私の爆弾

帳 華乃

私の爆弾

 殆どの座席が塞がった電車内。時刻は午後二十時。都心という程は栄えていないが田舎というには人が多すぎる街から、私は自宅最寄り駅まで乗り継ぐ。とうに日は暮れ、車内の様子が窓ガラスに反射している。電灯の明かりが、写った人の頭部や胴体に重なった。まるでレーザーポインターが照射されているかのようだ。

 今の私は、仕事の為に生きている。けたたましいアラームに起こされ、身だしなみを整えたらすぐに家を出る。朝食は通勤途中にコンビニエンスストアで買う。給料日前は節約のために摂らない。

 働かなくても満足に暮らせたら、汗と香水の混ざった酸っぱい臭いを朝夕と嗅がなくて済むのに。満員電車で他人の体臭を避けることはほぼ不可能だ。事務所の暖房が効きすぎて汗をかいてしまったから、私もその不快な臭いのひとつになる恐れがある。そうはならないように念の為、制汗剤を大量に吹きかけてきた。効果があるのかは不明だけれど。

 女性専用車両があれば、少しは密度が下がるだろうに。性犯罪者と遭遇するリスクも避けられるのに。しかしこの半端な田舎に女性専用車両なんてない。性犯罪は多発しているが、鉄道会社も赤字続きというから仕方ない。公共交通機関でなくても夜道は危険と隣り合わせだ。この街は性犯罪のみならず、暴行事件も少なくない。反社会的勢力の支部があると、まことしやかに噂されているくらいに。

 男性女性問わず、この世は危険に満ち溢れている。文化的な生活を平穏に過ごしたいだけなのに、ビクビクしなくてはならないなんて、ナンセンスだ。

 窓ガラスにつり革を握った私が映っている。二十一歳のハイライトのない目が私を睨み返した。


「間もなく○○駅に到着致します。降り口は左側です。この電車は、三分遅れで運行しております。電車が遅れましてご迷惑をおかけしております。申し訳ございません」

 神経質すぎるほど時間通りに目的地に着くこの鉄の箱では、たった三分遅れただけで「申し訳ございません」とアナウンスが流れる。神経質な社会だ。余裕のない現代に感化されきった私には視界の誰もがクレーマーに見えていて、だから急いで電車を降りる。ホームから改札口まで、一度も足を止めずに。

 理不尽な出来事は回避したい。優先席からよろよろと立ち上がろうとしている老婦人が、突然杖を振り回すかもしれない。ホームに降り立った会社員風の男が駅員の胸ぐらを掴み怒鳴り散らしたって、意外ではない。人間の感情は、火山に似ている。活火山か休火山といった程度の違いしかないのだ。

 八つ当たりをする為にこじつけの言葉で殴り掛かる人だって中にはいるだろう。この車両に充満する人々の疲労感。乗客の無表情。とっくにストレスが限界を超えた人達が平気そうな顔をしているだけなのだと、いつからか気づいてしまった。声色の些細な変化にも気づくようになった。上司に「空気が読める子」と揶揄された時、不気味だと言われた気分になった。


 大手運送企業のコールセンターに勤める派遣社員。クレームへの電話応対が主な職務だと面接時に説明されたが、何故か伝票情報の整理もしている。長期休暇になると利用者も増えるため、残業する羽目になるのだ。それも、サービス残業。このブラック企業とは、残り約一ヶ月の契約だ。きっと再契約にもならないだろう。正社員に昇格なんてもっと有り得ない。何故なら私を安く雇わなくてはならないくらい、羽振りの悪い会社だからだ。黒字になりさえすれば、あとは誰が生活に困ろうと気にしない。利益至上主義。社長や会長は毎年グアム旅行に行くらしいけれど、殆どの社員はゴールデンウィークすら関係がない。汗水垂らして荷物を運んだり、放送コードにすら引っかかる罵倒を聞き続ける。お金の為に。


 他人が何を考えているのかわかるはずが無い。だから常に心が緊迫していると仮定する。誰しも目を背けたくなるような暗い思想を抱えていて、それが今暴走するかもしれないのだと。……私は、クレーム対応に疲れてしまっているのかもしれない。悪意が如何に日常的で慢性的かを知ってしまった。知らなくても、いい事だった。

 私も、心に爆弾を抱えているのだろう。だから爆発するまでのカウントから意識を背けるために、目に映る誰かが爆発するのを想像してしまう。心の爆発について毎日常に考え続けていれば顔すら爆弾に見えるかもしれないけれど、残念ながらそんな暇はないから電車から降りる。黄色い線を踏みにじり、人もまばらなエスカレーターで運ばれ、改札も早足で通り抜ける。

 今日は散々な目にあった。通勤時にストッキングが伝線した。靴擦れで踵の部分が破れ、皮膚も擦れて皮が剥けていた。不機嫌な正社員に仕事を押し付けられ、昨日より三十分多く残業した。暖房のせいで汗をかき、電車内で安心するためだけに安物の制汗剤を浪費した。小さな不幸せ。

 明日、事務所で私の爆弾が爆発するのを想像する。いくつかのデスクが吹き飛んで、いくつかの書類が燃え、ゴミクズになる。ざまあみろ。だけどそんな未来は空想するだけに留める。私は優しさを持ち合わせていて、尚且つ自分を労わる事ができるから、家に帰ったら踵の絆創膏を張り替えなくてはならないのだ。

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