第四章 コンクール
暖かくなって、外出も気軽にできるようになってきた。水穂さんのもとにも、浩二くんと三人の女性たちが訪れているが、彼女たちの着るものもだんだん春仕様に変わってきたようだ。
「だいぶ弾けるようになったじゃないですか。良い傾向ですよ。」
水穂さんは、史さんに言った。
「ありがとうございます。先生に褒めていただけて嬉しいです。」
史さんは素直に感想を言うと、
「鬼頭さん、一つ提案があるんですけどね。」
と、浩二くんが史さんに言った。
「よろしければで構いませんが、ピアノのコンクールに出場してみませんか?」
そう言って浩二くんはカバンの中かいくつかのピアノコンクールの参加者募集要項と書かれたリーフレットを取り出した。
「そんな事、私にできるんでしょうか?」
史さんは大変びっくりした顔で言った。
「はい、大丈夫ですよ。コンクールと言っても難易度は様々で、史さんに出ていただくのは、愛好者のためのコンクールですから、そんなに難しくありません。ただ、ステージ経験と、誰かに演奏を聞いてもらうということで、そこはとてもいい体験になると思います。」
浩二くんは、コンクールのリーフレットを、床の上に置いた。
「場所は、どこなんでしょうか?私、東京とか、そういう遠くには出られませんので。」
史さんがそう言うと、
「はい、富士市内で開催されるものもありますし、沼津や三島でもやっております。」
浩二くんは即答した。
「でも、演る曲が無いです。」
「だったら先程のシューベルトの即興曲でいいでしょう。十分ひきこなせると思いますよ。盛り上がりも華やかさもあります。」
「でも、私、そこまでやり遂げられる自信がありません。まだ無理だと思います。」
史さんがそう言うと、
「いや、いいんじゃないですか?コンクールなんて、発表会と同じようなものですし。本当に気にしないで出場してくだされば、それで良いと思います。」
水穂さんも浩二くんと同様な事を言った。
「本当に、緊張しないで軽い気持ちで出てみてください。賞をもらうことが全てではありません。」
「そうですか、、、。わかりました。どうなるのかわかりませんが、出場して見ようかな、、、。とても下手な演奏なので賞なんか当然、貰えないとは思いますが。私は、ピアノに関しては、本当にまだまだ初心者ですから。」
史さんがそう言うと、浩二くんはすぐに、
「どのコンクールに出たいか、希望するものはありますか?」
と、聞いた。
「そうですね。地元の富士市内で行われるのが一番いいかな。そうすれば、順子や千代も、応援に来れるし。」
「そうですか。それでは、富士で長年やっている、こちらの大会に出てみるといいですよ。課題曲なども特にありませんので、予選本選とも同じ曲で参加できます。」
浩二くんは、コンクールのリーフレットを彼女に渡した。
「どんな人達が出場しているのでしょうか?」
「18歳以上であれば年齢制限はありませんから、若い人からお年寄りまで色色な年代の方がいますよ。」
「そうですか。こんな歳では、やはり無理ってことかな。そういうところは、若い人ばっかりでしょうし。多分、音大性とか、音高生とか、そういうすごい人ばっかりですよね。」
史さんは、また心配そうに言った。
「そんなに気負わなくていいんですよ。コンクールと言っても、人前で弾く練習だと思ってくれればそれでいいですから。順位に入りたいとか、そういう事を考える必要は全くありません。それよりも止まらないで完奏することが大切です。」
水穂さんも一生懸命励ましてくれたが、順子も千代も、史さんがコンクールに出場すると聞いて、面白くなさそうだった。
「でも、史が途中で止まってしまったらどうなるのでしょう?」
順子が浩二くんたちに聞く。
「その時は、その時ですよ。そうなってしまう出場者も珍しいことではありませんし、敗北したとしても、そういうことがあったなと良い思い出になるでしょう。」
水穂さんがそう答えたが、
「でも、もし仮に、史が負けた場合、先生方は、よくもこの私の顔に泥を塗ったとか、そういう事を言うんじゃないですか?あたしたちは、そういう事をさせないように、三人一緒になっているようなこともありますから。」
千代が年長者らしくそういう事を言った。
「ええ、でも、負けることだって必要なときもありますし、負けることで成長できることもあります。だから気にする必要は全く無いです。」
水穂さんがそう答えてくれたが、
「本当にそうでしょうか?偉い人って、勝てばすごく褒めてくれるけど、その逆になると、捨てたり、馬鹿にしたりするでしょ?」
順子がそういった。
「とにかく、やってみなければわかりません。勝つとか負けるとか、そういうことはどうでもいいのです。それよりやってみることのほうが大事なんです。」
浩二くんがそう言ったが、順子と千代は、本当にそうかしら、という顔をしていた。
「コンクールもある意味では運を天に任せることもあります。何が起こるかは誰にもわかりません。」
水穂さんがそういうので、順子と千代は黙った。
「よろしくおねがいします。」
史さんは、浩二くんたちに頭を下げた。
それから、数週間立って、いよいよコンクールの日がやってきた。三人は会場である富士市民文化会館に行った。史は車の運転ができないので、順子か千代が連れて行くしかなかった。とりあえず受付へ行って、手続きを済ませ、順子と千代は、ホールの客席へ、史さんは、演奏者控室へ行った。
「エントリーナンバー9番、静岡県富士市、鬼頭史さん。曲は、シューベルト作曲、即興曲D935より、第四番ヘ短調です。」
そうアナウナンスが流れ、史さんが舞台に登場した。
「なんだか緊張しすぎているくらい緊張しているみたいね。」
千代は、ステージの史さんを見てそういった。
「大丈夫かしら。」
順子もそう言っている。一礼した史さんは、ピアノの前に座り、即興曲を弾き始めた。確かに、今まで一生懸命レッスンしてもらった成果など何もなかったような演奏であった。緊張しすぎているのはわかるが、それも度を越している。
「まあ、これで良かったじゃない。史に偉くなられたら、私達は困るものね。」
「そうそう。お互い、友情関係が壊れてしまうのも困るわ。」
順子と千代は、客席でそう言い合っていた。
「このまま、三人でずっといられるのが一番いいのよ。」
千代はそんな事を呟いていた。そう言っている間に、史さんの演奏は終了した。一応拍手はもらえたけど、多分期待できないことがわかっている拍手だった。でも史さんはちゃんとお客さんたちに一礼して、舞台袖に戻った。
その後、五人ほど演奏して、コンクールは終わった。結果発表が掲示されたが、入賞者に鬼頭史の名はなかった。
「やっぱり負けたわね。」
史さんはにこやかにわらった。
「それで良かったのよ。私は素人だし、こんな人間が賞なんかもらったら、コンクールがだめになっちゃう。」
「そんな事言わないほうがいいわ。史はちゃんとやったんだし、自信がなさすぎなのよ。」
千代は、年長者らしくそういったのであるが、
「いいえ、あたしは、仕事だってしてないんだし、日の目を見たらだめなのよ。」
と、史さんはそういうのだった。
「史はもう少し自信を持ってよ。一応、ピアノだってわたしたちより弾けるんだからさ。」
と、順子が言うと、
「いいえ、あたしはだめよ。やっぱり、働いていたり、学校へ行っている人とか、そういう人にやらせるべきなんだわ。私は絶対に無理なのよ。」
と史さんは言った。それと同時に、こんなアナウンスが、ホールに響き渡る。
「皆様、本日の審査結果に変更がございます。先程、本選出場者の名前を掲示させていただきましたが、本日の審査員特別賞受賞の、鬼頭史様の名前が抜けておりました。重ねてお詫び申し上げます。」
「は!史が審査員特別賞ですって?」
千代が思わず声を上げた。
「なにかの間違いではないかしら?」
と史さんが声を上げると、
「特別賞受賞の鬼頭史様、並びに、入賞者の皆様は、表彰式を行いますので、ホールへお集まりください。」
とアナウンスが流れたため、三人は、ホールへ戻った。ホールへ戻ると、史さんを始めとして入賞者は再び舞台に上がった。そして、富士市長さんから、今日のコンクールの講評があり、その後、入賞者に賞状が手渡された。史さんも賞状だけもらった。
「それでは入賞者の方々へインタビューを行います。まず、審査員特別賞の鬼頭史様からです。なにか一言、今のお気持ちをお聞かせください。」
地元の新聞社の記者だろうか、インタビューに慣れているような女性が、史にマイクを向けた。
「え、え、ええ、ええーと、出場させていただきありがとうございました。今までこんな舞台に立てたことがなかったので、素直に嬉しいと思います。ありがとうございました。」
史さんはなれない口調でそう答える。それを聞いた、順子も千代も面白くない顔をした。その後は、入賞した人たちへのインタビューへ移行してしまったが、なんだか、史さんは、演奏しているときよりもっと緊張しているような感じだった。確かに、緊張しやすい人物であることは順子たちも知っている。だけどなんだか、史が大事なところを持っていってしまったような、そんな気がするのだった。
その後、来賓の挨拶などがあって、表彰式は終了し、史たち三人は帰ることになった。お茶でもしようかという気持ちには三人ともなれなかった。史さんは演奏で疲れてしまっていたし、順子と千代は、またそれぞれの意味で疲れていたのである。
「あ、そうだ。ちょっと、製鉄所によって貰えないかしら?右城先生に、お礼を言って置きたいわ。」
と、史さんが車に乗ろうとした直前に、急いで史さんが言った。
「ああそうね、それはあたしも行くべきだと思ってた。」
と、順子が言うので、運転していた千代は、車のエンジンをかけ、製鉄所に急いだ。史たちが製鉄所に行くと、応答したのは杉ちゃんだった。
「で、水穂さんになんのようなんだよ。」
と、杉ちゃんがそう言うと、
「はい。あたしたち、今日のコンクールの結果報告をしに来たんですが。」
と史さんが言った。
「そうなんだね。また今度にしてくれるか?悪いけど、水穂さんも疲れてしまったようで。今日は、暖かかっただろ?それでなんか疲れてるみたいでさ。」
と、杉ちゃんに言われて、千代はがっかりした。
「それで、先生はどうしていらっしゃるのでしょうか?」
と史さんが聞くと、
「ああ、布団で寝てるよ。薬でな。」
と、杉ちゃんが言った。
「そうですか。じゃあ、先生に伝えてください。今日は、審査員特別賞をもらいました。順位には入れませんでしたが、それでも、審査員の先生が、私の演奏を聞いてくれたみたいです。」
史さんがそう言うと杉ちゃんは、
「そうか。よく頑張ったな。なかなか、大変だと思うけど、コンクールで賞もらうことはすごいことだからな。まあ今日は、よく休んで、しっかり体を休めてやってくれ。結果報告は、また、水穂さんも具合がいいときにしてやってくれ。」
と、史さんににこやかに笑った。
「了解です。ありがとうございます。私が、賞をもらえたのも、先生のご指導のおかげだと思います。」
そう言っている史さんを見て、順子は、彼女がなにか変わったのではないかと思った。以前の彼女なら、自信なんて何もなかったはずなのに、今の一時的なものかもしれないけど、史さんは、なんだか前向きになっているのではないかと思う。一方千代は、また別の理由で落ち込んでいた。
「それでは、今日は帰りますが、また新しい曲を持って、レッスンに参ります。右城先生、どうもありがとうございました。」
と、史さんは杉ちゃんに一礼して、製鉄所をあとにする。
「それでは、よろしくおねがいします。」
と史さんはまた、順子と千代の車に乗り込む。誰も、口を開いたものはいなかった。みんな、それぞれの悩み事で疲れていた。それぞれ、考えることがあった。それぞれ、環境も違っていた。
千代に自宅へ送ってもらって、自宅へ帰った史さんは、椅子に座って、少しうとうとした。ご飯の支度をしないと、また夫がなにか言うのかもしれないという考えが脳裏に浮かんだが、そんな事は気にしないで、ちょっとウトウトした。
ガチャとドアが開いて、史さんの夫が帰ってきたのがわかった。
「ただいま。」
もうそんな時刻だった。
「ああ、おかえりなさい。」
史さんは夫に挨拶した。夫は、テーブルの上にある史さんの獲得した賞状を見ようともしないで、
「おい、あの、食事まだなんだけど?」
と、だけ言った。
「ごめんなさい。今日は、コンクールに出て、今帰ってきたばかりなの。それでちょっと疲れちゃったから、休んでた。ごめんね。すぐ支度するから。」
いつもの彩さんだったら、申し訳ありませんとか、そういう事を言うはずだ。でも、今日の史さんはそうではなくて、言う内容が違っていた。
「ああ、いいよ。気にしていないから、お前のペースでご飯を作ってくれればそれでいいさ。」
夫も、そういう事を言った。今までの夫は、何をやっているんだと言うはずだったが、史さんはそう言われても平気だと思われる気がした。人前に出て演奏することが成功したので、夫の前に出ることは、さほど緊張することはなくなったのだ。
「もうちょっと待っててね。」
そう言って史さんはご飯の支度を始めた。自信が持てるってなんていいのだろう。何故か一度それをしてしまうと、世界が変わってしまうものらしい。あれほど小言が多かった夫が、今は別人のように見える。もちろん、人間には他人を変える能力は決してなく、変わると言ったら、自分の意識だけしかないのは旧知のとおりだが、なぜか、彼女にはそう見えるのだった。史さんは、パスタを茹でながら、鼻歌まで歌って、夫の前に出ることができたのだった。
「そうですか。コンクールにね。」
蘭は、史さんの話を聞いて、にこやかに笑った。
「はい。お陰様で、順位には入ることはできなかったんですが、審査員特別賞をもらうことができました。私に、そんな力をつけてくれたなんて、右城先生や、浩二先生の指導のおかげです。本当にあの二人の先生には感謝の気持ちでいっぱいです。」
史さんは、にこやかに笑った。
「そうですか。でも、それはやっぱり、自分を褒めてやることが一番なんじゃないでしょうか。自分が、水穂や浩二くんに着いていこうって、一生懸命努力したから、そういう結果が出たんだと思うし。それは、とてもすごいことだと思うから。マラソン選手が自分で自分を褒めたいと言ってましたけど、それは同じことだと思うんですよね。」
蘭が、そう言うと、
「でも私、働いていないし、主人の世話にならないと生きていかれない人間ですし。そんな人間が、自分に自信なんか持っていいのでしょうか?それは、間違いだと思いますが?」
と史さんは答える。
「そんな事ありません。史さんは、一生懸命やったんです。それは、褒めてやるべきです。自分を褒めてやれるのは自分しかいませんから。それを、なぜ、いけないことだと言うんです?誰かになにか言われたんですか?そうしてはいけないって。」
蘭は、史さんの体に刺した針を抜きながら、そう聞いた。刺青の施術というのは確かに激痛でもある。それを和らげようとして、彫ってもらうときは、色々おしゃべりをする客が多い。蘭は、別に客が話していても大丈夫なので、客に喋ってもらっていた。それに、痛みのために客が話しを取り繕っている暇がなく、大概の客は本音で喋ってくれる。それが蘭は大事だと思っていた。痛みの中で、話してくれる言葉は、大体が、真実であると信じているし、それに、新しい自分になるための通過点として、過去のことは忘れてほしいと思っているので、どんどん話してくれと思っている。
「ええ、私、学生時代言われたことがあるんです。高校生のときだったと思います。確か、朝礼のときだったと思います。先生が働かない人間は、自分をいつも攻めていないと、犯罪者になる、一番犯罪に走るのは、無職だから、それを防ぐためには、自分を責めて生きるようにと。」
「そうですか。その時、周りの生徒さんたちは、どうしていたんですかね?」
蘭がそうきくと史さんは、
「ええ。ひどいものでした。誰も先生の言うことを聞かないで、皆隣同士で喋っていました。もう先生の声なんて、ほとんど聞こえない授業もあったくらい。」
と答えた。
「そうなんですか。それでは、勉強もしづらかったのでは?」
蘭が聞くと、
「ええ。真剣に勉強しようとすると、周りの生徒から、嫌がらせを受けるので、私も、不真面目な生徒を演じなければなりませんでした。」
と、史さんは答えた。
「そうですか。誰か、あなたの味方をしてくれた人はいませんでしたか?」
「ええ、家族も、親戚も公立学校でいい学校だとか、そういうことばっかり言って、私の事は何も聞いてくれませんでした。確かに伝統ある学校でしたけど、偉い学校と言うのは大嘘です。真剣に勉強したい生徒なんて一人もいません。だから先生は、黒板の方を向かせようとして、毎日毎日怒鳴りつけて。そんな日々でした。学生生活なんて。」
と、史さんはそう答えたのだった。
「そうですか。それは、あなたが悪いわけじゃありません。たまたま、環境が許さなかっただけだと思います。そんな高校に入ってさぞかし辛かったことでしょうね。真剣に勉強したい気持ちが許されないなんて、そんな学校、放置しておいていいものでしょうかね。昔の噂ばかりに凝り固まっているお年寄りも悪いんですよ。みんな、あなたの事、味方してくれなくて、随分、お辛かったのでは?でも、あなたは、コンクールで賞をもらったんだ。それは、あなた自身のちからです。誰のものでもありません。それくらいの力があなたにはあるということですよ。それを忘れないでください。」
針を抜きながらしたり顔でいう蘭に、史さんは、
「ありがとうございます。」
と、涙をこぼしていった。
「さあ、今日は、ここまでにしましょうね。あともう少しで、筋彫りは終了です。これから色入れに入りますから、そうしたら、バラも完成ですよ。」
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