空のボンボンと亡命

白い腕がひと掻きするたび、水槽の中は砂ぼこりがたつように白く濁る。


「人魚姫の話は知っているかな」


濡れ烏の短髪と白皙。水槽の中から問うのは、雨雲の加護を失い、地下へと逃れた雨の王だ。こんこんとわき出る泉代わりの水槽が雨に冒された彼の肌を癒す。彼は真なる水の中で泳ぎ回り、時に語る。遮るもののなくなった首筋は白く、前髪の隙間から覗くかんばせは白く、目元とは瞼はほんのり朱が差す。黒い目を長い睫毛が縁取っている。白色蛍光灯の下でぬらぬらと光る肌は白く、白く、白い。


「譲り受けたきみの冠と髪には随分な値段が付いたよ……あれは」


「まるっきり『そう』だね」


ここは船の上だ。彼と私は海上を当てもなく漂っている。長かった彼の髪と、彼の持つ冠を売り払い、私たちはこの船を買った。短剣じゃなくて船が手に入ったよ、と王は言い、肩を揺するようにして笑った。水面の揺れる音が船内に響いた。


「ふふ」


くろぐろとした目をじっとこちらに向けて、王は私を見る。色の無い、深い暗渠はどこまでも不透明だ。濁らない瞳が蛍光灯の冷たい光を艶めかしく弾いた。


「海を出た人魚のひいさまは人間の世界を見る。僕はね。街から、あの雲の下から出てどこかへ行く日が来るなんて思わなかったよ」



「ここはきみの顔がよく見える。雨のヴェールも暗闇の天幕もない。隔てるものの無い空間だ」


腕を水槽の淵にかけるようにして、彼は顔を寄せてくる。近頃彼はずっとこうして私と話している。話をしていない時、彼は水面を揺らし、窓辺を、窓辺に射す光を見ている。



「霧が出てきたね。もう少し北に行くともっと濃くなる。そうしたら、甲板に出て月を見ない? 夜が来れば風も穏やかになる」


白く濁った水を揺らし、王は歌を歌っていた。私の提案に、王は顔を上げて微笑み、しかしゆっくりと首を振った。


「…………なにか、差し障りが?」


「いいや。そういうわけじゃない。……行きたいけど行けないんだ。ね、前に人魚姫の話をしたのは覚えているかな」


そう言って王は白い腰を浮かし、水槽の縁に腰掛けた。私は目を瞬いた。そうして眼前に晒された王の足には、腿から先が無かった。私はここにきて、ようやく白く濁った水の意味を知った。


「ぼくの体はとうの昔にミルクとシロップへ置き換えられていたみたいだ。雨に打たれ過ぎたのかもしれない。……これ以上溶かしても、中からはきっとなにも出てこないよ」



お菓子の街に真水はない。漉された薄いミルクが水の代わりに普及して、本物の水は他国からの輸入品だ。唯一の例外が涙だったのだと王は言った。


『器いっぱいの涙なんて初めて見たよ。王への献上品としては不足ない』


もっとも、もう王冠はないのだけれど、と言って、そのとき王は笑った。


『泣いてくれるのかい。……彫像の中には、自分のために涙を流すものによって幾ばくか永らえたものもいるそうだよ。女神のものでなくても、涙は雨の……糖の膜を溶かすからね』


あの暗い洞窟の中で、別離への悲しみは王を留め置くと気がついた。だから水を用意した。それがこんな結果を招くとは。


「王……? ミルク、ミルク・クラウン……」


私は王の手を掴んだ。掴んだはずだった。捕まえた腕は、ガシャ、と音を立てて肘先から折れた。


「あ」


王は驚いたような顔をして、肘から先の無くなった腕を抑えた。少しだけ残った肘は曲がったままの形で動いた。手の中の腕は、異様に硬い。硬く冷たく、動かない。これと同じものを、私は見たことがある。それはなんだったか。どこで見たのだったか。


「……クリスタルの王宮にあった……像だ……きみは……」


「…………」


物憂げに彼は視線を逸らす。


「どうして? どうしてだ」


「何がだい?」


王はそっけなく問う。残った方の手で髪を摘まみ、柔らかに微笑んでみせる彼はぞっとするほど美しかった。私は言葉に詰まり、息をのんだ。


「……そのなかにいれば、平気なんじゃないのか。どうして、どうして【乾いて】しまったんだ」


声を震わせて言う私とは反対に、王は何でもないような顔をしている。


「きみと一緒にいるのが嫌になったから、じゃ、ないよ。むしろ逆だ」


逆ってなんだ、と私は思った。


「僕の体はもうもたないだろう。これは事実だ、残念なことにね。きみの涙に溶けるのも悪くない、でもね。ぼくはきみの旅に連れて行ってもらいたいと思っている」


「きみがきて、昼の話をしてくれた。玉座も拾ってきてくれた。それどころかこうして雨の外へ連れ出してくれた。そうしてね、ぼくがきみを船の中に閉じ込めているというのもわかっているつもりなんだ」


だから。だから、の先は聞きたくない。そう思った。それでも、王はそれを口にする。王の饒舌はお菓子の街の雨に似ている。彼の街に降る霧雨のように切れ間なく、土砂降りのように心を濡らしていく。


「きみは旅人なんだろう? その暮らしの一部にぼくも委ねたい」


彼は、『ぼくが溶けたら飲み干してくれるかい』と言ったのだ。



「覚えているかな。きみがこの水槽を持ってきたときのこと。あのときは本当に驚いた」


彼は思い出話をする。残り時間を惜しむように。言い忘れのないように、未練を残さぬようにと開かれる口が、どうにも歯がゆかった。彼は溶け行く。真珠のような乳白色は水槽の透明に拡散していく。


「飢えをしのぐためにマントの裾を囓ったこと、覚えているかい。よくもまあ、食べる物も用意せずに旅に出るなんて無茶をしたものだ」


これからの話がしたかった。確定したような未来ではなくて、未だ不確定の楽しい『これから』のことが聞きたかった。長い長い先延ばしのあとに、結局その日はきてしまう。彼は砕けかけた顔をマントで隠して言った。


「僕はどこにでもいる。雨雲の下、晴れ渡る空の中、お菓子の街と中と外。忘れなければぼくはぼくだ。どうかそのまま、君とともにゆかせてくれ」


そうして彼は溶けた。私の元には折れた腕と白い水槽、一房の髪、長いマントと、それから思い出だけが残った。北の海で霧に濡れた彼の重さを覚えている。連れて行ってくれといった彼の声を覚えている。それは消えることなく、心の中で反響する。



私は水槽の水をさらって瓶へ入れ、陽光へ晒した。白っぽい液は瓶の中、固まらずに虹の光を反射する。きらきら、きらきらと。ミルク・クラウンの置き土産は彼と同じで饒舌だ。連れて行ってくれ、と彼は言った。手元の瓶はそれを待ち望んでいるように見えた。私は一人残された船の中で、いまだそれをどうにもできないでいる。

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ミルク・クラウン 佳原雪 @setsu_yosihara

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