第三章 ジムノペディ第一番

寒い日が続いていたが、その日、やっと暖かくなった。これでもう、暖房はいらないなあということになり、、杉ちゃんたちは、火鉢を片付けようかとしていたところ。

「右城先生、今日はレッスンですね。よろしくおねがいします。あの、今日は二人見学者が見えられます。」

と、言いながら、浩二くんが、四畳半にやってきた。そういえばそうだった、と水穂さんは布団の上に座った。

「右城先生、今日も鬼頭史さんが、一生懸命練習してきたそうですから、また、見てやってください。今日は彼女の親友の方が、見学においでです。」

浩二くんがそういうと、鬼頭史さんと、二人の女がやってきた。

「あ、この前ショッピングモールであったね。よほどご縁があるんだね。」

杉ちゃんが、そういうと、二人の女性たちは、目をパチクリさせていた。

「えーとたしか、あの、史の刺青師さんと、一緒にいた人よね?」

一番年上と見られる女性がそう言うと、

「おうそうだ。名前は影山杉三、杉ちゃんって呼んでね。こっちは、ピアニストの、」

杉ちゃんがそういうと、水穂さんが、

「磯野水穂です。旧姓は右城ですが、今は磯野と名乗っています。」

と、頭を下げながらいった。

「そうなんですか。よろしくおねがいします。それにしても、あ、これは言わない方がよろしいかな。」

一番若い女性がそういいいかけると、

「なんだ、なんか言いたいことでもあるのか?」

と、杉ちゃんにきかれた。

「いえ、あんまりこんなことは口にしてしまったら、失礼になりますし。」

彼女は申し訳無さそうにいった。

「まあ、順子ったら、また、余計なことを感じ取ったのね。ごめんなさい、順子も千代も、私も、余分なことばかり感じてしまう体質でして。いわゆる、HSP何でしょうか、私達は。」

と、鬼頭史さんが、そう弁解したが、

「まあ、なんでもいいから、感じたことは、なんでも口にだして言っちまったほうがいいぞ。」

と、杉ちゃんにいわれて、一番若い順子さんは、

「ああ、ごめんなさい。ただ、とても美しい方何だなあとおもいまして。」 

と、恥ずかしそうにいった。

「美しいって、誰が?」

すぐに杉ちゃんが聞くと、

「はい、磯野先生がです。本当にきれいですもん。なんか、ショパンの若い頃の顔にそっくり。」

と、順子さんは、真面目な顔をして答えた。

「ま、まあ、それは置いておいて、レッスンに入りましょう。今日の曲は、エリック•サティの、ジムノペディ第一番です。前回の、即興曲とは、全然難易度ちがうけど、史さんがどうしてもやりたいそうですから。では、どうぞ。」

と、浩二くんがピアノを示すと、史さんは、ピアノに座り、ピアノを弾き始めた。たしかに、美しいメロディではあるが、大変重々しい曲で、どこか、自分自身を開放させるような曲ではなかった。それよりも、自分自身を更に深いところへ落としてしまうような、そんな感じがした。

「はい、よくできていますよ。ただ、演奏としては、もう少し左手を小さく弾いて見ていただけるとよいのではないでしょうか。前回もそうでしたけど、鬼頭さんは、全体的に演奏に力が入りすぎていて、なかなか硬いんです。そうじゃなく、もう少し、穏やかな気持になって、演奏してみたらいかがですか?」

水穂さんが、鬼頭史さんに、そうアドバイスすると、順子さんが、

「先生、史に、そんなこと言わないでやってくれますか?史は、ただでさえ、生活していくだけで大変なんです。先生は、鬱になった経験はないでしょう?史は、うつ病で、家事がやっとなんです。」

と、彼女を庇うようにいった。

「そうなのか。それでリストカットに走ってしまったんだね。」

杉ちゃんが、そういうと、

「それでは、うつ病の治療の目的でピアノを始めたんですか?」

水穂さんが聞いた。

「ええ。失礼かもしれないですけど、私は、女が働くのは、かっこ悪いと言われて、働かせてもらえないんです。それで鬱になって。ようやく、ピアノを習わせてもらったんばかりなんです。」

という鬼頭さんに、

「はあ、それはどういうことだ?誰にそんな古臭いセリフを言われるの?」

杉ちゃんはすぐツッコミを入れた。

「あ、いや、直接口に出してそういわれたわけではありません。ただ、主人がそういう人で。古臭いかもしれませんが、そういう人なんです。それはきっと、私が主人にとって、そういう存在でいたほうがいいから、そうなったんだと思います。」

と、彼女は、急いで訂正する様に言った。

「うーんそうだねえ、それはちょっと、古臭すぎる考えだと思うけどねえ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「そんな事ありませんよ。妻をそばに置きたい夫は、たくさんいますよ。」

と、鬼頭さんはごまかすように言った。

「そうかも知れないけど、」

杉ちゃんがなおも追求する様に言うと、

「杉ちゃん、もうそれ以上追求するのは、やめて置いたほうが。彼女が可哀想なこともあるじゃない。」

と、水穂さんが優しく言った。

「でもさあ。」

と、杉ちゃんは、いうが、水穂さんはそれ以上言わせなかった。このときはそれで済んだのであるが、、、。

「でも、いいじゃないですか。ピアノを習うことで、きっかけができるんですから。世の中には、逃げるきっかけがなくて、ずっとそのままい続けなければならない人だっています。本当は、そういう人が、もっと高く評価されるべきなんですけど。だって、何もしないでずっと耐えているしか、できないのですからね。」

水穂さんは続けてそういった。そういった水穂さんを見て、それまで黙っていた、龍村千代さんの表情が変わった。

「どうされたんですか?なにかありましたか?」

と、水穂さんが千代さんにそうきく。千代さんはちょっと驚いたような様子で、

「ええ、何でもありません。」

といっただけであった。多分きっと、この三人の女性たちは、互いになにか重大なことがあって、それをお互い集まることによって、癒やしているのではないだろうかと思われた。

「それでは、もう一度弾いてみてください。もう少し、左手の音量を抑えて、静かに弾いてください。確かに、家庭環境が許さないということはあるとは思いますが、それは、ピアノを弾いているときだけは、終わりにしましょう。その時だけでも、別の世界にいってみませんか?」

水穂さんは優しく鬼頭史さんに言った。

「ありがとうございます。先生。じゃあ、そのときだけは、私は、今の状況を忘れて、ピアノをがんばります。」

と、鬼頭史さんは、もう一回ピアノを弾き始めた。今度は、もう少し左手の音を抑えた、演奏を始めた。

「いいですね、右城先生でしたっけ。紳士ですねえ。史にそんなふうに親切に教えてくれるんだから。羨ましいなあ。あたしも、先生のレッスンを受けてみたい。」

順子さんは明るい顔で、そんな事を言っている。一方、龍村千代さんのほうは、なにか感じ取ったらしく、黙ったまま、水穂さんを見つめていた。

「じゃあ、本日のレッスンは、ここまでにしましょうか。お疲れさまでした。楽しんでいただけましたか?」

と、水穂さんがそう言うと、

「ええ、とても楽しかったです。先生、ありがとうございました。先生のような高名な方に見ていただけるなんて。そんな幸せをあたしが持っていいのでしょうか。そんなこと。」

鬼頭史さんは嬉しそうに言った。

「そうなんですね。水穂さんに会わせることができて、僕も嬉しいですよ。僕も、ここへ連れてきて良かったなと思います。」

浩二くんもそういう事を言った。

「それでは、これで帰りますので、レッスンの日程なんかは、またメールか何かで連絡しますよ。それでは、ありがとうございました。」

「なるべくなら、アポを取って来てくれよ。いきなり押しかけられてレッスンでは困ることもあるよ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「はい。わかりました。もしかしたら、こちらの二人も見学に来るかもしれませんが、そのときは、よろしくおねがいします。」

と、浩二くんは帰り支度を始めた。鬼頭史さんも、木本順子さんも帰り支度を始める。

「ほら、千代も帰るよ。」

木本順子さんが、千代さんに促したことで、千代さんは、急いで帰り支度を始めたが、まだ名残惜しそうな感じだった。

「それでは、私達、失礼いたします。本当に今日はありがとうございました。」

「このあと、どこか三人で行くのかな?お食事でもするのかな?」

と、杉ちゃんが聞くと、

「ええ、私達は三人で一心同体。だから、このあと、カフェで食事を摂ることになっているんです。」

口の軽い順子さんがそういった。

「そうですか。それはよろしいことですな。なんかそういう何も知らなかった関係から、すごい親友になれるなんて、すごいことだと思うな。」

杉ちゃんがそう言うと、鬼頭史さんも、木本順子さんも、照れくさそうに笑った。

「では、御免遊ばせ。」

三人は、急いで帰っていく。浩二くんも、ありがとうございましたと言って、四畳半を出ていった。

「浩二くんが連れてきたとはいえ、彼女たちは、本当にピアノを習いたいと思っているのかな?なんか別の意味でくっついている様に見えるぞ。」

杉ちゃんは、はあとため息をついた。

「女性ですからね。僕達とは、少し違うのではないでしょうか。女性が求めるものは、僕達とは違うような気がするんです。それは、もしかしたら、言葉では言い表せないことかもしれません。」

水穂さんもそういった。

帰り道、浩二くんが車に乗って製鉄所をあとにしたのを確認した三人は、じゃあ、お茶でもしましょ、と言って、製鉄所から数キロ離れている、小さな喫茶店に入った。そこで、またガールズトークというか、女性特有の話が始まった。服装のこととか、恋愛のこととか、そういう事を、話すのである。誰がタイプだとか、昨日のテレビドラマは面白かったのかとか、そういう話をするのだった。その話をするのはだいたい年の若い、木本順子さんが主役になり、真ん中の鬼頭史さんが聞き役になる。テレビ業界に多少関わりのある、龍村千代はそれを眺めているようであったが、今回は違っていた。というのも、鬼頭と木本が話していたのは、あの美しいピアニストについての話だったからだ。ショパンの生き写しだとか、どっかの外国の俳優さんみたいだとか、そういうことで二人は盛り上がっている。千代は、それが不愉快でならなかった。何故か、そう思ってしまうのだ。なぜなのか自分でもわからないけど、千代はそういう気持ちになってしまうのである。

「もう一回会いに行きたいね。また三人で、会いに行きましょうね。」

順子さんにそう言われて、千代はハッとした。

「ああ、ああそうね。」

思わずそう言ってしまう。

「本当は、あたしが、」

と千代は言いかけて黙った。

「あたしがどうしたの?」

鬼頭史さんに言われて、千代は、

「なんでも無いわ。」

とだけ答えた。

その時は、二人は何も追求せずに、そのままガールズトークに戻ってしまったのであるが、それでも、水穂さんの話ばかりで、千代は少々つらいものがあった。

「あ、もうこんな時間。私、帰らなくちゃ。あんまり外に出ると、主人に叱られて、また何か言われちゃうのよ。」

と、鬼頭史さんが言ったため、三人は、渡された伝票の値段を確認して、急いでお勘定場に行って、それぞれの飲食したぶんの金を支払った。

「じゃあ、これで帰るけど、また会いましょうね。大変だけど、お互いがんばりましょう。」

と、順子さんがそう言うと、

「絶対無茶はしちゃだめよ。一生懸命やるのはいいけど、無理して体でも壊したら、元も子もないわよ。」

と、史さんも、そう返した。

「千代も、元気でにこやかに過ごしてね。」

と、順子さんに言われて千代はまたハッとした。

「どうしたの?千代、今日はおかしいわよ。なんかボーッとしちゃって、抜け殻になったみたい。」

「いえ、大したことじゃないわ。なんでも無いのよ。」

千代は、急いでそう言うが、

「そうかしら?なにかいけないことでもあるんだったら、すぐ言ってちょうだいよ。あたしたちは、隠し事はなしよ。」

鬼頭史さんにそう言われて、千代は、

「本当になんでも無いのよ。」

と、作り笑いをした。その後で三人は、それぞれ歩いたり、タクシーを呼ぶなりして帰っていった。千代は、鬼頭史や、木本順子を見つめながら、

「言えるわけないじゃない。あの男性を、私が、好きになったなんて。」

と、一言呟いてしまった。

それから、また数週間たって、鬼頭史が、レッスンを受ける日がきた。ちなみに史はうつ病を患って以来、精神薬を服用していたため、車の運転はしてはいけないことになっており、運転ができる、木本順子や、龍村千代が手伝う必要があった。千代は、車の運転を頼まれ、嬉しい気持ちと他の気持ちを抱えながら、製鉄所へ車を運転した。

製鉄所に行くと、水穂さんがいた。いつもどおり、ジムノペディ第一番と、シューベルトの即興曲をレッスンした。史さんは、一生懸命音楽の世界に入ろうと努力した。でも、完全に音楽になりきることはできなかった。水穂さんが、指示を出す通りの演奏はできていなかった。水穂さんはそれでも優しく、レッスンをしてくれるのであった。順子はそれを楽しそうに見つめているが、千代は、それが、楽しいという気がしなかった。

「それでは、もう一度、弾いてみてください。頑張って指定テンポで弾ける様にしてみましょう。別にできなくてもいいのです。今できなくても、練習を続けていけば、できるようになります。」

水穂さんに言われて、鬼頭史さんは、一生懸命シューベルトの即興曲を弾いた。一生懸命指を動かして、指定テンポに近づこうとしているが、それは追いつけなかった。もしかしたら、薬のせいで指が動かなくなったのかもしれないし、それ以外の理由があるかもしれない。それでも、一生懸命ピアノを弾いているのだった。

「よくできましたね。」

と、水穂さんは史さんに言った。

「もう少し力を抜きましょう。そうすれば、より美しい音で弾けるようになります。」

「本当にありがとうございます。こんなどうしようもない女のために、レッスンしてくださるなんて。とても嬉しいです。」

鬼頭史さんは嬉しそうに言った。

「いいえ、どうしようもない女ではありません。それならお伺いしますけど、どこがどうしようもないんですか?」

水穂さんは、鬼頭史さんに聞いた。

「はい。だって、働かないで主人に頼りっぱなしで、ずっと家にいる女なんて、人から見たら、本当にひどいことではありませんか。」

史さんが恥ずかしそうに答えると、

「いや、そんなことはありませんよ。だってそれは、生活されているには仕方ないことなのでしょう?それを続けていかなければ生活できないのですよね?」

「はい。」

鬼頭さんは水穂さんに言われて、小さく答えた。

「人間ですからね。ただ耐えているしかできないことだってあります。」

水穂さんに言われて史さんは、

「ありがとうございます。右城先生。先生がそう言ってくださってすごく嬉しいです。」

と、小さい声で言った。

「良かったねえ。あたしたち以外の人に、悪くないって言ってもらえたじゃん。史、ホントによかった。そう言ってくれる人、今までいなかったもんね。」

と、順子さんが、にこやかに笑ってそういう。

「それはどういうことですか?」

と、水穂さんが聞いた。

「ああ、もしかしたら、聞いてはいけないことだったかもしれないですよね。確かに、傷つきますものね。みんな、旦那さんに迷惑をかけるなとか、早く仕事をしろとか、そういうことしか言われないでしょうし。それを言われ続けるのも辛いから、いくら経済的に暮らしていけると言われても、居心地が悪いのでしょう?」

史さんは、小さく頷いた。

「そうなったら、自分を責めるしかありませんよね。どこにも行く場所がないし、社会で何も役割が無い辛さというのは、本人しかわからないですよ。それを、あなたと、順子さんと千代さんは、三人で話し合うことで、傷の舐め合いをしていたんではありませんか?」

「申し訳ありません。私、なんて悪いことをしていたんだろう。」

鬼頭さんは、申し訳無さそうに言った。

「こんな人間、右城先生のような人は、生きる価値は無いって見ますよね。きっとどこにも生きている価値がない、地球のゴミのような、人間なんでしょう?」

「そんなことありませんといったら、多分あなたは、余計に苦しむのではないでしょうか。それを、価値のない人間なんていないと励ましても、受け入れることはできないでしょう。ただ、耐えているしかできないんですよね。でも、それだって、人生になるんじゃないですか。そういう生活に陥った人には、同じ境遇の人間の言葉にまさるものは無いです。」

「ありがとうございます。先生、本当にありがとうございます。本当に、ありがとうございます。」

と、鬼頭史さんは涙をこぼして泣きだしてしまった。

「ええ、大丈夫ですよ。僕もその悲しみは知ってますから。経済的には恵まれているのに、どこにもいる場所がない悲しみは、誰にも、言えないものです。」

「そうですよね。私は、順子や千代がいてくれて、本当に恵まれているんですよね。頑張って、生きていかなくちゃならないですよね。だって、世の中には、それすらできない人だっているんですから。」

水穂さんが優しくそう言うと、鬼頭史さんは、はいと小さな声で言った。

「あたし、がんばります。もう少し幸せになれるまで、がんばります。」

それを聞いて、千代は、なんで自分にはこんなふうに言ってもらえないのだろうかと、羨ましく感じてしまった。なんで私じゃなくて、史なんだろう。自分は、なんで、好きな人に話しかけて貰えないんだろうか。そんな事は、口に出して言えるものではない。だから、自分の中で消化しなければならないのだが、それが殊の外辛かった。でも、千代はその時間をずっと耐えた。耐えるしかできない人もいるというのは本当だった。




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