ミルク・クラウン
佳原雪
シロップの雨と王様
アイスクリームの海を渡り、お菓子の街へやってきた。
プレッツェルの桟橋を渡り、一歩街へ踏み込めば、そこは花香る洋菓子店の華やかさ。古風な街並みはしかし、気取らない洒落っ気と優しく微笑む伝統の温もりがある。
飴細工の街路樹はしっとりとした糖衣の花を付け、タフィーの敷かれた道路越し、枝を揺らして互いに手を振り合っている。根を張る歩道には堅焼きクッキーのレンガが敷かれ、続く噴水広場は割れキャンディのモザイクタイルに飾られている。空に浮かぶ綿雲はコットンキャンディで、お星さまは金平糖。まあるいお月さまはバターたっぷりのクッキーだという。
見上げた昼下がりの空はミュオソティスの花の色。広がる天空は薄く延ばされたブルーキュラソーだ。日が暮れた後の宵闇は、漉した餡のようにさらさらとしていた。
◆
焼き菓子の香るお菓子の街にはひとつ、妙な習慣があった。
降雨に際し、この街で出歩く人間はいない。少ないのではなく、いない。誰一人として屋外へは出ない。全ての予定はキャンセルされ、次の晴れまで延ばされる。それがどんな些細なことであっても。
不可解に思って宿の女将に聞いてみれば、『ええ、ええ、旅の人。雨に濡れては恐ろしいことが起こると言います。だからだれも外に出ようとはしないのですよ』と言った。
「どうしてもというのならこれを持っておゆきなさい」
その表情には少し、おびえのようなものが見えた。外を見れば、きらきらとした粒の雨が降っている。
ワックスペーパーの雨傘を差し、長靴を履いて、仄暗い雨の街を歩いている。当然、だれも、いない。
霧のようにけぶる視界。ガス灯の明かりがポワリと灯り、光の玉は薄暗闇に沈んだ街へと規則正しく浮かぶ。薄く張った雨の幕は、灯る明かりへ柔らかなボカシをかけていた。
薄いピンクの花柄越しに見る雨の中は、晴れの昼間とはまるきりの別世界だった。ぱちゃぱちゃと傘を叩く大粒の雨は独特のリズムを刻んで跳ねる。
ざぁ、と音を増し、雨脚は次第に強くなる。足元を滑る雨の膜。跳ね散る飛沫に、見慣れてきたはずの景色でさえ変わって見えた。
そして、無人の街。全てが死に絶え、夢に閉ざされたような雨の中で、ついに私は『それ』と出会った。
表が黒、裏が青のマントを着て、髪を短く切り揃えた『それ』は、傘もささずに雨の街中を歩いていた。髪を飾るのは白い輪。明かりを背にしたその人はまるで影のように見えた。
私は立ち止る。影はこちらへ向かってきた。水気を含んでしっとりと濡れた黒髪がガス灯の明かりを反射してオレンジに染まる。表情は逆光で見えない。
「素敵な傘だね。けして手を離してはいけないよ。どれほどの風が吹き、数多数千の槍が降ろうとも」
ゆっくりと話す影は、私のいる光の輪の中に踏み込んだ。闇の中から姿を現すように、黒の艶やかな髪、雪のように白い肌、ほんのり色付いた目元が露わになる。肌へは透明な雨が滴りおち、その滑らかな質感を一層際立たせた。
「こんにちは。初めまして、かな?」
裾を払い、男とも女とも取れない声で、それは一礼した。目を瞑り、首を片側に傾げてやわらかに微笑む。それは年上の男が目下のものにかける慈愛の表情にも似て、それでいて、強かな女がしなをつくるさまにも似ていた。
「ぼくはミルククラウン。そう、呼ばれているよ」
彼は頭に被っていた輪を外すと、少し持ち上げて見せた。いつまでも返事をせず、ただただ立っている私を見て、彼は困ったように微笑んだ。
「呼び止めてしまったかな。この雨だ、どこかへ向かっているのなら急いだほうが良いんじゃない」
「別に、どこかに行こうとしていたわけじゃない……それをいうのなら、あなたこそ」
「ん? ぼくかい」
少し驚いたように目を開き、彼はゆっくりとした動作で首を傾げた。
「用事なんてないよ、まったくの暇だ」
「じゃあ、どうして」
目を眇め、彼は笑った。たぱたぱと頬を流れる雨が白い肌を艶っぽく彩った。
「ふふ、急ぎの用ってわけじゃないみたいだね。ついておいで。じきに雨が上がる」
あとをついていくと、『じきに上がる』の言葉とは反対に、雨は次第に激しさを増した。案内されたのは、冷たく光るクリスタルの王宮だった。天井のない、王宮の中庭に、玉座はあった。
「ここなら、誰に邪魔されることもなく話せる。さあ、何の話が聞きたい? なんだって教えてあげるよ、きみの時間が許す限り」
王は楽しげに手を広げた。
「ぼくはミルククラウン。この街の王さ。だれもぼくのことなぞ知らないけれどね」
◆
それから、奇妙な交流は始まった。ミルク色の冠をかぶった王はときに微笑み、ときに顔を伏せ、時折寝そべりながら、雨の御簾の向こうからいろいろな話を聞かせてくれた。
「そうだね、もしかしたらきみはこの町の人じゃないのかな。雨を怖がらないだろう? うん、そうさ。雨に濡れるというのは、とても恐ろしいことだ」
王は黒のマントを羽織り、白く濁った玉虫色の玉座で、気だるげな目を伏せている。この街に降る雨はシロップなのだと彼はいう。それらが人に害を及ぼすのだとも。
「もう日が暮れるよ。帰らなくていいのかい」
何度目かの去り際、彼は手を振って、いつもの通りに微笑んだ。
「気が向いたらまたおいで」
それから度々、私は王宮へと足を運んだ。
「綿菓子の雲から降るシロップの雨。それに打たれると、雨雲を冠して生きることになる。そうしないと生きられなくなる」
屋根のないクリスタルの王宮、マントを広げたカウチの上で王様はそう言った。
「だからね、傘を閉じてはダメだよ。ここから出られなくなっちゃうからね」
王は微笑みを浮かべ、歌うように話し続ける。
「さくさくウェハースの扉、フロランタンの屋根にはキャンディのコーティング。お菓子の街は良いところだよ。クリスタルの王宮は雨を食み陽に照らされて育つ魔物だ。雨に洗われ、陽光を浴びることでこの城は段々と大きくなる。ドームが完成すれば、ぼくもお役御免さ」
足元をばちゃばちゃと流れていく雨水を、王は眺めていた。最初に訪れたときから、中庭の範囲は随分と狭まっていた。
◆
その日は、透明な床で仰向けに寝そべる王を見つけた。その目は真っ直ぐ空を見つめている。止むことのない雨が、顔を叩いて、頬を伝う。ふと、空に何があるのか気になった。彼の目には何が見えているのか。その視線の先に、一体何があるのか。そう思って私は傘の軸をかたげて空を覗こうとした。
傘の軸は何かに引っかかり、止まった。気が付けば、伸びた腕が傘のつゆさきを掴んでいた。目の前に彼がいた。
「空を見上げちゃいけないよ。雨の中から出られなくなる」
額や頬を流れる雨が、今日ばかりは違う意味を持つように感じられた。王はただ、悲しそうな顔をする。
「そんなに気になるのなら今日は空の向こうの話をしようか。雲の上には泣き虫な神様がいて、あの綿雲はそれを隠しているんだ」
でもね、と王は微笑んだ。
「流れた涙は綿雲を解かす。甘く色づけられて、涙は地上へと降る。それがこの雨の正体だ。涙雨なのさ」
いたずらっぽく笑い、傘から手を離した王は雨の中を数歩進み、足を止めて振り返った。
「ぼくはね、雲の隙間から神様の泣き顔を見たことがあるんだ。彼女の怒りを買ったぼくは、口外しないように雨の中に閉じ込められたってわけさ」
本当、と口をついて出そうになるのを飲み込んだ。それは聞くだけ野暮というものだ。街の人は雨の中で起きることを知らない。それがわかるのは、目の前で微笑む王だけだ。私は、代わりの言葉を口にした。
「……それ、言っていいの? 怒りを買ったんじゃないの?」
「この雨だからね。雨が地表を打つ音で雲の上までは聞こえないよ」
王は黒い髪を梳き、くすくすと笑った。
◆
その日も雨が降っていた。カウチに腰かけた王は、ずっと立っている私の方を見て、ゆっくりと立ち上がった。
「足が疲れたかい? 向こうにテラスがあるから、屋内に入って座るといい」
「あれ、きみはこないの?」
テラスの明かりが届くか届かないかの範囲で、王は立ち止った。ざあざあと雨が降っていて、王の白い体を濡らす。
「ぼくは屋内に入れないんだ。雨の呪いさ」
控えめに笑い、王はテラスの外側、雨の降る地面へと腰を下ろした。そうして、その辺に転がっていた玉虫色の椅子を起こして、怠そうに肘を乗せた。私は傘を置き、乾いた床へと腰かけた。
「その椅子」
「うん?」
「赤のベルベットじゃないんだね」
目をぱちくり、王は愉快そうに笑った。
「昔は紅白のキャンディだったんだ。雨に降られて今じゃこんな風さ。洗ったって洗ったって取れやしない」
「洗う……?」
王は目を細めた。
「雨に降られた人間の末路って知っているかい? その辺に歴代の王の像があるはずだ。いくつかあるから、持ってきて見比べてみるといい」
私はテラスから離れ、屋内を見て回った。像は全部で九つあった。白い玉虫色の像は、みな、精巧にできていた。
「すごく細かいね。やっぱり王様はこういうものを作らせるの?」
「違うよ。それは全部本物だ。雨に閉じ込められた哀れな人間の末路さ」
「それってどういう……」
王は雨のヴェールの中から手招きをした。
「教えてあげよう。おいで、傘を忘れないでね」
近くに寄って、見つめ合う王は美しかった。濡れ羽色の髪は艶やか。白い肌には毛穴一つなく、滑らかでしっとりと水をはじく。
「肌が白いのわかるだろ? これはミルクの色だよ。シロップの雨に打たれた人間は、日に当たると浴びた雨が乾いて固まってしまう。だから、雨の外に出られなくなるんだ。池も海もアイスクリームで、川だけはミルクって言うの、変だと思わない? 雨水が混ざるからだよ。その前に汲み出して、肌を洗うんだ。乾いた雨を溶かすためにね」
「そうして洗った肌にはミルクの色が少し残るんだ。雨に晒されて、ミルクで洗って、それを繰り返してね、日の光を浴びたぼくらはオパールの彫刻へと変わる。それが定められた最後だ」
「屋内に入っても同じことだ。雨に打たれ続けなければ、ぼくは乾いてしまう。それこそが雨の呪いの正体だ」
声色を作り、王は物語の一説を読み上げるように朗々と語りだした。
「『王宮には謁見の間がある。そこには歴代の王が並べられているが、白くきらめくそれらはすべて本物だ。雨の外を渇望し、乾いてしまった王の末路。それ以上肥大しないよう、もう変化を許さぬよう、乾いた王宮唯一の屋内へと並べられた』『それは慈悲かもしれない。それは戒めかもしれない。だがそれを断じられる者はもういない』」
目を閉じ、王は肩をすくめた。
「……そういうことさ」
◆
太陽の元に出られなくなったと悟った人間は、雨に濡れたことを悔やみ、その肌をミルクで洗う。陽光に当たればしみ込んだシロップはぱきぱきと凍りつくように体の自由を奪う。そのまま凍り付いて、誰にも見咎められず雨に打たれ続けた結果が、この城を造る柱の一本一本だ。そうしてできた屋根は、雨に打たれ、肌をミルクで洗った王たちを抱え込み、また柱の基礎へと変えてゆく。
◆
頭上に雨雲の冠を戴き、雨の御簾の向こう側で、王は今日も玉座に座っている。クリスタルの王宮。天井のない王宮へ、甘い雨雲から雨が降る。
お菓子の街を出発するはずだった日、私は王宮にいた。雨が降って延期になったので、ここへ来る時間が取れたのだ。
「おや。いらっしゃい、どうしたの? そんなに息を切らせて」
「さよならだ、私は次の街へ行く」
「行ってしまうのかい? それでぼくに挨拶を? 律儀だね。でも嬉しいよ。太陽の下で起こったことと屋内であったことは、ぼくにはわからないからね」
普段と変わらず、王はカウチに座っていた。
「次に会うときは、お土産話を用意してくるよ」
王は少し驚いたような顔をして微笑んだ。
「いつでもおいで。ぼくはここで待っているからね。この雨の中で」
雨は止んで、そうして、私は街を出た。白く泡立つアイスクリームの海。この空の下には王はいない。白い綿雲の間からはミュオソティスの空がきらきらと輝いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます