第五章 それぞれの悩み

暖かい日だった。やっと、春らしくなって、ちょっと過ごしやすくなったと思われる日ではあるが、人間というのは、気候的に安定してくると、自分自身のことや、自分の周りのことなどで悩むようになるものなのだ。そんな風になるのは、どんな職業の人間でも同じことになるらしい。どんな職業でも、悩むということは必ずあるようなので。

今日も、史さんは、ピアノのレッスンで、製鉄所を訪れていた。

「よろしくおねがいします。」

と言って、史さんが一礼すると、

「この間のコンクールはいかがでした?なんだか、審査員特別賞がもらえたと伺いましたけど?」

と、水穂さんが言った。

「ああ、もう杉ちゃんか誰かから聞いたのですね。ええ、なんだかまぐれというかそういうことだと思います。私が、審査員特別賞をもらえるなんて、ありえない話ですし。それはきっと、なにかの間違いで、入賞できたのではないでしょうか?」

と、史さんが答えると、

「そうですか。それは良かったです。僕も、当日に結果を聞けなくて、すみませんでした。」

という水穂さん。この態度を見て、付添で来ていた順子と千代は変な顔をした。水穂さんがあまりに謙虚すぎるというか、そういう気がしたからだ。水穂さんが、ピアノの教師らしく堂々とすればいいのに、なんでこんなに自分の事をへりくだるのだろう。そこがどうも不思議なのだ。ピアノの先生といえば、もっと怖い人とか、きつい人であるはずなのに?

「じゃあ、もう一回、シューベルトの即興曲を弾いてもらいましょうか。よろしくおねがいします。」

水穂さんに言われて、史さんはハイと言ってピアノを弾き始めた。少し度胸が着いたのだろうか、史さんの演奏は、なかなか様になってきている。

弾き終わると、水穂さんは、にこやかに笑って拍手をした。

「いい演奏になってきたじゃないですか。もう、この曲、終わりかもしれませんね。」

そうなると、次の曲に移行するのだろうか?それとも、レッスンはここで終わり?順子も千代も、顔色をまた変えた。

「ありがとうございます。なんか、コンクールよりも、右城先生に見てもらうほうが、もっと緊張しました。」

史さんがそう言うと、

「そうなんですか。ご家族の前にいるときよりのほうが更に緊張すると、この間仰っていたけれど。」

と、水穂さんは聞く。

「ええ、主人もね、長らく私に冷たい様に見えたけど、意外にそうでもなかったのかもしれません。あたしが、コンクールに出るのも、すんなりと承諾してくれましたし。あたしは、ずっと家にいるのが嫌で、どこかへ出たいと思っていたんですが、それも、なんだか、認めてくれているみたいですし。思ったほど、あたしは主人に縛られてはいなかったのかもしれない。」

史さんは、にこやかに答えた。

「そうですか。では、ご主人は、史さんに、外へ出ては行けないと直に言ったことがあったんですか?」

水穂さんがそうきくと、

「ええ、たしかに、結婚したばかりのときはそう言っていたんです。それは私の記憶の中で今でも残っていますので、間違いないと思います。でも、もう何年も結婚していると、考え方も変わってくるんでしょうね。もう、私に女は家庭を守るものとか、そういうことは少しも言わなくなりました。だから、これからはもっと外に出て、自分のすることを人に評価してもらって、それだけでも私は、幸せを見つけられた気がします。」

と、史さんは答えるのだった。これを聞いて、順子は、史は、もう彼女が抱えている問題を、解決させてしまったのかなとおもった。史は、たしかに、自分の居場所がないと言っていた。史の通っていた高校は、有名無実と化している伝統校であったが、それにそぐわないで遊んでばかりいる生徒や、伝統伝統と叫び続ける先生たちばかりのところだった。そのような環境で居場所をなくしてしまった史は、その時から、精神がおかしくなってしまい、就職もできなくて、リストカットを繰り返したという。それで、史の両親が、史と親戚の男性を結婚させたようであるが、史はご主人の「女は家庭を守る」という古い考えに従わなければならず、更に病んでしまったという話を、順子は史から会うたびに聞かせてもらったことがあった。史は、その時、私は、こんな高校に行ってしまってもうおしまいだ、死んでしまいたいとよく泣いていたものだ。順子は、10年歳の離れた史が、自分にそういう事を言ってくるのを聞きながら、自分の持っていることと同じことだと言って、彼女と合わせただけではなく、彼女を他山の石として、自分はそのような人生を歩まずに行こう、と誓ったこともあったのである。史が、会いに来るたびに、そのようなことを漏らすものだから、順子にはうるさいおばさんであっても、自分よりはましと考える存在でもあった。

その史が、そうやって自分の抱えている問題を、解決させようとしている。こうしてピアノのレッスンを受けたり、コンクールに出たりして、自分に自信をつけ、自分を抑えなければならなかったご主人との、わだかまりも、勘違いだったというふうに持って行って、自分で楽になろうとしている。それは、順子に取っては痛手であった。史は、自分と同じような不幸な境遇である「仲間」であったのと同時に、自分より状況がずっとひどくて、自分より、不幸な生活を送っている、いわば、「自分より不幸な存在」でもあった。その史の存在というのは、順子にとって、惨めな自分を彼女よりはマシだと解釈することで、今まで生きてこられた、という意味の存在だと、順子はこっそり決めていた。もちろん史には、そんなふうにしているなんて、話したことも無いけれど。

だから、史が、前向きになり始めた、自分を解放し始めた、というのは、順子には喜ばしい出来事にはならず、逆に不愉快でもあった。

「じゃあ、仕上げの段階に入ってきたのかな。もう少しテンポを上げて演奏することは可能でしょうか?もちろん、失敗してもいいんですよ。初めての挑戦ですから、そうなっても仕方ありませんし、それを責めるようなことはいたしませんから。」

と、水穂さんに言われて史さんは、ちょっとテンポを速くして演奏したのだが、あまりに急ぎすぎて、音階が崩れてしまった。

「ご、ごめんなさい。」

コーダから、なんとか終わりの部分を弾き終えて史さんは言った。

「いえ、大丈夫です。先程も言いましたが、それで責めるようなことはしません。今度は、シューベルトが指定したテンポでやれるように練習してきてください。ゆっくりでいいですよ。あなたのペースで構いませんので、できるだけ指定テンポで演奏できるように。」

水穂さんがそう言うと、史さんは、

「はい!わかりました!」

と、緊張した様子で言った。良かった。史はまだ、私が予想したような、自分を解放させているわけではないんだと確信した順子は、なんかちょっとホッとした。

「今回の課題として、音階が少し急ぎすぎて指が転んでしまうようなので、そこをもう一度丁寧にやってみてください。それがクリアできれば、かなりいい演奏になると思います。」

水穂さんがにこやかに言うと、

「はい!ありがとうございます。これからもっと練習に励んで強くなります。主人も、最近は、私が外へ出るのを、あまりうるさく言わなくなりましたし、お陰様で私は、もう少し、自分を解放できると思います。」

史さんも、嬉しそうに言った。

「本当に、私が重大だと思っていたことは、案外小さなものだったかもしれません。私、学歴も無いし、職歴もありませんから、主人の言うことがなんか本当に大事なことに見えてしまったんですけど、それは意外に、あまり必要なことでなかったかもしれませんね。」

「ええ、人間ですから、そういうことは、必ず多かれ少なかれあると思います。それを、一つ一つ取り組んでいくのが人生だと思います。もしかしたら、大きいと思っていたことは、視点を変えれば小さいことだったのかということもあるのかもしれません。それも、人によりけりだと思うけど、でも、僕は史さんが、そういうことに気がついて頂いて、本当に良かったなと思います。これからも、大変だと思うけど、頑張ってください。」

水穂さんがそう言うと、史さんは本当に嬉しそうな顔をした。千代は、その水穂さんを変な顔で見た。水穂さんだって、ピアニストをしていたくらいだから、かなりレベルの高い大学などに行っているはずだ。千代の接してきた男たちは、高学歴なものほど、親身になって話を聞くことはなかったし、自分が偉くなるために利用するくらいにしか、庶民を相手にしないのが当たり前だった。それなのに、なぜ、水穂さんは、史に対し優しすぎるくらい優しいのだろう。史だって、大した学校は出ていないし、ましてや無職でもあるのだし。史じゃなくて、なんで、他の人を見ないのか、千代はそこがおかしいと思った。

「ありがとうございました、先生。今日は時間が来たのでもう帰りますが、次回もよろしくおねがいします。」

史さんがそう言うと、水穂さんは二三度咳をしたが、

「はい。わかりました。また来てくださいね。その時は指定テンポで弾けるといいですね。」

と優しく言うのだった。ここも千代には疑問点であった。なぜ、いつまでも治療しないで放置してしまうのだろうか。忙しいからというわけでもなさそうだし。人に優しすぎるほど優しくて、はっとするほど、美しい容姿を持った男が、どうして、このような境遇なんだろう。でも、千代にはもう一つ、叶えたいのぞみがあった。水穂さんという男が、一度でいいから、自分の元へやってきてほしいというのぞみであった。それはもちろん、口に出して言わなければならないが、千代はなぜかそれができなかった。もちろん、職業上男を誘惑する手法は心得ているつもりだったが、一生懸命見つめても、水穂さんは千代のことは、何も気が付かないで史ばかり見ている。それは、もしかしたら?千代はそんな気持ちがしてしまった。

「それでは、ありがとうございました。またよろしくおねがいします。」

史が水穂さんに座礼したのと同時に、順子も千代も、同じようにしなければならなかったが、ふたりとも別の意味で、この動作が本当に嫌だった。

「お気をつけてお帰りくださいね。最近、交通量が多くなりましたから。」

確かにそのとおりなのだ。最近、製鉄所近くに大通りができたせいか、そこへ向かう車がよく製鉄所の前を通るのである。でも、この配慮が、史だけのものであったら、、、それこそ、千代も順子も嫌だった。

それから、三人は、順子の運転する車に乗って、製鉄所をあとにした。史はいつもどおり、ショッピングモールにあるレストランで食事をしようと言った。まあ確かに、それは昔から三人集まるとしてきたことだった。三人はショッピングモールに入り、ちょうど開店したばかりのラーメン屋さんでラーメンを食べた。

「史、最近明るくなったね。」

順子は、ラーメンを食べる史をみて、そういった。史は、たしかに以前であれば少食な女性だった。でも、今は、ラーメン一杯はかならず食べるし、おかわりをせがんだこともある。

「そうかしら?あたしはただ、毎日生活しているだけのことよ。それを言うなら、順子たちは、ちゃんと仕事もしてるんだし、ずっと私よりすごいことじゃないの。」

と史さんは、明るい声で言った。流石に、順子は史が明るくなると困るとは言えなかった。それでも史は、確実に変わり始めている。史の右腕は、バラの筋彫りがあるが、それが完成に近づいていくに連れ、史は明るくなっていくようであるのだ。

「そんな事ないわよ。明るく生活できるのはいいことよ。あたしみたいに、仕事はしていても、明るく生活できないのなら、生活だって楽しくないじゃないの。」

順子が急いでそう言うと、

「あら、またお祖父さんが変な事言うの?」

史は明るく聞いた。その言い方が、順子はちょっとかちんと来た。今までの史とは違う言い方だったからだ。

「ええ、まあね。私は仕事があるからって言って、逃げてきたんだけど、最近またひどくてね。また病院に連れていけとか、そういう事を言い始めるのよ。母は、あと五年も生きないからとか言うんだけどさ。私は、五年もあの人と一緒にいるなんて最悪よ。もう殺したいくらい。」

順子は、いつも言っているセリフを言った。

「そうか。また前と同じセリフね。」

千代が、そう順子に言ってくれたが、史の反応は違った。

「そうかあ、でも、いちばん大事なのは、順子がどうしたいかじゃないかしら。順子も、お祖父さんと一緒に暮らしたくないと思ったら、家を出てもいいんじゃないかしらね。家だって、万能じゃないんだし、居場所がなくて居心地が悪いなら、出ていったほうがいいかもしれないわよ。順子は仕事もあるんだしいいじゃないの。それなら、順子一人、なんとかやっていくことだってできると思うわ。大事なことは、順子が一歩踏み出すことよ。私は幸い、ピアノをやることができて、自分の居場所が見つけられたけど、順子は、もう仕事があって、所属する場所ができてるんだし、そこで、なんとかなるんじゃないかと思うんだけど?」

史の言葉に順子は耳を疑った。以前の史であれば、そのような事をいうことは毛頭なかった。そうではなく、そうか、順子辛いねとか、そういって自分を慰めてくれるような反応であった。それなのに、なんてことを史は言うのだろう。家をでろとか、そういうことは、逆立ちしてもできないことは、史も知っているはずなのに。

「ああ、無理よ。あたしがそんな事したら、お母さんだって、そのうち逝っちゃうわよ。そうしたら、あの爺が一人で残って、あたしが結局、なにかしなくちゃいけなくなるだろうし。あいつは、足が悪くても口は達者だからね。あっちが痛いだことの、呼吸が苦しいだことの、何かに付けて、病院に連れていけとかうるさく言って。無視すれば、俺の話を聞いてくれないと言って、親戚中に話しまくるから、あたしたちが悪いになっちゃうわ。そうしたら、あたしたちは一貫の終わりだもの。だから、あたしも変わりたくても変われないわよ。」

順子は、いつも言っている平凡なセリフを言った。

「でもさ、順子も、変わらないと、いつまで経っても辛いままよ。なにか一歩を踏み出すことはとても大事なんじゃないかしらね。順子は、何よりも仕事があるわよ。それにかこつけて逃げることはできるんじゃないかしら。それさえできれば。」

そう一生懸命アドバイスする史は、どうやら自分が変われたのは、二人のおかげだと思っているようである。順子は、そんな事を思われるのはいい迷惑だった。

「そんな事ないわよ。そういうことができたのは史が一生懸命努力したから。それは、誰の力でもない。私の力でもないわ。だから、そんな事言わなくていいの。」

千代が、年上らしく、史に言った。こういう事を言えるのは、やっぱり年長者であったからだ。

「ああ、ごめんなさい、自分が嬉しすぎて、ちょっと調子に乗りすぎたわね。」

そういう史であるが、千代も史がそう明るくなって、面白くないのだった。年上となると、どうしてもグループのまとめ役を頼まれるが、千代は、その中でも、人に言えない悩みを抱えていた。

「いいのよ。史もまだなりたい自分発展途上なんだし、頑張って、そこまで近づいてよ。私、心から応援するわよ。」

千代は、とりあえずそう言っておくが、本当は、水穂さんに自分の方を向いてほしいなんてどうして言えるんだと、心の中では呟いていた。

「まあ、順子が変われないこともまた事実なんだし。史が変われたのと、順子の事情は別問題だからね。」

「すごいなあ。」

千代がそう言うと、順子が羨ましそうに言った。

「千代って、すごいわね。そうやって、人をまとめることができるって、なかなかできないわよ。あたしには絶対できないわ。すごいなあと思う。」

そんな褒め言葉を言われても困るのだ。こんな事、年増女郎であれば、他の女郎さんたちを抑えるのに必要な技術なのだ。

「何を言ってるの。あたしはただ、みんながバラバラになるのをまとめているだけよ。」

千代は作り笑いを浮かべた。史と順子は、その顔を、本当の顔だと思いこんでしまっているらしい。

「まあそうよね。あたしたちは、もともと社会不適応ということでくっついているようなものだしね。バラバラになってはそれこそ、相談する相手もいなくなっちゃうわ。それは嫌だから、もう言わないでおくわ。」

史が、急いでそういった。不思議なもので、女同士だと、なかなか決着まで行き着くのは珍しいことである。大体どこまでも平行線で終わるんだけど、今日の史は、そういうことはなかった。

「いいえ、あたしも、くそじいといつまで生活していくかわかんないけど、それでも耐えているうちに、なんとかなるかもしれないしね。まあ、いつもどおり、そこで終わりにしておくわね。」

順子も、史に続いていった。まだ歳の若い順子は、そうやって無理やり結論づけることも可能だった。

「みんな悩みがあって話したいことはわかるけど、あんまり粘っこくならないようにね。それはお約束よ。」

千代が作り笑いのままそう言うと、史も順子もはいといってふたりとも笑顔にはなった。でも、千代は、そうなってしまったら、また自分の持っている事を言えなくなってしまったと、ちょっと落胆したような気持ちになった。言えるわけないじゃないかと思う。私が、史のピアノ教師を好きになってしまって、自分のものにしたいと思っていることなんて。

と、同時にショッピングモールの、只今午後1時をお知らせしましたというアナウンスが流れる。

「仕事があるんでひとまず帰るわ。」

と、順子が立ち上がった。あ、私もそろそろと、史も立ち上がる。三人は、お勘定場へ行き、それぞれ別個で、今日の飲食代を支払った。

「じゃあまたね。」

「バイバーイ。」

三人は、ショッピングモールの入り口で、にこやかにわらって帰った。


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