体の事を気にしすぎるくらい気にするから嫌なのだ。体調が少しでも悪いと、すぐ怒鳴るし、それを断ろうものなら、親戚中に言いふらすので、こちらが悪人にされてしまう。何よりも、順子たちの生活は、祖父の援助によって成り立っているという弱みを握られていて、そこを持ち出せられれば、順子たちが生活できないというのが辛かった。順子は頑張って看護助手のしごとをしているが、頑張ってもそれ以上の仕事はできない。母も腰を悪くしたせいで、半日しか仕事ができない。だから、祖父の援助に頼っていた。この弱みをもし祖父が、外部の人に言いふらしたら、どうなるだろうか?想像するのも怖かった。だから順子たちは、祖父の怒鳴り声に従うしかなかった。

父は、存在することはするのだが、入婿という形で家に来ているので、いざというとき、まるで役に立たなかった。だから始めからいないと確定していたほうがいい。いてもどうせ口が増えて、料理が大変になるだけの存在しか無いのだった。

そんな家族の事を誰かに相談しようとしたこともあった。カウンセリングなどに通うことも考えたが、母が世間体がわるいといって、できなかった。年寄はなぜ、そんなに見えばかり考えるのだろう。あれは行けないこれは行けないと制限をかけるのは得意なのに、人に頼るとか、そういうことは全くできないのだ。

そんなことが毎日毎日繰り返されているわけだから、順子にもストレスが貯まる。毎日喧嘩ばかりが繰り広げられる中、楽しい事なんてあるわけもなく、順子は、つらい日々を送っていた。一度でいいから、親や祖父の事を忘れて、自分らしく行動することをしてみたいと思うけど、今の家族の状況では、それは無理そうだった。順子がそうなるためには、家や家族を潰すなどしなければできなかった。

結局、母は祖父を病院につれていくことにしたらしい。車の音がしているので、近くのクリニックでも行ったのだろう。母も従わないで、いきなくないと意思表示できないのだ。そうやって従うから、祖父が怒鳴れば通用すると思い込んでしまうのでははないか。ということも、口に出して言えないことが辛かった。

そんな自分も、こんな日々から逃れたかったから、史や千代と付き合い始めたのに、まさがその史が、ピアノで演奏をすることになるとは。全く憎たらしいものであった。それに自分は幸せになれず、史が幸せなのも憎たらしかった。とりあえず、良かったね、じゃあ早く曲を決めて演奏してねとだけ書いて送っておいた。

一方、龍村千代も、史からメールを貰って嬉しい思い出はなかった。千代は家族はいなかった。それは同時に、孤独で寂しいという思いにさいなまれることにもなった。だって、只今と言っても、誰も反応してくれる人はいないのだから。ペットを飼えばまた別なのかもしれないが、アレルギーがあった千代は、それはできなかった。そういうわけで千代には、おかえりと言ってくれる相手もいないし、今日こんなことがあったと話す相手もいないのだ。

千代は全く家族が存在しないわけではなかった。人間だから、肉親がいてアタリマエのことでもあるのだが、その人達は千代にとって憎むべき相手だった。母は、育児が面倒くさくなったとかで千代が幼い頃に蒸発してしまった。残った父は、一生懸命自分を育ててくれたのであるが、千代が13歳のときに突然他界してしまった。だから千代はよく、お父さんに感謝など目上の人に言われたことがあるが、千代にしてみれば、勝手に自分を置いて、逝ってしまったようなものなので、感謝の気持ちを持つことはできなかった。ただ無責任にしか見えないのだ。確かに、しっかりしていたし、よく働くし、きちんとしていた人であったが、千代は、それをすべて自分の存在のせいにしてしまう、大人たち、特に教育関係者を憎んでいた。

そんなわけで、親戚などとも不仲だった千代は、それに頼らず、一人で行きていくことを決めた。18歳までは孤児院に入っていたが、自分でなんとかしたくなり、芸能プロダクションのオーディションに応募した。そして女を武器に見事合格し、女優として活動を始めたが、そこからは本当に、地獄のような有様であった。演技指導者は鬼みたいに怖かったし、他の女優さんからの嫌がらせもひどかった。でも千代は、自分しか自分を励ませる人はいないと言い聞かせながら生きてきた。刑務所に行くような事をしなければそれでいいと覚悟を決め、違法薬物の販売をしたこともあった。自分の体をプロデューサーとかそういう人に預けて、それで仕事をもらったこともあった。そういう千代を、仲間の女優さんたちは、女優ではなく女郎になったと言って馬鹿にした。

それでも千代は、自分で自分を励ましながら生きた。いつまでも誰かに褒められることはないまま、一人で生きた。千代は、そのために男の心を掴む技術も心得たが、それは仕事のためには使えるのであるが、千代のことを、本気で好きになってくれるということはなかった。千代自身は男をなんとかして自分のものにしたい、つまり恋をしたことはあったが、男たちは女郎のような女優を気に入ってくれることはなく、みんな離れていってしまう。千代は、一人ぼっちなのだ。

そんなわけだから、史が、人前で演奏するのは大変妬ましいことでもあった。千代は、自分はたった一人で自分の力ですべてやってきたのに、なぜ史が演奏を引き受けてしまうのか、いきり立った。順子とは全く違う環境にいたが、史が演奏をすることになって喜ぶことはなかった。でも、とりあえずメールには、史良かったね、うまくなったね、とだけ書いて送信した。

二人の親友の返事は、良かったという言葉を使っているが、順子も千代も、祝福の意味で送ったわけではなく、妬みという感情を込めていた。表面上は、史の出世を喜んでいるように見えるけど、どっちにしろ喜ばれることはなかったのだ。順子は順子でなんで史が、人前で演奏するところまでいったのか、妬ましくて仕方なかったし、千代は千代で、史のような生産的な事を何もしていない人間が、演奏をするということになり、かえって自分が劣等感を持ってしまったようであった。いずれにしても順子も千代も、史を祝うことはなく、史を憎むべきだと取った。メールにはそれが書かれていないから、史は二人がそんなことを思っているなんて、全く気が付かなかった。ただ、二人はとても喜んでくれていると解釈していた。

数日立って、史がまた水穂さんのところに来て、レッスンをすることになった。もちろん弾く曲はシューベルトの即興曲である。今回はちゃんと指定テンポで弾けるまでになっている。それはとてもよい進歩であるのだが、一緒に来た順子と千代は、面白くない顔をしていた。

「よく弾けてはいますけど。」

と、水穂さんは言った。

「そうですね、技術的にはとてもうまくなられたと思います。ですが、感情を込めると言いますか、まだ強弱をつけるとか、上品な音階を作るとか、そういうところがまだかけているような気がいたします。」

「そうですか。申し訳ありません。まだ下手ですよね。」

「いや、下手という問題ではないんですよ。僕自身は、もともと演奏に甲乙つけることはあまり好きではありません。下手とかうまいとか、そういう問題ではなく、もう少し演奏になりきってほしいと思うんです。」

「右城先生も、難しい事言いますね。あたし、そういうところは、正直良くわかりません。音大生でもありませんから、あたしはまだ、素人です。」

史は困った顔をして水穂さんを見た。予測していたよりも、水穂さんの顔は白かった。先生大丈夫ですかと史は聞きたかったが、それはなんだかとても失礼に見えて、史はあえて言わないでおいた。

「いや、それは関係ありませんよ。音大生であっても素人であっても、いずれは言わなければならないことです。言われたとしても気にしないでください。」

水穂さんは、申し訳無さそうに言った。

「でも、それは、先生ですもの。そういう事を言って当たり前です。やっぱりさすが、ピアニストの先生だけあります。あたしとは、全然違います。あたしは、ただのだめな人間ですよ。全く働いていないですもの。」

史は水穂さんにそう言うが、

「でも、だめな人間だったら、シューベルトの即興曲を人前で弾くということは無いと思いますよ。この曲は、だめな人間のために作ったものではありません。史さんは、よく練習もされてます。ただ、自信がなさすぎるんです。それをもうちょっとつけていただいたら、もっと良い演奏ができると思います。」

と、水穂さんは言った。

「でもあたしは、誰かに責められるためにいるのではないですか?」

「いや、そういう考えはもうやめたほうがいい。もうそういうことにとらわれないで、演奏をするわけですから、演奏するときは、演奏者になりきってください。そうしなければ、演奏者は務まりません。」

水穂さんがそう言うと、史は少し考えたようだ。ちょっと、困った顔をしていたが、

「わかりました、先生の言うことにできるだけ近づけるように頑張ります。先生今日はありがとうございました。先生、レッスン料をお支払いしますから、えーとおいくらでしたっけ?」

と、決断をしたように言った。

「3000円で大丈夫です。」

水穂さんがそう言うと、

「はい、そうでしたね。ごめんなさい私、金額を忘れてしまっていました。すぐお渡ししますから。」

史はカバンの中から財布を取り出そうとしたが、

「あれ、ない。どこにやったんだろう?」

と、慌てて財布を探し始めた。

「嫌だわ。どこかへ落としてきてしまったのかしら?」

史はカバンをひっくり返して、中身を確認するが、財布は見当たらなかった。

「もしなければ次のレッスンのときでも構わないです。」

と、水穂さんが言った。それを聞いていた順子は、水穂さんはなんでそんなに欲のない男なのだろうと思った。千代は余計に、水穂さんのことが印象に残ってしまった。

「じゃあすみません先生。次回必ず持ってきますから。本当にすみません。申し訳ないです。」

「いえ、構いません。ゆっくりで結構ですよ。」

水穂さんはそう言うが、

「本当にごめんなさい、これから気をつけます。」

史は水穂さんに一礼して、急いで四畳半を出ていった。それに続いて、順子も四畳半を出ていく。

部屋の中には、水穂さんと千代だけが残った。

「あの、先生。」

千代は、水穂さんに聞く。

「先生は、私のような女性をどう思いますか?ただの顔の派手で、生意気な年増女郎にしか見えませんか?」

水穂さんはすこし考えて、次のように答えた。

「そうですね。僕は女性というか、女郎さんには、あまり縁が無いのでよくわかりませんが、少なくとも悪い女性とか、生意気とか、そういうふうには見えませんよ。」

「そうなんですか?」

千代はびっくりした声でいった。

「ええ、僕は少なくとも悪い人だとは思いません。僕は、生きていくためには、どうしてもしなければならなかったことだってあると思います。それは、仕方ないことですから、絶対に消せないでしょう。それが大きいか小さいかの違いだけだと思います。」

「そうなん、、、ですか?」

千代が口ごもりながら、そう言うと、

「ええ、僕は仕方ないことだと思っています。」

と、水穂さんは言った。

「そんな事、私が、そう解釈してもいいのでしょうか?私は、仕方ないとはいえ、女郎までした女ですよ。そんな女にそのようなセリフが言えるなんて。先生は。」

千代は、混乱し様子でそういったのであるが、

「いえ、そのように解釈していたら、ご自身もお辛くなりますよ。辞めるのは難しくて、自分で良い方に持っていけないなら誰かが、そうしなければならないでしょう。」

水穂さんは優しく言った。千代は、そんなせりふを言ってもらえるとは思ってもいなかったので、涙が出てしまった。

「私、私、私、、、。」

「そうですね。そんなに気にかけなくても構わないと思います。誰でも不幸な人と思われたくなくて、見えを張って隠したくなる気持ちもわかりますよ。それも、よくあることなので、僕は気にしていません。」

水穂さんは、泣いてしまった千代に、そう続けた。

「でも私は、こんなに自分の体を大切にしない、汚い仕事をしてしまったし、女優というより女郎という方が正しい肩書だと思われるほどです。だからもう、社会から外れて生きるしか無いでしょう。一応、懲役に行かなかったのが幸運で、そういう底辺の仕事もしたし、本当に、汚い仕事をしてしまいました。そんな自分が幸せになんかなれませんよね。それで当たり前ですよね。」

「僕も正直そういうところはわからないところもありますが、幸せというのは結果として与えられるものであることは間違いありません。でも、それだけがすべてということではなく、幸せかどうかと言うのは、個人の感性に任されているところもあると思うので、それは自分の感じ方で決めることも可能だと思います。幸せを感じるのは、非常に難しいことでもありますが、、、。でも、人それぞれでもあると思います。」

千代は、水穂さんがそういう事をいうのがとても意外で、ちょっと不思議な顔で彼をみた。水穂さんの顔は紙より白くて、なんだかだるそうだった。明らかに疲れていることがわかる顔でもあった。

「ごめんなさい先生。変な質問してしまって、申し訳ありません。」

千代は、急いで立ち上がった。それと同時ににわそうじをしていた杉ちゃんが、

「ごめんお取り込み中に。この財布誰のかな?庭に落ちていたんだけど、女性の財布だし、もしかしたら千代さんの財布かな?」

と言いながら、赤い革製の財布を二人に見せた。

「ああ、これは史の財布です。嫌ですね。史と来たら、庭に財布を落とすなんて。私が史に渡しておきますよ。」

千代は、その財布を受け取ったが、本当は、順子がわざと財布を抜き取って庭に落としたのを知っていた。

「先生、ありがとうございました。また史を連れてきますから、よろしくおねがいします。」

千代は、水穂さんに頭を下げてそう言うと、

「はい、わかりました。千代さん、史さんのために一生懸命で、あなた達お三人さんは、とてもチームワークがすごいですね。」

と、水穂さんが言った。千代は、お三人さんという言葉を使ったけれど、自分の事を褒めてくれて嬉しいと思った。

「いえ、大したことありません。またこさせていただきます。」

千代はにこやかに笑って製鉄所を出ていった。本当はもっと長く水穂さんのそばにいたかった。だって、自分のことを汚いと言わなかった男性は、水穂さんが初めてだったからである。廊下を歩きながら、千代は、涙を拭くのを忘れてしまった。靴を履いて、製鉄所の外へ出るときも、千代は嬉しかった。

千代は製鉄所の入り口の引き戸をじっと見つめた。なんだか別世界にいざなってくれる扉のようだった。

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