即興曲

増田朋美

第一章 不思議な女性

寒い日であった。雨が降る予報では無いものの、日が出なくて曇っていて、どこか肌寒く、とても外へ出ようという気持ちにはなれない日であった。そんな日に限って、誰かがやってくるものである。世の中とは、そういうふうにできているらしい。

「こんにちは、柳沢です。診察に参りました。」

玄関の引き戸がガラッと開いて、河童みたいな顔をした柳沢裕美先生が、製鉄所にやってきた。男女の区別がつきにくい名前で、男性と聞くと、ちょっとびっくりする名前でもある。

「ああ、お願いします。こんな寒い中、ありがとうございます。」

杉ちゃんがそう言って出迎える。柳沢先生は、四畳半にやってきた。水穂さんは、よいしょと布団の上に起きた。柳沢先生が、水穂さんのそばに来て、聴診したり、血圧を測ったり、脈を取ったり、してくれた。

「そうですね。まあ、現状維持ってところですね。薬も前回と同じものを出しておきましょうか。また処方箋を出しますので、薬局で頂いてきてください。」

「わかりました。」

柳沢先生は、薬の名前を紙に書いて、杉ちゃんに渡した。そして、水穂さんに横になってもらうように言った。

「じゃあ、また一週間後に来ますので、よろしくおねがいします。」

柳沢先生が立ち上がろうとしたのと同時に、

「こんにちは。桂です。今日は生徒さんを連れてまいりました。」

玄関先から浩二くんの声がして、杉ちゃんと水穂さんは顔を見合わせた。なんで浩二くんは、予約も何もなしで製鉄所に来るのだろうか?せめて今日の何時に来るとか、電話を入れてほしいと思う。

「それでは、今日の生徒さんを紹介します。名前は鬼頭史さんで、特に仕事はしていないそうです。どうぞお入りください。」

浩二くんは、一人の女性を、四畳半へ連れてきた。30代くらいの若い女性である。でも何かたどたどしく、とても自信がなさそうな女性だった。

「ああ、柳沢先生がいらしていたんですか。丁度いいや。先生にも演奏を聞いていただきましょう。彼女の演奏はきっと印象に残りますよ。」

「はい、わかりました。音楽のことは詳しくありませんが、聞かせていただきましょう。」

柳沢先生は、水穂さんの隣に座った。水穂さんももう一度布団の上に起きた。

「それでは、鬼頭さん演奏をお願いします。曲は、シューベルトの、即興曲、ドイチュ番号、935から、四番ヘ短調です。」

浩二くんがそう言って、鬼頭さんをピアノの前に座らせた。鬼頭さんの両腕には、多数の傷跡があった。そうなると、彼女が常習的にリストカットを行っている証拠だ。しかもその傷は、古いものではなく、ついたばかりと思われるものも多数あり、もしかしたら、縫合したのではないかと思われる、大きな傷跡もあった。

「すみません、お願いします。」

そう言って、鬼頭史さんは、ピアノを弾き始めた。杉ちゃんが思わず、なかなかいい演奏じゃないかというくらい、彼女の演奏はよくできていた。16分音符の音階も、崩れることなく弾いているし、和声的にもバランスがいい。なかなか、人前でこういうちゃんとした演奏ができる人はそうはいない。人前で演奏するのは非常に難しいことだから。

「ほう、なかなかうまいじゃないか。いい演奏だと思うよ。しっかりした演奏ができるのは、有利だよ。」

杉ちゃんが拍手をしてそう感想を述べた。

「僕も、上品でいいと思いますよ。ただ、シューベルトですから、あまりきつい演奏はしないほうがいいですね。もう少し、強弱をしっかりして、盛り上がるところは盛り上げてください。あとはそうですね。キーがよく変わる曲ですので、その一つ一つをしっかり感じ取って弾いていただけると嬉しいです。」

水穂さんが、ピアニストらしくそうアドバイスした。

「はい、ありがとうございます。桂先生が、突然もっとすごい先生に見てもらおうと言って、こちらへこさせてもらったんですけど、とても緊張してちゃんと弾けませんでした。すみません。」

鬼頭さんは、申し訳無さそうに言った。

「いえ、そんなに、ご自身を責める必要はございません。僕は、アドバイスをしただけのことです。だから、そんなに怖がらなくても良いのですよ。」

水穂さんがそう言うと、

「ごめんなさい、本当にあたしが下手くそで。」

と、鬼頭さんは言った。

「いえ、大丈夫です。僕は、浩二さんがいうほど偉い人間ではありませんから。」

と、水穂さんはにこやかに笑ってそう返す。

「それもそうですが、あなた、リストカットは、随分長くやっていらっしゃるのですか?」

突然、柳沢先生が言った。鬼頭さんは小さく頷いた。

「そうですか。それはまずいですね。確かにリストカットをすれば、気持ちが休まるのかもしれませんが、でも、ピアノが弾けなくなってしまう可能性もあります。ですから、リストカットは、あまり良いものでは無いんですよ。すぐにやめろとは言いませんが、なんとかして辞める様に努力していただかないと。」

「幸せな人は、そう言いますが。」

鬼頭さんは小さな声で言った。

「世の中には、そうするしか解決できない人間だっているのよ。」

「でもさあ、そのせいで手の神経を切って、手が不自由になっちまったら、それこそ不運だよ。西郷隆盛だってそうだったでしょ。誰でも不自由にはなりなくないじゃない。」

杉ちゃんが彼女に言った。

「そういうことなら、リストカットはやめて、ピアノをお前さんの生きがいにすればいいじゃないか。一人ぼっちでいるのであれば、ピアノサークルに参加させてもらうとかさ。そういう事をすれば、気持ちも明るくなるんじゃないの?」

「そうですよ。僕もそのために、鬼頭さんにレッスンしているんです。なにか楽しいことを見つけてください。」

杉ちゃんがそう言うと、浩二くんもすぐに言った。

「またリストカットしたくなったら、ピアノでも弾いて気分転換してみなよ。やっぱりさ、自分の体を傷つけてどうのってのは、ちょっとよろしくないと思うよ。あんまり倫理的にカッコつけて言うのは好きじゃないけど、自分をいじめたら、自分が可哀想じゃない。自分が自分にならないで誰が自分になるっていう相田みつをさんの言葉もあるんだし。自分が自分の事一番可愛がってやれなかったら、それこそ可哀想だぜ。」

「ごめんなさい。私、そんなふうに言ってもらえたことないから。」

鬼頭さんは、申し訳無さそうに言った。

「なかったら今からすればいいの。やったこと無いんなら、今からやればいいだけで、それに甲乙つけることは必要ないの。世の中意外に単純だよ。だから、明るく楽しく生きればそれでいいのさ。」

杉ちゃんの発言に、水穂さんがちょっとため息をついた。

「杉ちゃんさんと言う方は、何でも明るい方へ考えるんですね。」

代わりに柳沢先生がそういった。

「じゃあ、もう一回やってもらうか。今度は、間違っている音とか、水穂さんにしっかり指摘してもらおう。厳しく指導してもらったほうが、やる気も出ると言うもんだよ。」

「はい、ありがとうございます。」

そう言って彼女は、ピアノを弾こうとするが、腕の傷がまだまだ新しいものがあり、はっきり見えてしまったのだった。思わずそれをみた柳沢先生が、

「そこまでひどくリストカットして、誰かご家族や、ご親戚で悩みを打ち明けられる方が、いらっしゃらないのですか?」

と、医療従事者らしくそんな事を言った。

「まあ確かに、そういう悩みは、家族より、他人のほうが、打ち明けやすいってこともあるから、カウンセリングとか、受けたらどう?」

杉ちゃんがそういうと、

「ええ、カウンセリングは、受けたことが一度も無いのです。なんか、私のような人間が受けていいのかわからなくて。でも、友達はいます。」

と彼女は答えた。

「はあ、どんな友達?同級生?」

「いえ、それではありません。でも、私を支えてくれるかけがえのない存在です。」

杉ちゃんが聞くと、彼女は答えた。

「そうですか。どちらでお知り合いになられたんですか?」

水穂さんがまた聞くと、

「ピアノサークルです。すごくピアノが上手い子もいれば、初心者レベルの子もいますが、でも私には大事な人達です。」

ということは、友達が複数人いることがわかった。

「いい出会いに恵まれたんですね。きっと、悩みを打ち明けても、必ず手を貸してくれると思います。自分の体を切る前に、その人達に相談するようにしてください。」

柳沢先生がそう言うと、はい、わかりました、と彼女は言った。

「できればご家族にも、協力していただきたいんですがね。心が病むというのは、一人では解決できないですから。」

「ああ、それはちょっと無理ですわ。普通の家族とはちょっと違いますし。」

彼女はそう言うが、すぐに杉ちゃんが口を挟んだ。

「でも、ちょっと違うと言っても、お前さんを浩二くんと一緒にここへこさせてくれるんだから、結構自由にさせてもらっているようだけどねえ。中には、外出させない家族もいるだろうが。」

水穂さんは、杉ちゃんに、それは言わないほうがと言ったが、杉ちゃんは話を続けるのであった。

「そういう束縛ばっかりしているような家族では無いってことは、少なくともお前さんは愛されているんじゃないか。きっと、お前さんが、苦しんでいると打ち明ければ、家族も、優しく慰めてくれるよ。大丈夫だから、ちゃんと胸の内を話しなよ。そうだ、手始めに、僕達に、なぜ、リストカットに走ったのか、ちゃんと話してみろ。」

「杉ちゃん、あんまり言い過ぎると可哀想だよ。彼女はきっとつらい過去を持っているんだと思うし。あんまり口に出して言わせるのは、いきなり全部ではなくて、少しずつ話していけばそれでいいじゃない。」

水穂さんが、杉ちゃんにそういった。

「まあそうだけど、いずれは事件の全容を話していかなければならないと思うよ。それなら、ここで練習したほうがいいだろう。」

杉ちゃんがそう言うと、

「まあ、ご自身のペースでいいですから、自分の事をちゃんと、ご家族に話してください。ご家族に言うのは、非常に難しい事かもしれませんが、それでもしなければならないときはあると思います。」

柳沢先生が、しっかりと言った。

「しかし、いきなり全部話させるのは、本人が辛いかもしれません。本人だって、口に出して言えないからこそ、リストカットをしているのかもしれませんから。」

水穂さんの態度に、鬼頭史さんは、

「ありがとうございます。私、こんなに優しい人に初めて会いました。うちの家族だって、そんなに優しい言葉をかけてくれる人はいませんよ。むしろ、なんていうのかな、私がなにか言えば嫌そうな顔をするばかりで。だから、言えないんです。家族には。」

と言った。

「なるほどねえ。でも、嫌な顔をするのは、家族だからかもしれないよね。家族だから、大事に思っているから、そういう人からなにか言われるのが嫌だ、そうは考えられないか?」

杉ちゃんがそういった。

「そうなんでしょうか?」

鬼頭史さんは、驚いた顔をする。

「うん。そうだと思うよ。だから、辛く当たるのかもしれない。ご家族は、どうしても、感情が入っちまうからな、特に、女は。」

確かに、女というのはそういうものだ。ちょっと、感性がいい人だと、そこを考えてしまうのである。だから、話さないほうがいいと言うことになってしまう。なので大概の人は、問題に気が付かないのだ。

「まあ、そういうことであれば、カウンセリング受けるとかしてさ、ちょっとずつ、自分が思っていることを、口に出して言ってみる、成文化することから、初めて見ては?自分がどんな人物か、わかるきっかけにもなるぜ。」

「はい、ありがとうございます。本当に嬉しいです。私のことをそうしていたわってくれるなんて。私、そんなふうに扱ってもらったことなくて、いつも厄介者扱いでしたから。ほんと、そんなふうにアドバイスされたことは一度もありませんでした。私、嬉しいです。」

彼女は、涙をこぼしてそういう事を言ったのだった。

「いやあ、それに感激しちゃだめですよ。まだまだ問題を話すことも始めていないじゃありませんか。まずはじめに、あなたが抱えている問題を解決させて、一刻も早くリストカットではなく、なにか別の方法で、発散できる様にならないと。」

柳沢先生が医者らしく言った。

「必要であれば、精神科の医者を紹介することもできますよ。決して頭の悪い人が行くとか、そんな偏見は持たないでくださいね。薬で、解決はできませんが、気持ちを落ち着かせることはできますから。」

「良かったねえお前さんは。今日ここへ来て。こうして、対策を提案してもらうことができたんだからな。お前さんは、幸運だ。それは、嬉しいことだと思え。まずは、病院へ行ってさ、ちょっと苦しくなったとき、薬を飲んで楽になることも必要だな。」

杉ちゃんは、柳沢先生のあとに続けていった。

「それで、自分のことや、家族のことは、カウンセリングを受けて、ちょっと考えの癖とか、矯正してもらうといいよ。あるいは、催眠療法とか、受けさせてもらってもいいかもよ。そういうのは、ちゃんとした治療だからね。それは、何も悪いことは無いから。あの有名なラフマニノフだって、催眠療法で立ち直ったんだからな。良かったなあ。お前さんのやるべきことが見つかって。」

「もう、いきなり次から次へとやることを出して、杉ちゃんほんとに気が早いね。」

水穂さんは、杉ちゃんの発言に、驚いた顔で言った。

「そうですね。僕も、医者として、それに頼らなければならないと思います。そう言う方じゃないと、精神障害は、治すことはできませんよ。もちろん、思いだけでは病気は治せないですけど、でも、思わなければ、治せないこともまた事実ですからな。」

と、柳沢先生も、そんな事を言っている。

「良かったねえ。本当にお前さんは強運だ。それは良かったね。お前さんは、これから、リストカットをする必要はなくなるんだ。」

「それはどうでしょうか?」

杉ちゃんがそう言うと、彼女は、すぐ言った。

「必要はなくならないと思います。家族のことや、過去にあったことはどうしても思い出してしまいますし。それでどうしても、切りたくなってしまう場面に遭遇してしまいます。」

「はあ、そうだねえ。でも、お前さんの気の持ち方を変えれば、しなくなると思うんだがなあ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「結局は、そういうんですね。私がなんとかなればとか、世界を変えるには自分が変わることとか、そういう事を、言うんですね。なんで、みんなそういう事を言うんですか。私、何回も努力したけど、結局変わることはできませんでした。」

と、彼女は言った。

「そうですね。確かに、それができたら苦労はしませんよね。それはよくわかります。僕も、どうしても変えることに向き合わなければならない事もあります。変われる、変われると人は言いますが、そういうことができるなら、苦しむ人が減らないのはなぜなんでしょうね?」

水穂さんが優しく言った。

「そうだねえ。それも確かだよなあ。じゃあ、そうだなあ。もう一回、なにか新しいものを得るつもりでさ、なにか習い事でもしてみたらどうだ?」

と、杉ちゃんという人は、すぐに話しを変えてしまうのであった。

「そうですけど、それができれば、苦労はしませんという表現がまさにぴったりです。だって、習い事は、うちにお金がないって、家族が反対するんです。それに、ピアノを習ってるからそれでいいのではないかって。」

「そうですか。わかりました。それは、仕方ありませんね。変えられないものに、立ち向かっても仕方ないという気持ちが湧いてしまうこともあるでしょう。それは、人間ですから、仕方ないことですよ。人間は万能ではありませんから、そういうことだと思ってください。」

鬼頭史さんがそう言うと、水穂さんがまた優しくそう言ってくれるのだった。

「それでも、医者としては、リストカットを無害だと言って、放置しておくわけには行きません。水穂さんの言うように、仕方ないで片付けられることではありませんよ。医者は、体を壊すのを放置すると、職務怠業になります。」

柳沢先生は、しっかりと言った。

「まあ、まあそうだよな。それなら、リストカットをしない方法を考えなきゃだめだなあ。よし、じゃあ、傷を別のものに変えちまえばいいわけだ。傷を見て、これを壊してはいけないと思えばいいんだ。それだったら、僕のうちの隣に、刺青師がすんでいるから、彼に頼んで、なにか縁起物でもほってもらえ。決して半端彫りはするな。そうすれば、刺青を壊したくないということで、絶対、切ろうとは思わなくなる。」

杉ちゃんが、明るい声でそういった。刺青というと、ちょっと彼女は、怖いなという顔をしたが、でも、そうするしか無いと思ったようで、

「わかりました。じゃあ、その刺青師の先生の電話番号を教えて下さい。あたし、頑張って見ます。」

と、決断した様に言った。水穂さんが、ちょっとまってくださいね、と、枕元に置いてあった手帳を破って、伊能蘭の名前と住所と電話番号を書いて、彼女に渡した。

「本当に、ありがとうございました。私が、リストカットをしなくなるきっかけまで教えていただくなんて。私、運が強かったというか、なんだろう。なにか、大きなきっかけって、本当に、身近なところにあるものですね。あるバンドの歌にもありましたけどね。」

彼女は、涙をこぼして、それを受け取った。

「いいんですよ。僕達は、困っている人の役に立てて、本望ですからね。」

水穂さんがそう言うと、

「じゃあ、こういうときは、善は急げと言うんですよね。早速、問い合わせしてみます。」

そう言って、彼女は、蘭の電話番号を急いで登録する作業に取り掛かった。こういう電子機器の操作はやっぱり若い女性だ。すごく速く作業を終えてしまった。

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