お菓子の街と追放-2
王は広い地底湖の中を飽きもせず泳ぎ回っている。結われた夜の闇色の髪が、魚の尾のように水面で跳ねた。とぷりと頭が沈み、頭があったところへ波が立つ。彼は泳ぐのが上手い。そのことを私はこの数日で知った。すいすいと水生の生き物のように泳ぎ回る彼を私はただ、水際で見ている。
「落ちないように気を付けて。ここは結構深いから」
私は声のした方へ顔を向けた。いつの間に移動したのか、少し向こうの淵で、縁へ手をかけた彼が重たい動作で水から体を持ち上げるところだった。ざば、と音がして、彼は陸へと上がってきた。髪からミルクを滴らせ、ぺたぺたと歩く足に靴はない。ミルクに濡れた厚手のマントが、貼りつくように肩へ沿うのが変な可笑しみを感じさせる。白く塗れるその様子が、どうにも奇妙に映って仕方がなかった。
私は髪を絞っている王の肩へと手を伸ばし、すんでのところでかわされた。
「……触っちゃだめだよ。触れたところから固まっていって、きみも、ぼくと同じものになってしまうからね」
彼は柔らかく微笑む。その目には諦めと、悲しみが見え隠れした。
「ここには何もない。何もないんだよ。きみは旅人なんだろう? そのままでいたいなら、けして好奇心で踏み出してはいけない。あの時みたいに、空を見上げようとしてはいけないよ」
王は結っていた髪を解いた。濡れて艶めく豊かな黒髪が背に広がっていく。横へと流されていた前髪がだらりと垂れ、彼の体をすっぽりと覆う。彼は右耳を見せるように髪を払った。露わになった右の頬は、暗闇の中でひときわ白く輝いて見えた。
「……雨の中より、きみの顔が良く見えるや」
間近に迫る王の瞳は変わらず澄んだ黒色をしている。間近に迫った頬を、湿った吐息が撫ぜたような気がしたのは錯覚だろうか。解かれた髪の中はしっとりと濡れ、むせるような甘い香りがした。
◆
王は鍾乳洞の床へマントを広げ、その上に寝転がった。濡れた布が床へ擦れる音がした。べちゃり、と音が鳴り、王が腕を投げ出したのがわかった。彼が億劫そうに体を捩り、白く艶めかしい肌は乳洞の床を這う。濡れた床は肌と同じ、絹のような白色をしていた。
「城はどうなっているのかな。雨雲に見放された今、ぼくにはもう確かめるすべはない」
「……なくなっていたよ。ドームは崩れて、廃墟になっていた」
「そうか。まあ、そんなもんさ」
濡れた体をくねらせ、王はゆっくりと起き上がった。柔い間接光に照らされて、マントの落ちた白い肩が、何も身に着けない薄い腹がてらてらと光る。
「そのうち城は消えてなくなるだろう。しっているかな、固形の糖は地の塩だ。雨は人を固めるが、固まった雨の残滓は有用な資源なんだ」
濡れたマントに白い手をつき、王は座り直す。ひたり、と水音が響いた。
「あの透き通ったクリスタルを水に解いて、焼き物に混ぜるんだ。そうすると、あまく、艶やかに仕上がる。皆が知っている。それがどこから来たものか、そこまで知っているかどうかは、ぼくにはわからないけれど」
◆
ぱき、ぱりり、と微かな音が耳に届く。水面から腕を出し、水面の縁へと身を投げ出していた王はじっと手を見た。
「もうだめみたいだ。空気もだんだん乾いてきている。陸に上がれなくなるのも時間の問題だ」
手をひっこめ、ミルクをすくって乾いた体を湿す。白い肌に白く跡を残し、ミルクは淵へ流れていった。
「これから一体どうなるんだろう。最後は歴代の王たちのようにクリスタルの王宮で石像になって終わるものだと思っていたんだけど、どうやらそうではないようだ」
王は水面の下へと身体を完全に潜らせた。
「雨雲はさり、王宮もなくなった。オパールの玉座だってもうない」
反動をつけるようにして水の中から上がってきた彼はびたびたの三つ編みを両手で絞った。髪から垂れた薄いミルクは白い床へ跳ねて、床を覆うコーティングを少しとろかしたようだった。
私は黙っていた。何を言ったらいいのか、逆に何を言ってはいけないのか、その両方がわからなかった。彼はぺたぺたと歩き、ひび割れた赤い椅子へ座ると、長い髪を右の胸の前へ垂らす。
「いや、玉座はきみが探してきてくれたのだったね。じゃあ、そうだね、こういうのはどうかな」
王はしばし思案し、何か思いついたようにふっと微笑んだ。
「今から話すのは、むかしむかしから連綿と続くおとぎ話さ」
そうしてどこか苛立つような様子で王の口から語られたのは、おとぎ話というには血なまぐさい話だった。
◆
「ある時、ある時代、太陽の支配する王国が存在した。豊かな国だ。そう、誰もが羨む国だった。しかし、彼の国には一つの懸念がある。敵対勢力がいたんだ。仮にそれを雨雲としよう。雨雲は、太陽の施政を邪魔立てし、国からしばし人をさらっていった。太陽は雨雲の一団に手を焼いた。『濡れた』彼らが王国に戻ることはなかったからだ。太陽は人民を探したよ、それでも彼らは見つからなかった。優しく懸命だった王は次第におかしくなり、消えた彼らを憎むようになった。そう、悲劇の始まりだ」
肘掛けを白い指先でとんとんと叩き、拍を刻んでいた王はそこでひときわ強く叩き、言葉を切った。
「さて、ここからは雨雲の話だよ。晴天と事をかまえた彼らは、あの恐ろしい生命と熱の王・太陽の尖兵、天より降りきたる陽光によって処刑された。酷い話さ。太陽は血眼になって湿った彼らを探した。慈愛に満ちていた眼は憎悪に濁り、そのまなざしに慈愛はない。彼らの事は分厚い雲が匿ったが、それも長くは続かない。儚いものだ。ふふ、国民は皆太陽が好きだった。あの恐ろしくも暖かな光がね。太陽は狂王となってからも民からの期待を一身に受けた。慕われていたんだ。強く、強くね」
王はへらりと表情を崩した。笑ったのか顔をしかめたのか、こちらの側では判断できないような、そんな顔だった。
「それで、彼らは見つかった。ただただ単純に見つかってしまったのかもしれないし、あるいは償いのために姿を現したのかもしれない。それをあの陽光たちはその手に携えた槍で貫いた。ふふ。それから、どうなったと思う」
王は口の端を持ち上げた。僅かな光を集めて光る暗い瞳が表情と裏腹に怜悧な色を放っている。王は続ける。
「陽光によって探知され、処刑された彼らはそれだけで終わらなかった。見せしめとして、最後の姿が残されたんだ。逃亡生活の果てに安らぎを見出した者もいたし、身を焦がすような痛みによって苦悶の末にこと切れた者もいる。それらはすべて残っている。いまでもね……」
「そうして太陽の国のものたちは、雨天の外出を控えるようになった。雨雲にさらわれたなら、家にはもう二度と帰れなくなってしまうからだ。名実ともにね。きみも気をつけなよ」
そういって王は話を締めくくった。彼は少し、怒っているように見えた。あるいは傷ついていたのかもしれない。
「そうそう、雨雲の話には少しだけ続きがあってね。これは一族の末裔、ただ一人の生き残りの話さ」
「一人残った彼は太陽からの制裁を逃れるため地上を捨て、地下の国へと亡命した。地下の帝国は素晴らしいところだった。しとしとと流れる水は彼を生かす。地下のものを飲んだ彼は、地上へは帰れなくなった」
「それから、それから彼は、どうなったの」
「……ふふ、またおいで。続きはその時までに用意しておくよ」
◆
「水を飲んでもいいけれど、泳いではいけないよ」
王は言った。この時はちょうど、死者の国の話をしていたのだった。一説によると、国の底には火山があり犯した罪のように熱を孕むのだと。
「どうしてもっていうなら、とめはしないけどね。地下の国の産湯は冷たいよ。それに、白く濁っている。苦くはなくて、むしろ甘い……」
「その甘さになじめば、きみもここの仲間入りだよ……地下に生まれ直せばもう地上には戻れない。そうなれば、きみの旅も終わりだ。どこへ行きつくのかもわからず、何をすれば抜け出せるかも知れない、永遠ともいえる停滞に飲み込まれてしまう」
「それを……忘れないで。ひとりぼっちになってしまうよ」
そうして王は、笑ったのだろうか。私にはわからない。
「ここには……王がいるよ。私は、一人にはならないよ」
「そうかもね。まあ、おすすめはしないよ、旅人さん。太陽はどこへ行ってもついて回る。そして地上では今、雨が降らない」
「ね」
声はただ、あまやかだった。
◆
「地上には彼を生かしておけるほどの水はない。陽光は彼を探している。彼は、地上へ帰れなくなり、地下の変化した環境のなかで朽ちていこうとしている」
話の続きは、饒舌な王にしてはひどく簡単で短いものだった。
「このさきは、ないよ。この話はここでおしまいさ」
「いやだよ、それじゃ、彼はどうなるの。おしまいのその先はないっていうの」
寝ころんだ王は目を閉じてゆっくりと肯定した。語りを終えた彼の胸中を満たすのは諦念だろうか。私は首を振った。否、終わらせなどしない。
「だったら私が考える。王に頼らずとも、きっと」
「おや」
王は驚いたように目を見開いてから、口を歪めてにいっと笑った。
「悪くないよ。結末が一体どんなもので、彼がそのあとどうなるのか。きみの口から語って聞かせてくれないか」
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