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緒音百『かぎろいの島』6/20発売

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 まあ、いらっしゃい。あら手土産にケーキを買ってきてくださったの。なんだか気を遣わせてしまったみたいで申し訳ないですね。

 そう緊張なさらないで……この家は、貴女の実家でもあるのですから。お一人でいらっしゃるのは今日が初めてですね。さあ、お上がりになって。荷物はこちらに。新調したスリッパをどうぞ使ってください。素敵な深紅色でしょう。


 ちょっと会わない間に、ずいぶんとお腹が大きくなりましたね。お腹の子供がすくすく育っている証拠ねぇ。

 いやだわ、そんな場所に立っていないでソファに座ってください。クッションも遠慮なく使っていただいて構いませんよ。あのね、私、貴女と二人だけでお話できると思ったら一週間も前からそわそわしてしまって、つい張り切って、高級なハーブティーを買っちゃったのよ。こんなの普段は飲まないのだけど。さっそく淹れるわね。ハーブの種類が気になる? 大丈夫よ。三越の店員さんに、妊娠中でも問題なく飲める種類をちゃんと確認して購入しましたから、安心して飲んでくださいね。きっとケーキに合うわぁ。


 こんなことを言ったら悪いのかもしれないけれど、貴女、太りましたか? 前はモデルさんみたいに痩せていたのに。妊婦は動かなくっちゃあ駄目ですよ。私のお友達のお嬢さんなんかは毎週マタニティピラティスを習って、健康維持に努めていらっしゃいますよ。

 もしかして、ほとんど家の外に出ていないのではありませんか? 普段の買い物はどうしているの? 会社帰りにあの子が? へぇそう。あの子ったら仕事しながら家事までして、熱心ねぇ。ひどい心配性だから貴女を一人きりで出掛けさせたくないのでしょう。まるで箱入り娘ですね。昔じゃあ考えられないことですよ。ほんとう、毎日ゆっくりできて、いいわねえ。


 はい。ハーブティーが入ったわ。冷めないうちにどうぞ。ハーブは悪いものをデトックスしてくれるから、ダイエットにいいのですよ。いくら妊婦だからって太りすぎだもの。え? あの子が「妊娠中はあまり動き回らないほうがいい」と言ったのですか? 古い考えねぇ。私達の時代は妊婦は安静が一番だなんて言われましたけれど、時代が変われば常識も変わるものですよ。最新の情報を仕入れなくっちゃ。常識といえば、貴女はご両親が早逝されているから、そういう一般的な常識がおわかりにならないでしょう? 私を本当の母親だと思って頼ってくださっていいのよ。ね、何でも訊いて頂戴ね。

 ケーキ、おいしいわ。

 さっそく、相談? ええ、どうぞ。毎日、夜中に目が覚めてしまうのに悩んでいらっしゃるの。そんなの妊娠中は仕方ありませんよ、どうしたってトイレも近くなりますし、眠りも浅くなりますから。そういうことじゃないって? ベッドの傍らであの子がじっと見ていて……あらあら。愛されているのねぇ……無言でお腹をべたべた触られる……まあ、男の人だって、生まれる前の我が子の存在を感じてみたいときがあるのでしょう……それを一時間も、二時間も……私の夫もよく、お腹の中にいる息子に話しかけていました。ちっともおかしいことではありませんよ。気味が悪いだなんてそんな……返事をする? 赤ん坊が? 何と? 覚えてない? ……そう。いえ、それは、それは貴女、今は、胎児だって返事くらいする時代なのかもしれませんね。きっとそうですよ。

 

 ……今日は急にお招きしてごめんなさいね。電車を乗り継いで遠かったでしょう。でもね、どうしても、貴女と二人きりでお会いしたかったの。ほら、いつもは、うちの子が貴女にべったりでしょう。ふふ。そうじゃないの。子供の頃、そうね、小学校にあがった辺りからああいう性格なの……。低学年のときはとくにひどくって、お母さん、お母さん、って私のあとをついて回って離れてくれなくってねえ。学校にも行きたがらなくって困りまして、毎朝教室まで送り届けていたのが昨日のことのように思い出されます。あの子の子育てはものすごく大変だったけれど、同時に、可愛くって仕方なかったものです。母親と息子とはとくべつな絆で結ばれていますから。ああ……懐かしい。まあ、今は、貴女とお腹の子に夢中なのでしょうけど。


 あれから私がそちらの家に行かなくなったから、ずいぶんと不便だったのではないですか? 大丈夫でしたか? ほら、通院とか。せっかく定期健診もいつも同行してあげていたのに、息子が「母さんはもう来なくていいから」だなんて……ねえ、私、驚いてしまって、あの子ったら急に厳しい物言いをするから、それに、久々に見るあの子の怒った目が恐ろしくって……私、つい言いなりになってしまったのだけど、この家に一人でいるとあれこれ考えてしまいましてね。たとえ嫌がられても、やっぱりそちらに通ったほうが良かったのではないかしらとか、あの子は何を考えているのかしらとか……色々と……そう、一人でいると考えてしまうのですよ……。

 ねえ、あれってあの子の本心だったと思いますか? その、貴女が何か言ったりしましたか? いえ、別に怒ってなんか、いないのですけど。ただ、ほら、私は母親として貴女の先輩なわけだし、女同士でしか理解し合えないこともありますからねぇ。そうでしょう? そう思いますよねぇ?

 ……まさか貴女達、あのときのことを気にしているの? 切迫流産するかもしれないって、貴女が電話をくれて、私が駆けつけたときのこと。そんな、私がわざと救急車を呼ばなかったって? まさか。違います。そう、普通あれくらいで救急車なんか呼ばないでしょう。そんな非常識ことできっこないって、それだけですよ。だから、あの子が帰ってくるまで付き添ってあげたじゃないですか。それなのに、しなくていいと言ったのに、わざわざ仕事中のあの子に電話をするなんて……。結局、赤ちゃんは何ともなかったのだからいいじゃありませんか。いまさらああだこうだ言ったって仕方ないでしょう。ああ、私はほんとうに心から、良かれと思って。ほんとうですよ!


 もうこの話はやめにしましょう。そんなことより、飛行機が大嫌いなあの子が出張だなんて珍しいけれど、何か心境の変化でもあったのかしら。体調不良になった同僚の代打で、仕方なく。どうりで。いえ、だって貴女を留守番させて三日間も家を空けるだなんて、過保護なあの子らしくないですもの。しかもこんなご時世に。切迫流産せずに済んだというのに、あの日から、私のことを鬼か何かだと思っているのですよ。ふふ。そう、だから、貴女を呼んだのです。あの子が居ないうちに。

 ……ハーブティー、飲まないのですか?

 え? 赤ちゃんの名前? いやだ、私の意見なんて訊かなくったって、貴女達の赤ちゃんなのだから自由に命名したら良いじゃありませんか。え? 本当はもう決まっている? ……へえ。ああ、言わなくて結構ですよ。生まれてからのお楽しみにしておきますから。


 赤ん坊は、男の子でしたね。

 あの子に似るかもしれませんね。


 私の息子、生まれたときは、大きい赤ちゃんでした。3600グラム。頬がふっくらして、新生児室で一番可愛い赤ちゃんでした。あの赤ちゃん、今でも思い出せます……ああ、懐かしい……。とっても元気で、寝返りもはいずりも早くって、歩き始めてからはあっちへふらふら、こっちへふらふら、見張っているのが大変でしたよ。外食するときは夫と交代しながら順番に抱っこして、ちっともゆっくり食べられませんでした。夫はあの時代の男の人にしては育児に協力的でした。あの子も、そうなるかしらね。

 ぎゃっ、なに、エコー写真? いきなりそんなもの、急に見せないでっ。ああもう気持ち悪いっ!

 ……いやだわ、私、取り乱して、ごめんなさい。ふふ。最近のエコー写真ってすごく鮮明に写るのねぇ。なんだか、もうすっかり大人の顔に見えません? 赤ちゃんらしくない気が。今ってこんなものなのかしら……。


 ああ、そうです、そうです、我が家のアルバムを見せてあげましょう。息子の写真をまだ見せていなかったですものね。


 これ。幼稚園の運動会。かけっこで一等賞をとったときの写真。可愛いでしょう。これは砂場で泥んこになったとき、これは幼稚園で喧嘩して帰ってきた日。ふふ。今の大人しいあの子からは想像もつかないでしょう? 一緒にくっついて写っている女の子は、隣のおうちに住んでいた香奈ちゃん。とっても仲が良くって、もしかしたら将来は結婚して幼馴染夫婦になるんじゃないかしらって、夫やお隣のご夫婦と話していたのですよ。香奈ちゃん……。小学校にあがる前に我が家がこちらに引っ越して、親交は途切れてしまいましたがねえ。


 ああ、この家? 私の夫の実家ですよ。夫の実家は■■地方の農家で、近場の山を持っていたのだけれど、まあ、所有しているだけ損な山ですよ。土地は義両親が亡くなったときにすべて上の兄弟が相続したと聞きましたし、そもそも、夫が亡くなってからは連絡も取っておりません。もう縁のない場所です。そうそう、念のため言っておきますけれど、私は、貴女達に遺せる財産なんてありませんからね。くれぐれも期待しないでくださいね。

 ……お義兄さん達は、遺産相続でさぞ潤ったようです。しかし義両親は、夫が生きていようと、何も遺すつもりはなかったでしょうね。私を嫌っていましたから。私も、あの地域独特の閉鎖的な雰囲気にはついぞ馴染めなくって、心底嫌いでした。私は都会育ちですから田舎という場所自体が苦手なのです。夜になると都会では考えられないくらいに真っ暗になるでしょう? 虫も動物も、よくわからないものもうろちょろしているし。あと、人間が図々しいのも嫌でした。訊いてもいないことをぺらぺらと喋りますし、方言で聞き取れもしませんし、それに、土地の決まりというものを何より大切にして臨機応変さに欠けています。ああいう人種とはとことん気が合いませんねぇ。貴女がこの辺のお生まれでほんとうに良かったわ。


 でも息子はねえ、私と違って、夫に似たのか田舎が好きだったようです。ことあるたびに義両親の家に行きたがりまして、私はあんな山奥に泊まりたくなかったけれど、仕方なく、月に一度は足を運んでいました。滅多に顔を出さない貴女達とは大違いでしょう? いいのですよ。私だって、しょっちゅう来て欲しいわけじゃありませんから。自分が嫌だったことは人にさせるものじゃないでしょう。


 あの頃は山もよく手入れされていて、春には山菜を採りに入ったり、夏には昆虫採集に登ったりしました。夫は実家に帰ると、いつもお義父さんや親戚とお酒を飲み過ぎて、大抵二日酔いでしたから、山には私と息子の二人で行くことが殆どでした。

 あらかじめ木の幹に蜜を塗っておいて、そこに集まったカブトムシやクワガタなんかを狙って朝一番に行くわけです。全部は持って帰れませんから、数匹を選ぶように言いつけて、私は少し離れた場所で休んでいました。私は虫が大の苦手でしたが、子供のためならば我慢できました。

 しばらく経って、息子の居る方向に目を遣ると、いつの間にか子供がもう一人増えていました。私有地とはいえ山にはみんな勝手に入りますから、近所の子供が虫を捕りに来たのだろうとたいして気にも留めず、座ったまま眺めていましたら、妙な点に気がつきました。着ている衣服が、息子とまったく同じなのです。そりゃあ、そういうこともあるかもしれないけれど、都会の百貨店のキッズブランドで揃えた洋服を、こんな田舎の子どもが着るかしらと不思議に思いまして。

 興味を持ってまじまじと見ていたら、身長もほとんど同じだし、体型も似ています。へえ、と思って、似た子供同士遊ぶかしらと眺めていても、お互いにまったく興味を示しません。二人とも虫に夢中なのですね。それで可笑しくなって、私は息子を呼びました。

 すると、とも振り返ったのです。また一人増えている。しかも名前まで一緒だなんて、こんな偶然があるのかと驚いていると、虫籠を持った子供達が声を揃えて「お母さん」と笑うのです。それが、とも。「あら、増えたわね」と呑気に考えている自分と、一人以外は他人なわけで「どれが息子かしら」と戸惑う自分とで、まるでこっちまで分裂してしまった気分でした。返事が出来ずに突っ立って居たら、とも変な顔をして、また虫捕りに戻ってゆきました。それで安心したような気持ちになって、私はこっそり、その子達を比較しました。顔立ちはそっくりですが、どことなくみんな違っている。表情の作り方や、仕草の癖が。それなのに、どれが自分の息子なのか区別がつかないなんて、そんなこと有り得ないでしょう。でも本当にわからなくて、困ってしまいました。

 迷っているうちに、そろそろ山を下りなければならない時間になり、私は大変焦りました。あの地域は、山に入れる時間が殊更厳しく決められておりまして、夜間はもちろんいけませんし、日中も、細かく制限がありました。とにかくこういったしきたりが山ほどありまして、初めは覚えるだけで精一杯だったのですが、もし破るとどうなるかと言いますと、義父に全裸で折檻された上、一日蔵に閉じこめられ、朝まで飲まず食わず。掟の前では人権なんて無いに等しい土地でした。私が田舎を毛嫌いする理由を、わかっていただけるでしょう?


 またあんな目には遭いたくないわと思って、私はもう一度、息子の名前を呼びました。そうしたら今度は「まだ帰りたくない」と口々に駄々をこね、でも時間がありませんから、何度も何度も呼びましたら、カブトムシに夢中で背を向けたままの子供らのうち、たった一人だけが振り返りました。それで、その子を連れ帰って来たのです。

 そのときの子供が今の息子、つまり貴女の夫です。アルバムの写真が数年途切れているのは、察しのいい貴女ならわかっているかもしれないけれど、そのう……実は、別人だったからなのです。私は間違った子供を息子にしてしまったのです。気づいたのは、帰宅して数週間経って、アルバムの写真を見比べたときでした。ほんの、ほんの、僅かな違いですよ。母親しかわからないような。夫も、私の両親も、幼稚園の先生も、香奈ちゃんも、お隣のご夫婦も、誰も気づかないのですから、これはもうこの子を息子として育てるしかないと覚悟して、今日に至るのです。

 それに、いまさら別人だとわかったからって息子の姿をした子供を山に帰すわけにもいかないでしょう。貴女も人の親になるのだから、わかってくれるでしょう?


 夫にはとても言えませんでした。それからのあの子は、私の心を読んだように、いやに「お母さん、お母さん」と私にひっついて回るようになりましたから、どこかで、私に捨てられやしないかと恐れているのだと思うと、不憫で不憫で、一層可愛く思えました。

もちろん、最初の息子のことも忘れてはいません。今度山に行ったときに探してみようかしらと思いましたが、あの子が急に田舎嫌いになったり、その、色々とごたごたがあったもので、結局あれきり、山には行っていません。


 まあ、居なくなった人間のことは置いておいて、それより、どうしてこの話を貴女に打ち明けたと思いますか。

 わかりませんか。

 そうですね、急にこんな話をされても、信じられないでしょうね……。ごめんなさいね。でも私は真実を貴方に話しておく必要がありました。恐らくあの子は勘づいていますよ。絶対に、私と貴女を二人きりにさせないためにずいぶんと注意を払っていましたからね。今日は、待ちに待った、ようやく訪れた機会だったのです。本当は貴女が身籠る前に、いいえ、結婚する前に伝えるべきだったのですけれど……。

 ……そうですね、本気で伝えようと思ったら、幾らでも手段はあったはずなのです。ええ。私も心のどこかで、貴女に話すのが怖かったのです。しかし、もう迷っている時間はありません。伝えなくては。あら、電話ね? 貴女かしら? …………。えっ、あの子、もう家に帰ってきているの? こっちに向かっているって? そんな、大変だわ。ゆっくりしている場合ではなくなってしまいました。やっぱり、あの子はお見通しなのですね。ええ、一息に言ってしまいます。あの子は、私の息子ではありません。人間でもありません。あの山にいた人の皮を被った何らかわからないものです。

 その証拠に、あの子は四歳のときに香奈ちゃんを殺してしまって、いえ、事故ということになっていますが、あまり人間というものが……生物の仕組みがわかっていないといいますか、ええ、その後も動物や小さな子供を虐めて、女性に乱暴したことも数知れず……悪意はないのです。それはたしかなのです。ですから痛めつけるわけではなくて、体の構造や、神経の反応や、感情の動きなんかを真似するために、調べていたら、いじりすぎて……そういうことがある度に多額の金額を支払いましたから、私達の貯金なんかあっという間に尽きてしまいました。次にしでかしたら刑務所に入れるべきだと主張した夫を自殺に見せかけて殺したとき、初めてあの子の明確な殺意を目の当たりにしました。私はもう恐ろしくて恐ろしくて、あの子に全面的に味方をすると誓って、こうして生きているのです。ああ、ごめんなさい、ごめんなさい。貴女があの子と結婚してくれて、本当に安心したのです、私を解放してくれてありがとう、本当にありがとう。もうあの子の犠牲になった方々やその家族に頭を下げるのも、行方不明者や、遺体発見のニュースにいちいち怯えるのも、もう疲れてしまいました。いつか『母親』という生き物に興味を持ちやしないかと考えると夜も眠れず、たまにベッドの傍らであの子に数時間も見下ろされていると生きた心地がしませんでした。このままずっと黙っていようかと思ったけれど、でも、元はといえば私が選択を間違えたのが悪いのだから、悪いのは全部私なのだから、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 ……………………。

 …………貴女だってほんとうは、おかしいと気づいているのでしょう。貴女のお腹にいるのは…………。

 ……あっ、車のエンジン音。貴女、どうしてハーブティーを飲んでいないの。早く。これを飲めば、まだ間に合います。ほら、飲んで。ああっ玄関が開いたわ! どうして迷っているの。えっ? こんなこと急に選べないですって? そうでしょう! それが私の身に起こったことなのですよ!

 早く! 


 生まれてくる前に殺してしまうか、私と同じように化け物の母親として一生を捧げるのか!

 

 さあ、選びなさい!

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