お菓子の街と追放

頬を撫でる穏やかな風とミュオソティスの空。船は港へ入り、私は桟橋へ降り立った。強い日差しは水面で反射し、きらきらと照りつける。船の背後にはアイスクリームの海。港のゲートを超えれば、そこはバター香るお菓子の街だ。


ミルクの噴水、堅焼きクッキーのレンガ、窓辺に吊るされたモビールはきらきら光る金平糖だ。暖かな街の風景が郷愁を誘うのは、ここへ来るのが二度目だからだろうか。それとも、前に見たときと何ら変わりがないように見えるこの景色が、今は無き故郷を思い起こさせるからなのだろうか。私は噴水広場へ置かれたショートブレッドのベンチへと腰かける。


雲の隙間から陽光が差し込み、私は目を閉じる。コットンキャンディの綿雲は、風に千切れてふわふわと流れる。私は広げた傘をくるりと回した。蝋引きされた花柄の傘を。噴水の水面はきらきらと輝いている。目を閉じれば、あの日々が戻ってくるかのようだ。


私は帰ってきた。空気甘く香る、このお菓子の街へ。



雨は夜のとばりのように街を暗闇へと沈める。私は想像の中で、ひかれたレースの膜を一枚一枚すり抜けて、沈黙こそが美徳と知った街を歩き回る。傘を開いて、雨のさざめきに黙する街へと踏み出すのには理由があった。薄いレースの天幕を十三すり抜けた先には、王がいる。濃霧の沈黙を雨音の饒舌で破り、めくるめく冒険と煌めくおとぎの国を語る雨の王が。


天井の無い中庭と玉座、王のお喋り。よく通る美声を受け、雨の王宮はうっすらと光る。思い出す王宮は未だ色褪せぬ絢爛。雨に閉ざされた王宮で覗き込んだ、夜の闇よりもなお澄み切った黒の瞳が忘れられない。


夜が来て、朝が来て、また夜が来て、朝が来た。私は雨を待っていた。陰鬱な雨のヴェールが街を覆い隠し、人がいなくなる時間を。私は雨を待ち望んだ。王はいまもそこにいる。



頬を撫でる風とミュオソティスの空。甘く香る町は今日も陽光に照らされ、きらきらと光っている。雨は降らない。私の望みとは裏腹に、陽光が覆い隠されることはない。太陽はいつもと同じように優しく微笑みかけていて、湿った吐息を漏らす曇天の気配は見る影もない。雨は遠く、降りしきる陽光は反射し影をも照らす。私は焦れた。

待ちわびた気配は遠く、かすんでいる。私は外へ出た。王宮への道はわかっていた。私は外へ飛び出し、眩暈のするような日差しの中を歩いていく。何度も通ったはずの道は差し込む陽光に照らされてぎらつき、眩しく光っている。熱を持つ太陽のフレアはまるでそれ自体が軽やかな膜のようで、空から体に届く長い長いカーテンはときに重苦しくときに軽やかなあの雨の膜に少しだけ似ていた。この道の先に、本当にあの記憶通りのクリスタルの城があるのだろうか。目を閉じて、瞼の裏へ浮かぶのは暗い空と煌めく城。辺りを浸すシロップの雨の中、オパールの玉座へ腰かけて、雨の御簾の後ろからこちらを透かし見る微笑み。


「……」


目を開ければ、強い光が網膜を焼く。

陽光の下で見るそこは、まるで別の場所だ。雨の外のこの場所で、王と話した王宮は影も形もなくなっていた。別の場所であったらどんなに良かっただろう。まるでおとぎ話だ。『それ』があったはずの場所には天を目指してその身を伸ばした、崩れかけのドームだけが残っている。記憶と照らし合わせれば、折れた柱や床の起伏に僅かな名残がある。崩れた屋根の間、白く煌めく隙間から覗く空は青く高い。始めてみる王宮からの青空は場違いなほどに澄んだ色で、それらは私へ、古びて忘れ去られた大聖堂を想起させた。

夢のようだ、と思った。何を指してそう思ったのかはわからない。それは王と過ごした短くも濃密な日々であったかもしれないし、今この瞬間目にしている現実離れした景色のことかもしれない。

王の声に耳を傾けていた時間は確かに夢のようだった。静謐に満たされた甘い空想。あれらがたとえシロップのみせた夢だとしても。それでも、覚めるには未だ早い。

私は王の姿を探した。庭に王の姿はなかった。当然だ。像も、玉座もない。私は王宮の中、屋根のある方へと駆け出した。そこにも、ミルク・クラウンの姿はなかった。ひび割れたドームの中には歴代の王の像と、傷のある赤い椅子だけが転がっている。椅子の半分は白く滑らかなオパールに覆われていた。赤い玉座。それだけが、雨に重ねたあの日々が夢でなかったのだとする唯一の証拠だった。


◆◆◆


海へ続く川の流れ。水の源泉は山の中、鍾乳洞の奥深くにあるという。


ここへ来るのは初めてだった。ミルクの川の流れをたどり、山へと入った私は木漏れ日の影に洞窟を見つけた。

ひっそりと口を開ける洞窟の中へ入り込めば、ココア色の土からは水の匂いがした。器官を潤す冷たい感触は、私へある種の予感をもたらした。鍾乳洞の奥深く、流れるミルクはまっさらな白。何も見えないほどの暗闇を手探りで進むと、向かう先からは滝の落ちる音が聞こえた。滝壺へほんの少しの光が差し、垂れ込める鍾乳洞の天井へ揺れる光を投げかける。


「やあよく来たね、もう会えないかと思ったよ」


薄暗い中でもよくわかる、病的に白い濡れた肌。長く伸びた豊かな髪の色は、出会ったばかりの夜を思い起こさせた。



私たちは再会した。雨の世界から追い出され、湿る地下へ押し込められた、と語る王の肌はうんと白くなっていて、薄明かりを反射し光るさまはまるで真珠のようだった。

彼のしなやかな手が、白い指が、背に広がる髪を結い上げてゆく。色の抜けおちた肌は末期の結核患者を想わせた。鍾乳洞(サナトリウム)の壁は硬く白く、表面は薄らとした虹色に色付く。王はそれを『ぼくのせいさ』と言って薄く笑った。口元を隠して上目づかいに視線を寄越す王は、どこか他人事のようだった。


「シロップの雨に打たれ続けたぼくの体は冠と同じ、糖の塊だ。ミルクはそれをとかすけど、消し去ってくれるわけじゃない。薄まっていてもシロップはシロップ、溶媒が揮発すればまたミルクと一緒になって壁を遊色に塗り込める」


跳ねたアイスクリームが乾けば、壁へは当然膜を張る。壁を撫ぜ、これはぼくの罰の色だ、と王は誰に言うともなくそう口にした。


「そういうきみは日に焼けたね。ぼくとは『はんたい』だ」


まるで慈しむように、王は目を眇める。病的に白い肌は墓の中からたった今掘り出されたかのようでいて、鈴蘭の咲く丘で今の今まで月の光と踊っていたような、そんな不気味な色香を放っていた。久方ぶりに間近に見る王は、相変わらず年嵩の男のようで、年頃の少女のようで、歳を重ねて枯れた老人のようにも、無邪気に笑う幼子のようにも見えた。

王のぬるりとした美貌の半分は、暗闇の見せる幻に他ならない。向こうに何があるのかがわからないから怖いのか、何もないようで恐ろしいのか。半分だけ透けて見えるような、見える何もかもが間違っているような。薄暗く不透明、半透明の闇は王の相貌を青く彩る。


「ここはまるで地下牢だよ。雨雲は僕を見限った。王宮も追い出されてしまった。ふふ、王でいられなくなったものの末路なんてこんなものさ」


王は困ったように微笑むと、水辺に寄って淵へ飛び込んだ。艶めかしく光る白が視界を横切り、結われた長い髪が半歩遅れて追随する。どぽん、と水しぶきが上がり、一度沈んだ後に、波紋の中心から顔を出した。彼は腕を伸ばし、地底湖の淵へと体をもたせ掛ける。洞窟内にちゃぷ、と水音が響いた。


「歓迎するよ、ここは寂しいところだからね」


薄く開いたくちびるに、額からミルクが一筋、たらりと髪に沿って垂れた。

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