食べられちゃっても痛くないほど

白里りこ

食べられちゃっても痛くないほど


 小さい頃から僕は何となく虚無感を抱えて生きていた。

 僕の居場所はここじゃないという気持ちが、どうしようもなく胸に迫ることがあるのだ。

 自分でも変なことだと思うけれど、どうにも止められない。


 そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、シングルマザーの母は僕に冷たかった。僕が目覚める前に仕事に出かけ、眠った後に帰ってくるので、顔を合わせることもほとんどない。撫でられたり、抱きしめられたりしたこともない。ご飯代だけがテーブルに置いてあるので、僕はコンビニ飯を買って食い繋いでいる。


 級友はそんな僕を、憐れんで距離を取るか、馬鹿にして嘲るかのどちらかだった。親しい友達はいなかった。学校では僕は誰とも会話せずに、授業だけ受けて帰ってくる。そういう孤独な毎日である。


 でも、そんな僕の境遇とは無関係に、空虚な気持ちが僕の胸を襲う。

 何かが足りない。何だか寂しい。何か、大切なことを忘れている気がする。とっても、とっても大切なことを……。


 そんな思いを抱えて一人で布団の中に潜っていると、このまま闇に溶けて消えてしまいそうな気分になる。


 それでも生きない訳にはいかないから、僕はいつも、寝て食べて勉強して、毎日をやり過ごす。


 小学四年生の夏休みのこと、僕はあまりにも暇で、暑い中を散歩に出ていた。そして何故か、導かれるようにして、近所のボロく小さく寂れた神社の石段を登っていた。

 ちょうどその時、あのどうしようもない虚無感が胸を覆って、僕は束の間目を瞑った。そして再び目を開け、階段を登りきった。


 そこには珍しく人がいた。

 紺色の和服を着たお姉さん。白い襷で袖を縛っている。黒いストレートの髪をうなじ辺りで結んでいて、耳には銀色の大きなイヤリングをしていた。竹箒を手にしていたが、ぼーっと突っ立っていて掃除をしている様子はない。

 彼女は突如としてぐるんと首を回して、真っ赤な瞳で僕の方を見た。


「おや、少年。何をしているのかな」


 僕の心臓は跳ね上がった。

 さっきまで感じていた虚しい寂しさは、きれいさっぱり消し飛んでいた。


「あの、散歩を」


 僕が言うと、お姉さんはにやっと悪戯っぽく笑った。


「そうか。子どもがのびのびと過ごすのは大変よろしい」

「……」


 僕は立ち尽くしていた。

 ああ、この人だ、という思いが電撃的に脳裏を駆け巡った。

 僕を謎の孤独感から救い出してくれるのはこの人だ。


 僕にはもう、自分が不思議なことに巻き込まれていることが分かりきっていた。

 この神社にこんな掃除係がいるはずがないし、彼女が僕を見た時の仕草は少し怖くなるくらい奇妙な雰囲気だったし、何より赤い瞳の人間なんて見たことがない。

 だからこそ、僕の期待は高まっていた。


 よく見るとお姉さんはとても魅力的だった。女の子のタイプとして僕の趣味に合うかどうかとか、そんな次元は超越した、圧倒的な、否が応にも惹きつけられるような魅力を放っていた。僕ははっきりと意識していた──僕はこのお姉さんのことが好きだ。もっとこの人のことを知りたい。


「どうした、参拝しないのか」


 お姉さんは箒を一つ掃いて言った。

 

「あ……あの、あなたは誰ですか」


 僕は尋ねた。お姉さんは片方の手を腰に当てた。


「ここの神様の眷属だよ」

「ケンゾク?」

「神様の使者っていうところかな」

「……人間?」

「違うよ」

「……」


 僕は後ずさることもせず、お姉さんの立ち姿に見惚れていた。

 すらりとした体躯。白い肌。すっと通った鼻筋。切れ長の目元。神々しい雰囲気とは裏腹な、気さくな振る舞い。


「逃げないんだね」


 お姉さんは言った。


「……はい」

「私は人間じゃないから、人間のことを頭からばりばりと食べてしまうよ。それでもいいのかな?」

「……」


 不思議と、怖くはなかった。ああそうなのか、と思うだけだった。


「食べられたらどうなりますか」


 僕が聞くと、お姉さんは笑みを深めた。


「知りたいなら、食べられてみるしかないな」

「……そうですか……」

「君は、食べられたいのかい?」

「……よく、分かりません」

「ほう。珍しいことを言う」


 お姉さんは興味深そうに僕のことを見つめた。

 真紅の瞳に吸い込まれそうな気がした。しばらくそうして見つめ合っていると、お姉さんはふっと目を細めた。

 そして言った。


「君は稀人マレビトだね」

「マレビト?」

「神の世界から人間の世界にやってきたもののことだよ。君の魂の形は神のそれだ。何か訳があって人の子に取り憑き、生を受けたのだろう」

「……そのせいで、僕はいつも寂しいんですか」

「そうかもね」


 お姉さんはまた、意味深ににやりと笑った。


「稀人なら話は別だ。それも君という人ならば大歓迎だよ。私に肉体を食べられても、君の魂は私の中で生き続けることができるだろう」

「えっ……」

「ま、それは君という人間の死を意味するからね。食われるか逃げるか、好きにすればいい。私はどちらでも構わないよ」

「……」


 僕は俯いた。


「……決められません」

「そうか。まあ、焦ることもない。考える時間をあげよう。一旦帰るといい」

「……それは……また会えるってことですか」


 お姉さんは頷いて、小さな本堂の方を指差した。


「賽銭箱の裏にある幣束へいそくを拾っておいで。紙垂しでのついた細い棒を。それを持っていれば、君はまたここに入れるよ」


 ここ、というのは、神様の眷属がいる空間のことだと、察しがついた。きっとふつうに神社に行っただけではこの人に会えないのだ。

 僕はこくんと頷いて、スニーカーを脱いで本堂に上がり、賽銭箱の裏を見た。確かにそこには、木の棒が落ちていた。その先には、お祭りの時によく注連縄しめなわにぶら下がっているような、白い紙が二つついている。棒を持ち上げると、紙が揺れてさらさらと鳴った。

 幣束を拾った僕が靴を履き直してお姉さんの元まで駆け戻ると、お姉さんは頷いた。


「いい子だ。また来たくなったら、それを持って一人で来るんだよ」

「……はい」


 あとは多くを語られなくても分かった。

 また会いたかったら、食べられることを覚悟の上で、これを持っていく。食べられたくなければ、これを持って神社に踏み行ってはいけない。そういうことだ。

 僕はぺこりとお辞儀をして、ちょっと名残惜しくお姉さんを見上げた。お姉さんは箒にもたれかかって僕に手を振っていた。


「……いつまでも待つからね」


 お姉さんは少し寂しそうに言った。何故かその言葉は僕の胸に突き刺さった。

 僕はもう一度会釈をすると、幣束を片手に、玉砂利を踏んでその場を辞し、神社の階段を降りた。


 途端に、青かった空がパッと夕焼け模様になった。

 思ったより長い時間をあの空間で過ごしていたのだと僕は知った。

 振り返ったが、あのお姉さんの姿は忽然と消えていた。

 前に向き直り、ぼんやりとした気持ちで神社の階段を降りた。家に帰り、幣束をそっと机にしまって鍵をかけた。


 その晩は一睡もできなかった。ぐるぐると色んな考えが頭を巡った。


 人間界に未練はそれなりにある。母は冷たいなりに僕を産んで養育費を出してくれたし、学校の先生だって他の生徒と分け隔てなく僕に接してくれる。だから……いくら一目惚れしたからって、全て捨てていくには申し訳ないという気持ちがあった。

 布団でごろごろ寝返りを打っていると、母が帰ってきた。

 僕は起き出して相談しようかと思ったが、……やめておくことにした。

 こんな荒唐無稽なこと、誰に言っても信じてもらえないだろうし、自分が死ぬ話なんていうのはどう切り出していいのかも分からなかった。

 何より怖いのは、真相を話した時の母の反応だった。食べられに行くことを止められなかったら悲しすぎるけれど、止められるのも嫌だ。……嫌なのだ。人間界に残る理由ができてしまうのが怖いのだ。

 僕はもうそれほどに、あのお姉さんに惚れ込んでいた。会ったばかりの、名も知らぬ彼女に。


 そう、正直、食べられちゃいたいという思いが強かった。


 あのお姉さんの中で魂だけ残って生き続けるというのは、とても素敵な提案だった。それが一体どんな状態なのか具体的には想像がつかないにしろ、ずっと一緒にいられるのは幸せそうなことだった。

 あのお姉さんは僕を待っていて、僕のことを食べたいと思っている。そのこと一つ取っても僕には嬉しいことだった。僕を必要としてくれる存在がある、それを考えるだけで天にも昇る心地になるのだ。


 食べられちゃうのは痛いかも知れないが、そんなのは気にならなかった。目に入れても痛くない、なんて表現があるが、僕にとっては、あのお姉さんになら食べられても痛くないだろう。


 一度会っただけなのにもうこんなにも好きだ。一目惚れという言葉では説明しきれない、巨大な感情が僕を支配している。


 結局僕は、母に黙ったまま、朝を迎えた。母が無言で仕事の支度をして出て行く音を聞きながら、少しだけ申し訳ない気持ちがしていた。

 僕の覚悟は決まっていた。 


 今日、僕は、誰にも何も言わないまま、あのお姉さんに食べられちゃうのだ。


 ふふっと僕は笑った。

 まさかこの人生でこんな素晴らしい結末を迎えられるなんて思ってもみなかった。ぽっかりと心に空いた穴が塞がれて、満たされた心持ちがしていた。

 何せ、僕はこれから、独りではなくなるのだ。


 僕は着替えと洗面を済ませると、幣束を大事に持って、神社に向かった。暑い日差しの中、階段を登る。最上段まで登ると、辺りはサッと涼しくなった。快適な気候で、半袖では少し寒いくらいだ。


 お姉さんは昨日と同じ格好で、古びた本堂の縁側に座って、足をぶらぶらさせていた。


「おや」

 お姉さんは言った。

「もう来たんだね」

「はい。食べられに来ました」

「潔くてよろしい。私も嬉しいよ。また君と会うことができて」


 お姉さんは縁側からぴょんと飛び降りて僕に歩み寄ると、僕の肩を掴んで屈み込み、おでこ同士をこつんとぶつけた。お姉さんのおでこは冷たかった。僕はさすがにびくっとした。

「大丈夫。悪いようにはしないから」

 お姉さんは優しく言った。

「君が来るのをずっと待っていたよ。何十年も前から……」

「……どういうことですか」

「それは、食べられてみてからのお楽しみ」


 お姉さんはおでこを離した。僕はその顔をじっと見上げていた。お姉さんの顔はぷくうっと風船のように膨れ上がった。それを見ても、僕は、恐ろしいとも醜いとも思わなかった。ただ、ほのかな高揚感に包まれていた。

 お姉さんの大きく裂けた口が僕の頭を包み込み、鋭い歯が僕こめかみをとらえた。めりめりと頭に歯が食い込んでいく。じきに目の前が真っ暗になった。ばりばりと頭蓋が噛み砕かれる音が聞こえた気がしたが、しばらくすると何も聞こえなくなった。僕の意識はぷつりと途切れた。


 気がついたら僕は体を失って、暗闇の中をふわふわとたゆたっていた。


「やあ」


 お姉さんの魂らしきものが話しかけてきた。姿こそ見えないが、気配は感じ取れたので、僕は声のする方へ漂って行った。


「来てくれてありがとう、私の愛しい子」


 そう言われた瞬間、僕は、稀人になる前の、神様だった頃の記憶を全て取り戻した。


 僕はもともとこの神社の主祭神で、この名もなき眷属と恋仲にあった。

 神の世界では眷属と恋仲になることは御法度だった。僕たちは誰にもその仲を悟られぬよう、密かに関係を育んでいた。誰にも言うことなく、ひっそりと静かに。

 僕は幼い神様だったから、姉御肌の彼女に幾度となく世話を焼いてもらったり、救われたりしていた。敬語を抜きにして気さくに話しかけてくれることも、僕にとっては安心感のあることだった。だからずっとこの関係を続けることで、僕たちは僕たちの世界を守りたかった。

 でも全てを隠し切ることは困難だった。ある時、僕たちが思い合っていることが、他の神々に知られてしまった。

 僕は彼女を庇って、僕自身が神の世界から追放されることを選んだ。そして行く当てもなくふらふらと人間界を渡り歩いて、神社の近くに住む僕という人間の赤ん坊に憑依した。

 人間でいる間は記憶を失っていた。ただ、漠然とした喪失感だけを抱えて生きていた。そして今、その正体が分かった。

 僕はお姉さんのことをずっと探していたのだ。


「君はもう正式な神様ではないから、私が食べちゃっても問題ないよね」

 彼女は言った。

「うん。問題ないよ」

 僕は答えた。

「これでずっと一緒という訳だね」

「そうだね」


 僕はくつくつと笑った。

 元神様が元眷属に食われるなんて、前代未聞だろう。


 僕たちの魂は、主人なき眷属のお姉さんという器の中で、ぴったりと寄り添った。もう離れることはない。周囲に関係が知られることもない。


 ここで僕たちが再び恋を始めることは、誰にも知られない秘密。


 最高に幸福で、おまけに愉快な気分だ。


 こうして僕たちは末永く幸せに暮らすことになった。




おわり

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