初恋はオルゴールの調べ

いずも

春の歌のように

 私は恋をしている。誰にも言えない秘密の相手。

 絶対に叶うことのない恋だ。


 相手は画面の向こう側――なんて話じゃない。

 ちゃんと実在している。

 それは確かだけど、生きているかはわからない。それに、もし生きていたとしても……この恋は実らない。

「私の好きな人。名前も知らないけどね」

 その恋は終わっている。始まってすらいないのに。



 お盆と正月の年二回、田舎のおじいちゃんのところに親戚一同で帰省するのが我が家の習わしだ。車で二時間半の毎年恒例行事。私は何よりも楽しみだった。

 昔から家に着いたらまず仏間に行って線香をあげる子どもだった。祖父母はもちろん、親戚のおじさんからも「ご先祖思いのいい子だね」と褒められた。


 正直なところ、仏間はちょっと怖い。線香の匂いは普段嗅ぐことのない異世界に迷い込んだ気分にさせられるし、長押なげしに掛かっているご先祖様の遺影は見た瞬間に目が動くんじゃないかと思うとちゃんと見れない。それに座布団の上とはいえ、ずっと正座していると疲れてしまうからすぐに足を崩してしまう。


 そんなだらしない行動を叱られそうで、仏壇に手を合わせてからもすぐに顔をそむけて遺影に背を向けてしまう。すると右側の戸棚に自ずと視線が向かうのだけれど、戸棚の上には一枚の大きな集合写真が飾られていた。

 個々の遺影と同じくらい昔の写真で、おそらく昭和初期、戦前の写真だ。

 よくある仏頂面の家族写真で、何でもっと和やかに笑顔で写ったものがないんだろうとずっと疑問に思っていた。けれど多くは戦争に行く前に撮られたものだと知ってからは、お国のために死ぬ覚悟を決めた決意の表情なのだと納得した。


 その写真を眺めていると子どもはみんな丸刈りだなとか、どことなくおじいちゃんやお父さんに似ているなとか、そんな感想がまず浮かぶ。

 その中で一人だけ、他の子どもより年が離れた今で言えば高校生から大学生くらいだと思う、少なくとも私よりは年上であろうその人が目に飛び込んできた途端、ぎゅっと心臓を掴まれた気がした。

 いつもならこっちを見ている気がして怖いとすら思うそんな写真を、目を逸らしたくなくて、まばたきも忘れてただじっと見つめていた。

 一人だけオーラが違った。お父さんも親戚のおじさんも、何ならちゃんと見てない遺影のご先祖様もみんな格好良いと思ったことは一度もないけど、そのお兄さんだけは見た瞬間に格好良いと思った。一目惚れっていうのはこういうことなんだ。


 それ以来、私はいつも真っ先に仏間に向かい線香をあげる。

 みんなは私を「ご先祖思いのいい子だね」と褒めてくれる。

 本当のことは誰にも言えない。



 とはいえ中学生にもなると思春期特有の気恥ずかしさが勝って、部活が忙しいだの友達と出かける予定があるなどと、なんだかんだと理由をつけて疎遠になっていった。

 それでも、曾祖ひいじいちゃんの何回忌だかで親戚が集まることになり、季節外れの春の日に私も久しぶりにおじいちゃんの家を訪れた。

 法事に合わせて朝早くから起こされたので、まだ眠たい。


しずちゃんは真っ先にご先祖様に挨拶してくれるから、きっと喜んでくれとるよ」

 仏壇に手を合わせていると、襖を開けておばあちゃんが入ってきた。

 私は静香しずかだからみんなからはしずちゃんと呼ばれている。

 仏飯ぶっぱんの交換に来たみたいだから立ち去ろうといつものように体を動かすと、戸棚の写真の位置に見慣れない箱が置いてあるのに気付いた。


「ねえ、おばあちゃん。この箱は何?」

「それはね、お義母さん――静ちゃんの曾祖ひいばあちゃんの宝物。蔵を整理してたら出てきたの。オルゴールだよ」

「へぇ、今でも鳴るのかな」

「多分ゼンマイを回したら鳴るんじゃないかねぇ。ほら、そこの集合写真に写ってるイケメンがおろうが。セイちゃんって言うんがよく聴いてたけど、この家を出る時に曾祖母ちゃんにプレゼントしたんだとさ。ほれ、この娘が曾祖母ちゃん。静ちゃんと同い年くらいかねぇ」

 私はおばあちゃんの口からイケメンなんて単語が出てきて思わず吹き出しそうになったけど、それよりもその後に押し寄せる情報の数々に処理が追いつかない。

 セイちゃん、本当の名前は清四郎せいしろうさん。私が想い続けたご先祖様の名前がいきなり判明した。


 曾祖母ちゃんは私によく似ていた。私がもっと髪を伸ばしたら瓜二つなんじゃないかってくらい。

 そしてこのオルゴールはおそらく戦地へ赴く兄から妹への最期のプレゼント、つまり形見のようなものだ。好きな人の好きな曲を聴いてみたい、と思うのは当然の流れだろう。


 居間から離れたこの部屋にも騒がしい声が聞こえる。それは親戚たちの笑い声かテレビの音か、どちらにしても大人の輪に加わりたくない私は法事の喧騒から離れた場所でオルゴールをちゃんと聴きたかった。

 おばあちゃんが部屋を出ていった後、古めかしいけど丁重に扱われていたであろう、両手に収まるほどの小さな宝箱を持ち出した。思ったよりも軽かった。



 県道脇には小川があって、欄干らんかんのない石橋が集落への入り口だった。滅多に人が通らないため、夏はよくサワガニを探して遊んでいた。

 手を浸すと気持ち良い水温だ。サンダルだったら小学生の頃みたいに裸足で飛び込んだのに。


 石橋に腰掛けて足をぶらつかせながら、ゆっくりと巻きネジを回す。

 最初は油の乾いた軋む音で旋律も何もあったものじゃなかったが、次第にオルゴール特有の滑らかで金属の弾かれる音がメロディーを奏でる。


 耳を近づけて神経を研ぎ澄ませてみるけど、残念ながら初めて聴く曲だ。クラシックか歌謡曲か、ジャンルもよくわからない。ただ、流行りの音楽と違って心が安らぐような、落ち着く音色。私は倍速みたいな現代ミュージックよりもこっちが好き。

 ああ、ネジを巻く時間すら楽しい。


 限界までネジを巻き、手を止める。

 ゆっくりと手を離すと、等速で紡がれるきれいな旋律。オルゴールから生み出される新たな世界。私は目を閉じて、ただただその音に耳を傾ける。川のせせらぎが少しだけ重なる。風の音。地面を駆ける靴音。遠くからサイレンのような金切り声。

 ……なんだか騒がしいな。

 ふと目を開くと、目の前に広がっていたのどかな田舎――はそのままに、そこから見える景色は一変していた。

 黒煙が上がり、遠くでは赤い炎が燃え盛っている。あれは火事だ。燃えているのはマンションみたいな……いや、あんな建物は知らない。櫓、もしくは監視塔みたいだ。

 さっきまで橋に腰掛けていたと思ったら、今は橋の上に立ち尽くしている。


 白昼夢でも見ているのだろうか。早起きの弊害へいがいがこんなところにまで及んでいる。寝起きみたいに思考が定まらないでいると、背後に人の気配を感じる。振り向こうかと考えるより早く声がする。

っちゃん、静江ちゃんでねぇか!」

「はい? 私の名前は静、か――」

 言葉を失うとはまさにこのこと。

 だって、目の前に居たのは。

「セイ、シロウさん……?」

 写真の姿そのままに、私の憧れのご先祖様が現れたのだ。



「なんだ静江ちゃん、そんな髪を短くして。ははーん、さては庄屋の坊っちゃんにフラレたなぁ。ああいうおエライさんとこには最初から許嫁いいなずけがおるもんさ、髪切って気持ちの切り替えするんはええことだな」

 女性が髪を切ったら失恋したとか昔の価値観すぎるでしょ……って、昔の人だった。むしろこの人にとってはそれが当たり前なんだ。

 そもそも静江という名前、どこかで聞いたことがあると思ったら、確か曾祖母ちゃんの名前だ。あの写真で見る限り髪を伸ばした私にそっくりだったし、間違われてもおかしくないのだろう。


「おっ、ちゃんと持っててくれとるな。俺が居なくなっても、俺と思って大事にしてくれよな」

 視線の先には私が両手で抱えるオルゴールがある。大切な、彼からの贈り物。

「うん。大事にするね」

 私は『静江』になりきってそう答えた。

 すると少しだけ清四郎さんの顔が曇ったかと思うと、意を決したかのように突然私の肩を強く掴みかかり、ぐっと顔を近づける。

「なあ、静っちゃん……いや、静江。俺と一緒に来ないか。俺は静江ちゃんが好きだ。夫婦めおとになってほしい」

「……はい?」

 上空で爆発音。花火だったらロマンチックだが、残念ながら黒煙が広がっている。お盆の時期に映像で見た空襲そのものだった。


「い、いや、でもっ、私たち兄妹なんじゃ」

「そんなの、俺があの家を出ていったらもう血の繋がりはない赤の他人だ。逃げよう、戦争が終わるまでずっと逃げて、誰も知らない場所でひっそりと二人で暮らそう」

 はい? ……えええっ!?

 まさかの愛の告白。しかも禁断の愛。

 そ、そりゃあ憧れの人だとは思うけど、いざ面と向かってこんな告白なんてされるともう何も考えられない。私は恥ずかしくなって俯いたまま時が過ぎるのを待つだけだった。何も言えないのだけど、何か言おうとしても轟音に掻き消されてしまう。


 ふっと肩が軽くなる。相変わらず清四郎さんとの距離は近いが、何故かずっと遠くにいるような感覚に陥った。遠ざかるのは、私の心か彼の心か。


「――ああ、悪い。悪かった。忘れてくれ」

 その声があまりに力なく呟かれたため、思わず顔を上げる。さっきまではっきりと見えていた彼の姿が少しずつ朧げになる。半透明になって煙みたいに少しずつ消えていく。

「待って、清四郎さん!」

 一歩近づいても何故か一歩遠ざかる。石橋を渡り切ろうとするところまで歩いて、随分とその姿が透明になっていること、その背後に広がる惨憺さんたんたる戦禍せんかが、これ以上こちら側に来てはいけないと警告しているようにも思えた。


「残念だけど、もう時間だ。そうだな、最後に一つだけお願いしてもいいか。そいつの音色をまた聴かせてくれんか。久しぶりに聴きたくなっちまった」

 オルゴールが止まる。

 世界が終わる。

 一つの恋が終わった。



 上空から響く轟音、弾幕を張るような爆撃。耳に届くのは地を割る兵器の咆哮。

 それが春雷からの春の嵐メイストームだと気付くまでに時間を要した。


 、私は橋に腰掛けていた。

 正気を取り戻したら広がるのは見慣れた景色。けれどどこか陰っている。

 雨の礫が水面に打ち付ける様子を眺めながら、私は自分の体が濡れていないことに気付いた。そこでようやく、誰かが傘を差してくれているのだと理解する。

 でも、気付いてしまったからこそ振り向くのにも勇気がいる。もしもお母さんやおばあちゃんなら無言で傘を差すなんて有り得ない。沈黙がひどく心を乱す。雨の音が空虚な心に染み込んで、濡れていないのにやけに湿っぽい。

 私はオルゴールを落とさぬようギュッと抱きかかえて、恐る恐る振り返る。


「……清四郎さん?」

 傘を差していたのは今しがた夢幻と消えたその人――ではなかった。

「は? 誰それ。俺は清志きよしって名前だけど」

 よく見たら違った。確かに顔つきはそっくりだけど写真の姿よりは少し幼く、明らかに別人だ。しかも喪服……こんな親戚、居たっけ。

「あんた、本家ほんやの人だろ。もうすぐ法要が始まるぞ」

 それだけ言うとおじいちゃんの家の方に顔を向け、私が立ち上がるのを確認したらゆっくりと歩き始める。ひやりと背中に雨が伝い、濡れまいと歩幅を合わせる。


 道中は沈黙が続いた。

 この人は何者で、私はどうしてあんなところにいて、今日は何の日で。思考はまとまらず、浮かび上がる疑問は全て雨に押し流されるみたいだった。

「春の嵐は気まぐれだから、すぐに止む」

 それが唯一彼と交わした言葉。交わしたと言っても私は無言で頷いただけの会話未満の出来事だけど。


「あらあら、静ちゃん外に出とったんか。清志君ありがとうね」

「いえ。それでは」

 私を家まで送り届けるとそのまま雨の中に消えていった。

 オルゴールを置き、脱いだ泥まみれの靴を邪魔にならないように離していると、おばあちゃんが奥からタオルをもってきてくれた。彼について尋ねた。


「ああ、今のは清志君。ほれ、朝に写真に写ってた清ちゃんの話をしたのを覚えとるけ。清志君は清ちゃんのひ孫になるんよ」

「へー……え? あんなに若いのに、もう結婚して子どもが居たの!?」

 しかも私――じゃなくて、曾祖母ちゃんにあんな駆け落ちまがいの告白までしておいて!

「ん?」

 要領を得ないと首を傾げる。

「だって戦争に行ったんでしょ。家を出る前に写真を撮ったって」

「いんや。清ちゃんは戦争には行っとらんよ」

「ん?」

 今度は私が首を傾げた。


 ことの真相はこう。

 清四郎さんは子供のいなかったうちの家に分家からやってきた養子だったのだ。しかしその後、子宝に恵まれたため元いた家に戻されることになった、という話。結局召集されることなく戦争が終わったので普通に生きて天珠を全うしたらしい。

 しかもその分家というのが同じ地区内にあるらしく、今生の別れというわけでもなかったようだ。ただ、当然だけど清四郎さんの結婚相手は曾祖母ちゃんじゃない。

 よくよく考えると長男なのに清郎なんておかしいのだけど、あの時はそんなこと気にも留めなかった。昔からの名残で本家分家と呼んでいるだけで、もうほとんど血縁関係もないのだという。

 そういえば、さっきの男の子も本家がどうとか言ってたっけ。



 そして何事もなく法要が終わった。知らない大人がいっぱいの中で彼の姿を探したれど見つからなかった。どうやら分家の人は参加していないらしい。言ってたもんね、家を出たら赤の他人だって。

 最後に墓参りをして法事はおしまいらしい。またあの濡れた靴を履くのかと思うと憂鬱になる。お墓は地区の共同墓地のような場所にあって、雨が降ると地面がぬかるんでいるのでどちらにしても泥まみれになってしまうのだけど。

 ああそうだ墓地に行くのならば、とオルゴールを抱えて家を出る。濡れているわけでもないのにやけに重たく感じる。


 お経を読んでいる間に雨は上がっていた。降っていたのは巻ネジを一捻り回した程度の刹那の時間。

 立夏の風はまだ少し冷たい。


 私は墓石に刻まれた静江の文字を眺めた後、もう一つの名前を探して辺りを見回す。それは案外近くにあった。

 私はゆっくりとオルゴールを鳴らす。スマホの着信音なんかよりも小さな音は大人たちの声にすぐに掻き消されてしまう。

 当然だけど景色が一変したり黒い雨が降ることもない。あの世界は終わったのだ。だから清四郎さんが現れることもなく――


「あ」

「え?」

 目の前には憧れだったご先祖様、ではなくて、私を送り届けた無骨な青年。


「なんだ、分家さんのとこも今日が法事だったんか」

 なんて大人たちの会話も耳に入らない。

 私は目の前の出来事に釘付けだ。


「それ」

 彼はオルゴールに視線を向ける。


「その曲、いい曲だな」

「……でしょう。私の好きな曲。曲名も知らないけどね」



 ――この恋は続くかもしれない。

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