第二章 バラの種をまこう

その日も、蘭は、自宅内にて下絵を描く仕事をしていた。下絵をとりあえず描いて、さあ、どうかなあと構図などを考えていたとき。

「おう、此の家だ。何も遠慮はいらないから、お前さんの両手にあるものを消してもらえ。」

と、杉ちゃんのでかい声が聞こえてきたので、びっくりする。

「おーい蘭。お前さんにお客さんだよ。ちょっと重症かもしれないけど、うでにあるたくさんの傷跡を消してやってくれよ。」

と、インターフォンを5回鳴らして、杉ちゃんの声がした。

「本当にいいんですか?私のような、こんな人間が、刺青師の先生にお目にかかれるなんて。」

と、女性の声も聞こえてくる。

「こんなにんげんってさ、彫ってもらわなければ、リストカットを辞めることができないじゃないか。絶対半端彫りはしないって約束してくれれば、お前さんの人生観とか、変わるかもしれないよ。ほら、入れ。」

杉ちゃんは勝手に蘭の家の玄関ドアを開けてしまった。

「もう、杉ちゃんすぐドアを開けるんだから。すこしは、遠慮してよね。」

蘭は、玄関先に行って、杉ちゃんにいった。そこにいるのは杉ちゃんと、ちょっとおどおどしている、若い女性だった。

「はじめまして。僕は、刺青師の伊能蘭と申します。一応、彫たつと名乗ってますが、その芸名はあまり使うことはないので、伊能蘭と呼んでくれれば大丈夫です。」

蘭がそう自己紹介すると、女性は、ちょっと緊張した顔つきで、

「はじめまして、鬼頭史と言います。歴史の史と書いてあやです。よろしくおねがいします。」

と、自己紹介した。

「はい、鬼頭史さんですね。とりあえずお入りください。」

蘭は、彼女を家の中に案内する。彼女は、ありがとうございますと言って、蘭の家に入っていった。

「素敵なお家ですね。刺青師の先生のお宅というからには、もっと和風な家かと思っていましたが、お宅には、ぬいぐるみが沢山あって可愛らしいです。」

鬼頭さんは、楽しそうに、蘭の家の中を眺めながら、とりあえず蘭のしごと場に入ってきた。

「それでは、単刀直入に言いますが、彫るところはどこですか?」

蘭は彼女に聞いた。杉ちゃんが二人の前にお茶を置いてくれた。

「ええ。この腕なんですけど。」

と、彼女は腕をめくった。

「わあ。これはひどい。」

蘭は思わずそう言うほど、鬼頭さんの腕は、傷だらけだった。

「そんな事言わないでさ。彼女の傷跡を消してくれる様に、持って行ってやってくれないかな。」

と、杉ちゃんがいうが、

「しかし、これはひどいですよ。もうそれ以外何もありません。正直、リストカットややけどの跡を刺青で消してくれという依頼はよくあるんですが、難しいところです。」

蘭は、ちょっと困った顔をした。

「そこをなんとか、彫ってやってちょうだいよ。彼女は、きっと、その傷に苦しんできたと思うよ。だから、生まれ変わるお手伝いをしてやると思ってさ。」

杉ちゃんが急いでそう言うと、

「はい。そうですね。難易度の高い刺青になると思います。ですが、それ以外、その傷跡を消す手段は無いわけですしね。わかりました。じゃあ、続きまして、何を彫りたいか、しっかり話してくれませんか。花でもいいし、桐紋のような吉祥文様でも構いませんし、歴史上の人物が好んでいた、有識文様でもいいです。大事なことは、刺青というのは、絶対に消せませんから、後悔しない、絵柄を選ぶこと。これは忘れないでください。」

蘭は、刺青師らしく話をした。

「ごめんなさい。私は、日本の伝統的な柄というものは、全く知識がありません。どうしたらいいでしょう?」

鬼頭さんが、急いでそう言うと、

「ああ、そうですか。それなら、ご自身の誕生花とか、親御さんの好きだった花とか、そういうものを彫ってみたらいかがでしょうか?」

と、蘭はヒントを与えた。

「そうですか。それなら、先生、バラを入れてください。」

鬼頭さんは即答した。

「すぐ、結論が出るんだな。神聖な作業だから、真剣に考えたほうがいいよ。」

と、杉ちゃんが口をはさむ。

「いえ、それはわかります。私は、バラが好きです。特に、あの、バラが咲いたっていう歌にもあるように、真っ赤なバラが好きです。だから先生、真っ赤なバラを入れてくれませんか?」

鬼頭さんは、しっかり決断したように言った。

「わかりました。ただし、彫る条件として、半端ボリだけはしないでくださいね。それは、第一条件です。」

蘭は、そう条件を出した。

「はい、どんなに痛くても我慢します。根性を叩き直すつもりでやりますから、先生、よろしくおねがいします。」

「わかりましたよ。じゃあ、二時間くらいつくような感じで、やっていきましょうか。赤いバラの図案を描いておきますから、どんなバラのモチーフにしたいのか、しっかり考えてきてください。」

蘭が、そう言うと、鬼頭さんは、嬉しそうに、頭を下げた。

「良かったねえ。幸せのバラの花の種をこれで撒いたぞ。種子さえ撒いておけばいつか必ず芽が出るよ。それでは、一緒に頑張ろうね。」

と、杉ちゃんがにこやかに笑った。

「ありがとうございます。本当にありがとうございます。先生、ぜひ、よろしくおねがいします!良かった。これでやっと、本気で自傷を辞めることができます。嬉しいです。」

「そうかそうか。それではよほど悩んでいたんだね。確かに、どう見ても、誰かが見ても間違っているけど、やめられないことってあるよね。」

杉ちゃんがにこやかに笑った。

「でも、もう安心しなさい。きっと、楽になれると思います。」

蘭も、彼女に優しく言った。

「あの先生、私の、親友二人にも話していいですか?きっとあの二人なら、私がリストカットを辞めるのを、応援してくれます。そして、祝福してくれると思います。」

「へえ、それでは、一番喜んでくれるのは、ご主人とか、息子さんとか娘さんではないの?」

杉ちゃんがすぐ揚げ足をとる。

「いえ、子供はいないんです。ほしくなかったわけでは無いんですけど、でもどうしてもだめだったので、二人だけで頑張ろうねって、言っているところだったんです。」

「そうなんだねえ。それでお前さんは、身の上相談を、その二人の親友にしていたんだね。確か、水穂さんのところに来たとき、ピアノサークルで知り合ったと言ってたね。その親友はなんていう名前なの?」

杉ちゃんが好奇心のある目でそういう事を言った。

「ええ、一人は、木本順子さんで、病院で看護助手をしています。もうひとりは、龍村千代さんで、ちょっとした劇団で、女優をしています。すごいでしょ。みんな私より、優れた仕事をしているんですよ。」

「はあ、龍村千代ですか。それはもしかしたら、ピンク映画によく出ていた女性ですか?」

蘭が、急いで聞くと、

「はい。そうです。でも、とてもしっかりしていて、優しいし、いい人ですよ。その二人なら、私が、バラの刺青をすることも、受け入れてくれると思います。話してもいいですか?」

と、彼女は嬉しそうに言った。

「はい。構いませんよ。あなたも祝福してもらえるといいですね。」

「ええ、なんだか嬉しいです。これでやっと私も、変われるんですね。私、一生懸命変わろうと努力してきたけど、全然できなくて、それでは行けないのかなと自分を責めてきたんです。それからもやっと解放されるんですね。」

「はい。ただ、僕は流行りの機械彫はできませんので、それはご容赦くださいね。昔の刺青師は、総身彫りだって、みんな手彫りでやりましたから、それは、今の刺青師だってできます。なのであえて、外国で流行っているやり方を取り入れる必要は無いのです。そうなると、機械彫の数倍はかかってしまいますが、痛みは機械彫よりも少ないです。」

「わかりました。先生におまかせします。よろしくおねがいします。」

鬼頭さんは、にこやかに笑った。

「じゃあ、喜びのバラの種をやっとまけるということだな。」

杉ちゃんがカラカラと笑った。

それから、数日後のことである。杉ちゃんと蘭は、ショッピングモールへ買い物に行った。ちょっと時間があったので、ショッピングモールに併置されている喫茶店で、ちょっとお茶でも飲んでいくかということになった。杉ちゃんたちが、喫茶店に入って、とりあえずコーヒーを2つ頼んで、座席に座ろうとすると、

「あら、伊能先生じゃありませんか!」

と、近くに座っていた女性が、話しかけた。

「ああ、鬼頭さんですね。どうしたんですか?買い物ですか?」

と、蘭がそう言うと、同じテーブルに、二人の女性が座っているのが見える。一人は、ちょっと、気が強そうな医療関係者とわかる女性、もうひとりは、色っぽいところがあって、ちょっと女性らしいところを強調しているようだ。

「あの、この二人というのは、こないだ、打ち合わせしたときに、話したあの親友ですね。」

と、杉ちゃんが、思わずいうと、

「ええ、二人にもぜひ紹介するわ。私の、刺青師の先生です。伊能蘭先生。そして、こちらの女性が、木本順子。そして、こちらの女性らしい方が、龍村千代です。」

と、彼女は明るく、二人を紹介した。

「ああ、ありがとうございます。本当にそのような存在がいてくれたと聞いて安心しました。本当に、ピアノサークルで知り合ったんですか?」

と、蘭が聞くと、

「ええ。ピアノサークルでは、一番下手くそで、足を引っ張るような存在なんですけどね。」

と、木本順子さんという女性が言った。

「お仕事は、看護助手と聞きましたが、どちらか病院で働いていらっしゃるんですか?」

「ええ。富士の中央病院です。」

蘭が聞くと、彼女は答えた。

「そうですか。それでも、ピアノを習っているんですね。看護のしごとは、非常に大変だと聞きますけど、それは、苦じゃないんですか?」

蘭がまた聞くと、

「でもピアノは好きで、ちょっと弾きたくなるようなときもあるんです。中央病院というと、やっぱりほら、昨日まで生きていたのに、ってなっちゃう人もいますからね。それの余韻を消すために、ピアノを習っているんです。」

と、木本さんは答えた。

「順子は、医療従事者でもあるけど、同時に、繊細すぎるところもあるんですよ。私は、そんな順子の話を聞いたり、慰めたりする役目を背負わされます。」

龍村さんと言われた女性が、にこやかに笑った。

「はあ、色っぽい顔をしているのに、意外に強そうだな?」

と、杉ちゃんが言うと、

「ええ。強そうとはよく言われるんですが、そんな事ありません。なんか、世間では、女優さんなんかやれて、羨ましいななんて言われるんですけど、でも、辛いときもあって、誰かに聞いてもらわないと、いけないんですよ。」

と、龍村さんは答えた。

「そうなの?じゃあ、三人の共通点は、意外に繊細であるということだな。いいじゃないか。繊細なところがあるってのは、物事によく気がついていいってことだよ。それは、大事に思っておきな。決して悪いことじゃないからね。」

と、杉ちゃんがいうと、

「ありがとうございます。あたしたちは、お互いに愚痴を言いたい場面はあるわけで、それを、三人でいつも言い合うことによって、成立しているのかもしれません。だから、あたしたちは、長続きするのかな。」

鬼頭さんが答えた。

「そうですか。じゃあ、鬼頭さんのひどいリストカットのことも、二人が相談に乗って上げているんですか?」

と蘭が聞くと、一瞬ではあるが、二人、つまり、木本さんと龍村さんの目が宙を泳いだ。それを、杉ちゃんは、見逃さなかった。

「ええ、まあ。彼女には、病院に行くようにとアドバイスもしました。でも、彼女が、何故か、そう言うところにはいきたがりませんでした。心の病気だから、入院させてもらったらどうかって言いましたけど、それでは、意味がないって、ご主人が反対したみたいで。それで、彼女には、思いっきり愚痴を言ってもいいよって私、言いましたけど、彼女が、話そうとしてくれないのです。」

と、龍村さんが答えた。

「私の時間が無いこともあるんです。最近収録の時間が多すぎて、なかなか彼女の話を聞くことができなくて。それで、史さんには、時々集まる時間を作って、思いっきり話していいよって、言ってるんです。」

「それでは、刺青を入れることも、知らなかったのか?」

杉ちゃんが聞いた。

「いえ。それは、彼女、つまり、鬼頭のラインから聞きました。なんでも、バラを入れてもらうとか。先生、鬼頭は、バラが大好きで、不思議の国のアリスに出てくる、ハートの女王みたいに、失敗したら激怒しますからね。それは覚悟でやってくださいね。刺青は一生モノなんでしょう。絶対に失敗は許せないことですよね。」

と、木本さんは言った。

「ある意味、医療と一緒ですね。私は、看護師じゃないから、医療行為はしないですけど、でも、そういうことなんだろうなと思っています。」

そう言って、三人の女性は、にこやかに笑いあった。でも、蘭も杉ちゃんもこの三人の女性は、なんだか本当の友情で結ばれているのではなく、なにか、別のもので結ばれているのではないか、と言うことを感じ取った。なんだかそれは、理由があるわけではないけど、直感的にそう感じ取った。

「でも、いいじゃないですか。鬼頭が、生まれ変わって、リストカットをやめてくれるというのなら、私達も嬉しいですよ。」

木本さんがそう言うと、

「ちょっとまってください。鬼頭と呼び捨てにしたり、彼女と発言したり、お三人さんの年齢は、いくつなんですか?」

と、杉ちゃんが聞くと、

「はい。私はまだ35です。」

と、鬼頭さんが言った。

「私は、まだ、25歳。10年も離れているけど年の離れた人のほうが、一緒にいて楽しいです。」

と、木本さんが言った。

「そして私は、45のおばさんです。」

と龍村さんが言う。

「はあ、そうなると、鬼頭さんとは10年、木本さんは、15年も離れているわけか。それでは、一回りも違うんだな。そんなに年齢が離れているのに、友情が続いているなんて本当に珍しいなあ。こりゃ、奇妙な女の友情って気がするぞ。」

と、杉ちゃんがちょっと驚いた顔で言った。

「確かに三人とも、すごい若作りしてるから、同級生のように見えるけど、そうじゃなくて、15年も年が離れているとは驚きだぞ。」

「杉ちゃん、女性に対して、年のことをすらっと言っちゃだめだぞ。」

蘭は、すぐにそういったが、

「いいんですよ。確かに、なんでそんなに友人関係が続くのか、妬まれたことはいっぱいありますから。」

と、龍村さんが、にこやかに笑った。

「まあ、女の敵は歳って言いますけどね。だからお誕生日が来るのも、怖いなあと思うんですけど、三人でお祝いしてくれれば、また違うかなと思うんです。」

木本さんはちょっとおちゃらけた様に言った。

「うーん、たしかにそうだねえ。確かに、女の敵は歳で、誕生日が来るたびにゾッとするのはわかる。」

と、杉ちゃんもそう返したが、何故か、三人の女性たちは、そのような事を言われて、笑うことも起こることもしなかった。

「いずれにしても、三人で、仲良くやってください。三人よれば文殊の知恵です。なにかあったら、三人で助け合って、楽しんでね。」

と蘭は、にこやかに言った。女性たちは初めて、にこやかになって、

「そうですね。ありがとうございます。」

「じゃあ先生、彼女、鬼頭史が生まれ変われるように、バラを咲かせてあげてください。」

木本さんと、龍村さんは、そういったのであった。

「わかりました。今回は本当に、難易度の高い刺青になりますね。それは、覚悟が必要だな。がんばりますよ。」

と、蘭はちょっと苦笑いを浮かべていった。

「じゃあ先生。私達、そろそろ時間なので、帰りますが、先生、よろしくおねがいします。」

と、龍村さんが言って、三人の女性たちは、椅子から立ち上がった。そして、急いで、お会計に向けて喋りながら歩いていく。

「確かに、楽しそうなんだけどねえ。」

と、杉ちゃんは、彼女たちを見ながらそういう事を言った。

「ちょっと不自然なところもあるな。15年も歳が離れているというのに、付き合えるんだから。確かに、年の差恋愛という言葉もあって、親子くらいのおじさんと、結婚してしまうという例もあるけどさ。」

「そうだねえ。僕もそれはそう思うよ。それに、無職と、看護助手と、ピンク映画の女優という、職業だって全然違うわけだし、そのような境遇の三人が、くっつきあえるものかなあ。」

蘭も、杉ちゃんに言われて、そういう事をいった。

「共通点があることと、相手が足りないものを補うということで相性は成立するということだが、それもなんだか、なさそうだからなあ。逆を言えば、どうして、年齢も職業も違っている三人の女が、くっつけるというほうが、珍しいんだがな。」

「なんか、今回、鬼頭さんが蘭の家に来たことで、なにかハプニングが起らないといいけど。」

杉ちゃんは不意にそういうことを言った。

「そうだねえ。そんな予感、たしかに僕もするよ。」

蘭も、杉ちゃんに同意した。

「でも、あんまり気にしすぎも良くないから、僕らは彼女たちにあまり干渉しないほうが、いいのではないかな?」

「そうだねえ。」

杉ちゃんという人は、すぐそういうことを言うのであるが、いつもなにか面倒な事を起こしてしまうのが、杉ちゃんでもあった。

「まあ、無理せず行くか。よし、僕達もそろそろ時間だから、帰ろうか。今日は、えらく時間が経ってしまったし。」

蘭に言われて杉ちゃんは、

「ウン、それでは、タクシーを呼んで僕達もうちへ帰ろうか。」

と、言ったのであった。蘭は、急いで、タクシー会社に電話して、車いす用のタクシーを、一台手配してくれる様に頼んだ。

まもなくタクシーがやってきた。杉ちゃんと蘭は、運転手に乗せてもらってタクシーに乗り込み、二人で帰っていった。二人が帰っていっても、何も変わらない様に、ショッピングモールは、デーンとそびえ立っていた。



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