第32話 非∧透明の類乗

 蝉の鳴き声が消え、空も移ろいやすくなるとようやく夏が終わったという実感がわいてくる。駅の前を通ると夏休みを終えた高校生たちがたくさんいて、去年まではあたしもあの中にいたのかと思うと不思議な気分になる。


 朝だろうが昼時だろうが駅には高校生が必ずいて、サボりなのかと疑ってしまう。あたしが高校生のときは寝坊したとき以外はきちんと朝に登校してたし・・・・・・ってことは、昼に見かける高校生は全員寝坊組? そう思うと少しおかしかった。


 最近はめっきり涼しくなり、ほこりっぽい冷房もいらなくなった。窓を閉めて、洗面所にいる灯波先生に声をかける。


「もう一時すぎてますけど、行かなくていいんですか?」


 ソファに座りながら洗面所にいる灯波先生に聞こえるように声を出すと「ちょっと待ってー!」と元気な声が聞こえてくる。


 このマンションに住み始めて一ヶ月が経った。家具もだいぶ揃ってきて、ようやく人の住む部屋らしくなってきたこの場所で、灯波先生は少しずつ変わりつつあった。というよりも、元の灯波先生らしくなったと言ったほうがいいだろうか。


 口数も増え、最初はあたしの冗談にもぎこちなく笑うだけだったが、最近はあたしが冗談なんて言わなくても、自然に笑ってくれるようになった。


 身だしなみを整え始めたのは割とすぐのことで、あたしが鼻毛出てますよ、と言ったら顔を真っ赤にして灯波先生は洗面所に走って行った。その後、灯波先生を近所の美容室に連れて行き、髪をさっぱりしてもらった。痛んでいる髪が多かったので、それらを取り除くよう、短めに切ってもらった。


 美容室に行ったときの灯波先生は、まだあたし以外の人と話せる状態ではなかったので、オーダーはほとんどあたしがした。


 綺麗になった灯波先生はだんだんとファッションにも気を遣うようになり、一緒に服を買いに行った。あたしはこれとか似合いますよ、と選んだ服を灯波先生に見せていたけど、ただ単純にあたしがそれを灯波先生に着て欲しいというだけだった。そんな思惑にも気付かずに、灯波先生は嬉しそうに服と、アクセサリーを買いそろえた。


 心の傷が、灯波先生を変えていたのだというのなら、このマンションに来て、灯波先生の心の傷は癒えたと捉えていいのだろうか。


 いまだに、あたしに隠れて医者からもらった安定剤を飲んでいる灯波先生を見ると、完璧には癒えていないんだろうとは思うけど、少なくとも改善はしてるはずだ。


 そうして今日、あたしは杏子さんに灯波先生を紹介しようと出かける準備をしていた。


 かなり前に杏子さんに会ってみませんかと提案してみたのだけど、灯波先生は首をブンブンと横に振って断った。けれど、最近、突然灯波先生の方から杏子さんに会いたいと言ってきたのだ。


 灯波先生も、変わろうと頑張っているのかもしれない。


 とはいっても、ちょっとメイクに時間がかかりすぎだ。


 洗面所に行くと、灯波先生が厳しい顔で自分とにらめっこしていた。足下には服が散乱していて、鏡の前には三種類のファンデーションが並んでおり、リップは筆箱から溢れたボールペンみたいにいくつも転がり落ちている。


「あーもう、なんでもいいですから」


 どこからどう見ても、灯波先生は気合いを入れている。それが妙に腹立たしくて、あたしは強引に灯波先生の手を引いて車に放り込んだ。


「仕上げもまだなのに・・・・・・」

「変わんないです」


 意識して不機嫌な声を出す。


 ストール置いてきた、という灯波先生の声を置き去りにするように、あたしは車を走らせた。


 灯波先生から、杏子さんとの関係は聞いた。まだ確証はないけれど、杏子さんから貰ったあのノートの切れ端に書かれていた絵は、学生時代の友達のものにそっくりだと灯波先生は言う。杏子さんの様子も、どこかワケありげだったし、もしかしたら本当に二人は同級生なのかもしれないけど。


 そんな事実もあって、あたしはあまり面白くはなかった。


 でも、灯波先生が誰かと話したいなんて言うのはこれが初めてだったから、少しでも力になれたらって思ったのだ。


 あたしの家に着くと、灯波先生は緊張した面持ちで玄関をくぐる。


 杏子さんにはすでにあたしから連絡済みなので、部屋にはいるはずだ。杏子さんの部屋まで案内してあげると灯波先生はおそるおそる、そのドアノブに手をかけた。


 二人は、顔を合わせると一瞬固まって、杏子さんの方が先に「桃ちゃん、だよね?」と口を開いた。灯波先生は一度後ずさるように部屋から出たが、あたしが背中を物理的に押してあげると、つんのめりながら再び部屋に入っていく。


「近くの喫茶店で時間潰してるから、終わったら連絡ください」


 あたしはそう言って、灯波先生を残して家を出た。


 なんだか二人の接触を見るのは、爆発物処理班の人たちの作業を見ているみたいで、落ち着かない。


 リビングにいる父に一言声をかけてから、あたしは近所の喫茶店に向かった。


 ウッドカラーを基調とした店で、暖色のランプが淡い光を演出してくれている。昔よく、亡くなった母に連れてこられた場所だ。


 あたしはモカとアップルパイを頼んで、そのまま奥の椅子に座った。


 久しぶりに一人になると、最近は、随分忙しかったように思う。今思えば、あたしが誰かとこうして一緒に行動するのはまだ短い生涯の中でも珍しいことだ。


 幼稚園の頃はよく母に甘えて、どこに行くにも母の手を握りっぱなしだったけど、母が亡くなってからは、誰かに甘えるという行為はもうやめとうと決めていたのだ。


 悲しいことや辛いことがあって感傷に浸るのはいいけれど、それじゃいつまで経っても変わらない。まだ小さいならそれでもいいのかもしれないけど、あたしたちは常に歳を取り、日々成長し続ける。


 大人として、一人の人間として生きていくためには、いつまでも過去の後悔を引きずっているわけにはいかないのだ。


 モカを喉に流し込んで顔をあげると、家族連れが多く見られた。


 親と一緒に仲良くお菓子を食べている子供、あれが食べたかったと駄々をこねる子供。ふてくされてそっぽを向いている子供。親なんてものには目もくれず友達と遊んでいる子供。たくさんいた。


 あたしはどんな子供だっただろうか。


 あまり良い子とはいえなかったように思う。灯波先生の、小さい頃のエピソードを聞いた今では尚更だ。


 本当は母が亡くなったときは、もっと悲しむべきだったのかもしれない。けれど、まだ子供だったあたしは大きな声で癇癪を起こし、怒り狂っていた。


 クソババアとか、バカオンナとか、ウソツキとか、そんなことを叫びながら、家にあった旅行雑誌をゴミ箱の中に投げ捨てていた。


 どうしてあんなことをしてしまったのだろう。何も捨てなくてもよかったのに。


 けど、そういう過去があったからこそ、あたしは小中高と良い子でいられた。言葉遣いも気をつけて、勉強もきちんとしたし、授業も真面目に聞いた。いつまでも過去に固執するのはよくないと思ったからだ。


 胃に温かいものが落ちると、だんだんと眠気がやってきた。そういえばここ最近は、調子の悪かったガスの修理に立ち会ったり、よさそうな保険会社を探して回ったり、就職活動や、夜中突然泣き始める灯波先生のお世話だったりもあって、あまり眠れていなかったように思える。


 机に突っ伏して、目を閉じる。


 夢の中で、誰かがあたしの名前を呼んでくれた気がしたけど、誰かは分からない。


 けど、あたしのことを名前で呼んでくれるのは、知っている人の中では数人だけだ。



 ポケットの中でスマホが震えていることに気付いて目が覚める。


 灯波先生からメッセージが届いていた。話はもう終わったらしい。窓の外を見ると、少し暗くなっている。


 ぽやぽやとした瞼を擦りながら、あたしは急いで車に乗り込んだ。


 家に着くと、玄関先で杏子さんと灯波先生が話し込んでいた。灯波先生も、きちんと人と話せている自分にホッとしているのか、晴れたように笑っていた。


 杏子さんに別れを告げて、灯波先生を車に乗せる。


 それから灯波先生はあたしに杏子さんとの過去のことを話してくれた。後悔と、反省と、教師を目指すきっかけになったということも。


 やっぱりこの人は自分ではなく、他人を軸に生きているのだなと思い知らされた。そんな灯波先生をあたしは、危なっかしく感じるのと同時、誇らしくも思えた。


「いい友達ができてよかったですね」


 わざと意識してそう言うと、灯波先生はなんの迷いもなく頷いた。あたしは少し、ホッとした。


 家に着いたのは五時頃だった。あたしは晩御飯の支度をして、その間、灯波先生はリビングの掃除をしてくれている。


 料理が得意なわけではなかったけど、ここのマンションに住むと決めてからあたしは家でレシピ本を見ながら料理の勉強をしていた。その甲斐もあって、灯波先生が美味しいと言ってくれるくらいの料理は作れるようになっていた。


 あたしの料理が一般的にどれくらいのクオリティなのかは分からないけど、元々灯波先生以外に料理を振る舞う気はないのでどうでもよかった。


「あ、灯波先生。サラダ油がないみたいなんですけど。買ってきてもらっていいですか?」


 リビングから灯波先生がひょこっと顔を出す。少し迷ったようだったけど、


「うん、いいよ」


 そう言って灯波先生はパタパタとスリッパを鳴らし、あたしの後ろを通り過ぎていった。


 その際に、じっと灯波先生があたしを見ているのに気付いて、あたしも灯波先生に視線を向ける。


 一メートルもない、近い距離で見つめ合う。特に何をするでもないんだけど、じっと見つめ合って、あたしはくすりと笑った。灯波先生も「へへ」と笑い、部屋を出て行った。


 言葉は交わさずとも「楽しいね、こういうの」と言い合っているみたいで嬉しかった。


 灯波先生が帰ってくるまで、あたしは鍋の火を止めて、リビングのソファに座った。


 テレビを点けて、早めにできあがってしまった茄子の揚げ物の味見をする。


 灯波先生がいなくなった途端、突然静かになる部屋。音は出ているはずなのに、あたしの耳には何も届かない、雑音にもならないテレビの向こうの声。その中で一人、もそもそと机に置かれた料理を食べる。


 どうしてか、母が亡くなってからのことを思い出してしまう。今日はそういう日なのだろうか。


 三十分ほど経っても、灯波先生が帰ってくることはなかった。スーパーまでは五分ほどで着くはずなのに。


 ふいに、嫌な予感がした。


 いてもたってもいられず、あたしが立ち上がったそのとき。


 ガチャ、とドアの開く音がした。


 走って玄関へ向かうと、そこには灯波先生が立っていた。


「遅れてごめんね。って、あれ? どうしたの?」


 キョトンとした顔で灯波先生があたしを見る。


「・・・・・・いえ、灯波先生に早く会いたくって」


 すると灯波先生は照れたように咳払いをする。嬉しいくせに、そうやって誤魔化すのも、灯波先生の可愛いところだった。


 そうだ。これでいいんだ。


 人はいつか、見守られる側から、見守る側になる。背負う物が増えることを成長といい、大人になるにつれ、あたしたちは誰かに手を差し伸べ続けなければならなくなる。


 灯波先生は可愛いですね、って追い打ちをかければ、灯波先生はもっと照れてくれるだろうか。それはいいな。あたしはもっと、灯波先生の可愛いところを見たい。


 そう思って灯波先生に近寄ると。


「実はね、寄り道してたんだ」

「寄り道、ですか? 一体どこへ」

「それはね、じゃーん。これなの」


 灯波先生が、背中に隠していたものをあたしの前に差し出して見せてくる。


 それは。


「旅行雑誌! スーパーの近くに新しくオープンした旅行代理店があってね、そこでたくさん貰っちゃった」


 札幌、から沖縄まで。いくつもの雑誌を抱えた灯波先生が楽しそうに笑う。


 そういえば、あの日、母も同じように笑っていた気がする。


「和久井さん、一緒に行かない? 旅行」


 力なく垂れていたあたしの手を、灯波先生が握る。灯波先生の手はとても温かく、凍り付かせていたあたしの心までを氷解させていくようだった。


「これからお互いに仕事に就いたらきっと旅行に行く時間もなくなっちゃうだろうし、ね? ひと頑張りする前に、一回行っておきたいの」


 優しいくせに、思いやりに溢れているくせに、まるでこっちの気持ちを全部見透かしているみたいに時折強引になるその姿は、あたしが高校生のときに見てきた、灯波先生そのものだった。


「って、あれ? どうしたの? 和久井さん」


 滲んだ視界の中で、灯波先生の顔が近づいてくる。


「そんなに近いと、またキスしちゃいますよ?」


 わざとおどけるように言ってみせると、灯波先生は慌ててあたしから飛び退いた。


「それは、また、夜にしようよ・・・・・・・まずはご飯」

「冗談ですってば」


 咳払いをする灯波先生を見届けて、あたしは買ってきてもらったサラダ油をフライパンに垂らす。


 エプロンを着けた灯波先生があたしの隣に駆け寄ってきて、じっと料理の様子を見てくる。


「行きましょう、旅行」

「本当?」

「はい」


 わかりやすいくらいに喜ぶ灯波先生を見ていると、自分でも気付かないうちに、笑顔になってしまう。


 この一瞬が本当に幸せで、楽しくて。


 ああ、そうか。


 あたしはずっと、生前の母への負い目から、良い子ちゃんのフリをしていたんだって思っていた。優等生として学校に通っていれば、父も安心するからって、そう思いながらもやっぱりあたしは悪い子で、内緒でお金を稼いだりしていた。


 それは全部、反抗期の名残だったり、思春期に母を亡くした不安定な苛立ちから来るものなのだと思っていた。


 でも、どうやら違うみたいだ。


「絶対、行きましょう」


 あたしはただ、寂しかったのだ。


「どこか、遠い場所へ」


 県外に行きたいとか、大学に行きたいとか。達観した大人みたいなことを言って。


 本当は誰かとどこかへ行けたら、それでよかったくせに。


「うん、行こっ! 和久井さん。わあ、楽しみだなぁ」


 あたしはずっと、強がっていただけなのだ。


「あの、灯波先生」

「どうしたの? 和久井さん」

「手、握っててもらってもいいですか」


 言うのはちょっと恥ずかしかった。こんな子供みたいな甘え方、最悪だって思った。


 けど、灯波先生は何も言わず、優しくあたしの手を包み込んでくれた。


 温かい。


 灯波先生とこうして触れ合っていると、まるで学生の頃の、淡い青春時代が蘇るようで、心がくすぐられた。灯波先生も笑っている。同じことを考えていてくれたら、嬉しいな。


「あ、あの和久井さん。でも、このままじゃ料理しづらいんじゃ? ほら、油飛んでるし」

「あれ、言いませんでしたっけ? 手加減しちゃ嫌ですって」

「へ?」

「本気であたしのこと可愛がってください。こんな程度で、手を離しちゃ、嫌ですよ?」

「で、でも今は・・・・・・あっつ!」

「あはっ、はは・・・・・・!」


 二人で笑い合う。空気を裂くように、切り裂くように、声をあげて笑う。


 世間からは、間違っていると非難されたあたしたちだけど。


 こうして互いに、答案用紙をビリビリに破いていけたら。


 もう、無敵だって思いませんか? 


 ね、あたしたち。絶対幸せになれますよ。


 だって最後に幸せだって採点できるのは、あたしたちだけなんですから。

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教え子とラブホに入る話 野水はた @hata_hata

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