心の自由を手に入れて

さくらみお

心の自由を手に入れて

 香織かおりはコッソリとスマホを持ち出すと、つっかけサンダルを履いて家の離れに駆け込んだ。


 香織の住む母屋は広いが、とても窮屈だ。

 なぜならば祖父母に両親、高校生の姉が二人、そして香織という七人の大家族だから。

 三姉妹は十二畳の部屋を共同で使用していて末っ子の香織にはその部屋でのプライバシーは全く無い。何かをするにも姉達の目があり、ましてや恋愛に関わる事になると目を光らせて冷やかす姉達。

 とてもじゃないが、香織はこの部屋で親友へと恋愛相談をする気にはなれなかった。


 ――かと言って、リビングはもっと無理だ。

 両親が居座わるリビングは、香織がスマホを使うのだって渋い顔をしているのに、親友と男の子の事でラインをしているなんて事実を知ったら母は「そんな事に使っているのね!」とスマホを逐一チェックし出すだろうし、父は「やっぱり香織にはスマホは早い」などと言いだすに決まっている。


 母屋の隣に立っている平屋建ての離れには『おっきいばあちゃん』が居る。


 『おっきいばあちゃん』こと春江おばあちゃんは、春香の曾祖母ひいおばあちゃん。年々背中が曲がり小柄になる春江おばあちゃん。けれど『おっきい』のは祖母よりも年上だという意味で、小さい時から呼んでいた。

 90歳になった今でも足腰も元気で、自分の事は自分で出来る。昨日だって離れの裏にある畑で祖母と一緒にナスやトマトを収穫したばかりだ。


 香織はチャイムも無い離れの引き戸を開けると「おっきいばあちゃん、入るよー!!」と声掛けをして、居間へと足を進める。

 お線香の匂いがいつも漂う居間へ入ると、座椅子に座ってテレビをぼんやりと見ていたおっきいばあちゃんが、笑顔で香織を迎えてくれた。


「ああ、香織かおちゃん。いらっしゃい」

「えへへ、ちょっとスマホさせて~」


 香織かおりがスマホを使う時は、おっきいばあちゃんの所に行くのが定番となっていた。

 離れには誰も来ないし、おっきいばあちゃんは香織のスマホの内容など、全く興味が無いからだ。

 早速、おっきいばあちゃんと対面する様にテーブルに正座すると、親友の志穂にラインを打ち始める。


 ラインの内容は香織の好きな人、神田先輩の話だ。所属する剣道部の部長である。

 神田先輩はこの夏、中体連県予選の個人戦で惜しくも4位。団体戦も準決勝で敗れ先輩たち三年生の最後の夏は終わってしまった。


 香織は敗退して落ち込んでいる神田先輩に同情し目を潤ませていると、親友の志穂に背中をど突かれた。


「いった。何よ、志穂」

「チャンスだよ」

「何が」


 香織は涙を拭い、親友に聞き返した。


「告白」


 香織は顔に熱が籠るのを感じた。真夏日の気温と市営体育館の人口密度のせいだけでは無い。

 ぶんぶんと首を横に振る。


「無理無理無理! なんで今なのよ? 先輩は敗退して落ち込んでいるんだから!」

「だからでしょ? 敗退して無気力の夏。そんな先輩を慰める香織。最高のシチュじゃん」

「だ、第一! 神田先輩には渡瀬先輩が居るし!」


 そうなのだ。神田先輩には副部長で幼馴染みの渡瀬先輩がいる。

 渡瀬先輩はスレンダーな美人で、神田先輩と並ぶと美男美女のカップルだ。

 よく『付き合っているんだろ?』と友人に冷やかされているが、渡瀬先輩は気にも留めていない様子。しかし、神田先輩の方は何か言いたげに苦笑しているのを度々見かけている。その姿から二人の間には何かしらの事情がある、と香織は確信していた。


「ここだけの情報」


 志穂が香織の耳元で囁いた。


「……渡瀬先輩、高校生の彼氏が居るんだって」

「え」

「なんと、神田先輩のお兄さん」

「え!」

「だからチャンスあるよ!」


 と、志穂は親指を立てる。

 その時「集合ー!」と渡瀬先輩の掛け声に二人の会話は途切れた。


「作戦立てよ。続きは夜ラインで!」




 ――そうして、今。


 志穂は率直に『告白するなら今だ』と言う。先輩が通う塾が学校の近くにあるため、塾終わりに告白しろと言うのだ。それに対して香織は『先輩は受験で忙しいから無理』と弱気の返事をする。しかし志穂は『高校が決まったら、あっという間に卒業しちゃうから、今が絶対に良いよ』と言う。『無理、怖い。勇気無い!』と返す香織。


 ――本当の所、分かっているのだ。

 どうせ告白しても振られると。神田先輩はなんだかんだで渡瀬先輩が好きなのだ。

 その事実を親友に言うのも辛い。


 そんな感じで、志穂と押し問答をしていると、おっきいばあちゃんはテレビからふいっとこちらに目線を向けて、尋ねてきた。


「……香織かおちゃんは、いくつになったんだっけ?」

「え?……13歳」

「じゃあ、ばあちゃんが満州まんしゅうから逃げて来た年だ」

「……満州?」


 香織かおりは首を傾げる。

 名前は何となく聞いた事がある。

 確か、中国の地名だった気がする。


「ばあちゃんはね、満州国で生まれたんだよ」

「おっきいばあちゃん、中国人だったの!?」


 日本人も中国の人も同じアジア人。

 同じ黄色人種で同じ黒髪に黒い目をしている。だから気が付かなかったのか。

 しかし香織の予想と反して、おっきいばあちゃんは首を小さく横に振った。


「違うのよ。昔の戦争で……中国の満州が日本の領地だった時があるのよ」

「そんな時があったの?」


 習っている歴史は近代史まで来ていない。

知らない知識を得た香織は、ちょっと得した気分になる。


「今の世の中しか知らない香織かおちゃんには想像つかないかもしれないけれど、ばあちゃんが子供の頃、日本はずっと戦争していたの。当時は世界中が不景気でね。日本も会社がたくさん潰れたりして、とっても不安定だった。それが原因で日本の政治家は兵隊さんを減らす対策を取ったらね、軍人さん達は怒って大暴走を始めちゃったのよ。それで中国へ侵略すれば不景気から抜け出せると思い込んだのね。中国に居た関東軍という兵隊さん達が勝手に満州の大地を中国人から奪ったの」

「……そんな国におっきいばあちゃんは居たの?」

「その頃のばあちゃんは日本の勝手な都合なんて知らなかったからね。むしろ満州国は『王道楽土おうどうらくど』と呼ばれ、日本の国民は『王道によって治められている安楽な土地』として夢を抱いて移民した日本人がたくさん居たのよ」

「王様が居たの?」

「ええ、香織かおちゃん、中国の歴史上最後の皇帝って知っている?」

「ううん、知らない……」

「中国最後の王朝、清の皇帝・溥儀ふぎが、満州国の初代皇帝だったんだよ」


 おっきいばあちゃんが歴史上の人物と関わりがあった事に驚きが隠せない香織は目をパチパチさせていると、更に驚く事を言った。


「そしてね、ばあちゃんの初恋の人はその満州国で出会った漢人……今の中国人だったの」

「おっきいばあちゃん、中国の人と付き合っていたの?!」


 おっきいばあちゃんは、賑やかなテレビ画面を見つめながら「もう、七七年も経ったのね……」と呟く。


崔遠真ツェイユァンジェン……」


 突然、流暢りゅうちょうな発音で聞いた事が無い言葉を呟くおっきいばあちゃん。


「……中国語?」

「名前よ。ユァン兄さん。好きだった人の名前」


 90歳のおばあちゃんが、照れくさそうに頬を染めている。


「どんな人だったの?」

「ばあちゃんよりも四つ年上で、背が高くて知的な切れ長の目を持つ人だった」


 ドキッとする香織。

 神田先輩とイメージが被るからだ。


「ばあちゃんのお父さんはね、中国の歴史を研究する学者だったの。当時の中国である中華民国へと留学中に、満州国に移住する子供達の中国語の先生をして欲しいとユァン兄さんのお父さん……ツェイさんに頼まれて一緒に満州国に来たの。だからツェイさん一家とは家族ぐるみで仲が良くて、よくユァン兄さんは、ばあちゃんの事を「春香チュンシャン」と呼んで可愛がってくれたの」


春香チュンシャン?」


「ええ、中国の慣習かんしゅうで、仲の良い家族同士がお互いの子供に名前を与える風習があったの。それで、ばあちゃんも『崔春香ツェイチュンシャン』という名前を貰ったの……。まあ、あだ名みたいなものね。ばあちゃんは幼い時から「ユァン兄さん、ユァン兄さん」って、兄さんの後ばかり追っていたわ。ユァン兄さんはとっても素敵で優しくて、いつも「春香チュンシャンは可愛い。とても綺麗な黒髪をしている」と、褒めてくれたのよ。だからいつもくしを持ち歩いて、髪のお手入れは欠かさなかったわ」


 香織の知っているおっきいばあちゃんは、硬くなった白髪にほっかむり。長靴を履いて畑作業をし、離れではぼんやりとテレビを一日中見ている平凡なおばあちゃんだった。


 しかし、今、香織の前で昔話をしているのは間違い無く『崔春香ツェイチュンシャン』だった。


「小さい時の私は、いつか、大きくなって兄さんのお嫁さん……本当の『崔春香ツェイチュンシャン』になるのが夢だった!」


 そう語る春香チュンシャンの目は若い乙女の様にキラキラと輝いている。


 異国の地での外国人の青年との恋。

 香織には甘い香りが漂うロマンスの様に感じた。


 ――その時までは。


 甘い色を魅せていた春香チュンシャンの目が、突然曇った。


「……でもね、私達が大きくなるにつれて、中国と日本の仲がどんどんと悪くなって、二つの国の間で戦争が起きたの。満州を無理やり奪ったのは日本人。そんな日本人を、中国人は許す訳が無いわ。当時の日本人は自分達が最高の民族だと信じているから、反抗する中国人を疎ましく思っていた。反日活動があちこちで行われていたわ」

「反日活動?」

「簡単に言えば、中国をこれ以上奪うな。出ていけって事よね」


 香織は頷いた。その通りだと思う。

 異国の人間が香織の住んでいる街を、日本を奪ったらきっと怒りを感じるだろうし、恨んでしまうと思う。


「でも満州で暮らしていて、まだまだ幼い私とユァン兄さんにはそんなの関係なかった。世の中を物騒だと思いながらも、民族の違いなんて気にせずに遊んでいた。満州国のスローガンは『王道楽土おうどうらくど』と『五族協和ごぞくきょうわ※』。これも名前ばかりで実際の満州国は日本優位で他の民族はしいたげられていた。同じ国に住んでいながらも五民族の心は一つになることは無かった。でも、ツェイさん一家と私の家族は、とても仲良くしていた。それをこころよく思わない漢人にツェイさんが責められたり、ユァン兄さんも友人に色々と言われていたみたいだけど、私と居る時はそんな素振りを見せる事は無かった。本当に優しい人達だった……」

(※日本人、満州族、朝鮮族、漢族、蒙古族の五民族が協調して暮らせる国を目指した国策)


「だから、私は思っていたのよ。私の想いは決して口に出してはいけないと。それは私が日本人で、ユァン兄さんが中国人だから。……それから第二次世界大戦が始まって……日本が敗戦した13歳のあの日。私は忘れることは無い」


 春香チュンシャンは、己の手をギュッと強く握る。


「八月の夜だった。ソ連軍……今で言うロシアの軍が突然満州国を侵略しに来たんだよ。……今日の様な満月の日だった」


 春香チュンシャンと香織は窓から見える金色に光る月を見上げた。


ツェイさんが、私たちの家に飛び込んで来て「ソ連軍が来た! 逃げろ!」と教えてくれたの。私達は慌てて着のみ着のまま、ツェイさんの家の納屋に隠れた。その時はソ連軍だけじゃない、日本人を恨んでいた漢人も朝鮮人もくわすきを持って襲って来た。見つかった日本人は容赦なく殴り殺されたし、若い娘はどこかへ連れて行かれた。私はその光景を横目に、震えながらツェイさんの家に逃げた。両親がこれからの事をツェイさんと話している間、私は納屋の隅で一人ブルブル震えていた。私は外に響く怒号と悲鳴と銃声に、もうすぐ酷い目にあって死ぬと思っていたから」


 春香チュンシャンの目に涙が浮かぶ。


「そんな時、大きな右手が……私の手を包んだの。ユァン兄さんの手。兄さんは私に背を向けて、両親たちの話を聞いている風を装いながら、私の手を握ってくれていた。

 ……ユァン兄さんは何も言ってくれなかった。でも、その手は温かくて肩はずっと震えていた。兄さんは泣いているんだと思った。私との別れを心から惜しんでくれていた。 

 そう、私は侵略の恐怖で気が付くのが遅かったけれど……その時こそ、私とユァン兄さんのお別れの時でもあったの」


 春香チュンシャンは口を閉ざし、その時の情景を思い出している様だった。

 手が、小刻みに震えている。


「……私は悲しくてたまらなくて、想いを告げたかったけれど、暴徒ぼうとと化した漢人が、ツェイさん家の母屋へやって来たのが聞こえた。私と両親は弾かれた様に納屋から飛び出した。ユァン兄さんと最期に目が会った時、涙目で『春香チュンシャン一路平安さようなら……!』と言ってくれた。私はそれに応える間も無く、命からがらの逃避行が始まった」


 香織は涙を拭いながら、疑問をぶつけた。


「……でも、日本の兵隊さんが助けに来てくれたんだよね?」

「関東軍の兵隊さんは、満州に居る日本人を置いて一番に逃げちゃったのよ」

「そんな!」

「だから私達は、自力で逃げたの。ツェイさんの家から逃げて、隣町で同じく逃げ延びた日本人一行と合流した時、一番に最初に髪の毛を丸刈りにされた」

「なんで……?!」

「女の子だと分かると敵の男たちに酷い目に遭うからよ。丸刈りにして、顔を汚して、男の子に見える様にしたの。私はユァン兄さんが褒めてくれた黒髪を母に断ちハサミで切られている間、悲しくて悔しくて涙をずっと流していたわ。そして、もうく物が無くなって不要になったくし満州そこに置いてきた。私のユァン兄さんへの気持ちと一緒にね……。

 ……逃げる間、たくさんの子供が栄養不足で死んだし、育てられなくて中国人の家族に貰われたり、若い娘はお嫁に行ったりもした。私達も何日もご飯が食べれなくて優しい中国人の物売りさんにご飯を分けて貰ったり、振り落とされてもおかしくない満員の汽車に揺られて、日本へ渡る船の出る葫蘆コロ島まで向かう道中も、空腹と疲労でいつ病気になって死んでもおかしくなかった。……度々やって来ては、金品や若い娘を要求するソ連軍の兵隊さんに怯えながら。

 ――そして、やっとの事で佐世保の港に到着した時はやつれた身体で両親と抱き合い、生き残った喜びに泣いたのよ」


 話終えた途端『春香チュンシャン』だったばあちゃんが、香織の『おっきいばあちゃん』に戻った。


「……日本は平和になったけれど、今だって世界の何処どこかでは争いに巻き込まれて誰にも言えない恋をしている人は居る、とばあちゃんは思うよ」


「でも……いくら平和でも告白は勇気が無ければ出来ないんだよ?」


「それでも。言う事も言わない事も選べる『心の自由』があるのよ」


「『心の自由』?」


「ええ、それこそが誰しもが平等に与えられるべき権利。それを戦争は奪うの」


 香織は当たり前だった日常が実はとても幸福だったのだと思い知る。

 おっきいばあちゃんの話の間、何度かラインの着信音がした。

 返事の無い香織に志穂が何通かメッセージを送っているのだろう。


香織かおちゃんは心のままに、自由に恋をしてね」


 私の心の自由のままに――。


 その言葉に胸が熱くなり、香織の手は自然と自分の気持ちをスラスラと打ち込み志穂へと送った。


 打ち終えて前を見据えれば、遥か遠い荒野に悲しい想いを遺して来た春香チュンシャンが居る。


 香織はこの平和な時に感謝して、これからは自分の気持ちにもっともっと真剣に向き合う事を決めた。

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