あたしの隣の新卒ちゃん、片思いをしている様子

@KASHIMA3508

あたしの隣の新卒ちゃん、片思いをしている様子

「ねえ、好きなんだけど」


 朝一番、出勤して来て自分のデスクに着いて、あたしの目に最初に飛び込んで来たのはこの”文字”だった。


「ほう……」

 あたしは赤城 淳子あかぎじゆんこ

 大した名もない企業の総務部に勤める女子社員だ。大学卒業後入社したこの会社に勤めて早5年。今年の期首にあわせて主任に昇格したばかりの27歳。

 中小企業としてはそこそこ広さのあるオフィスの窓際が総務部のテリトリーで、経理部・管理部が事実上「島」を共有している。窓を背中に正面を向いた課長席と、その直線状に10個以上のデスクが対面して並び、この「島」を形成していた。


 その中のひとつとして「島」を構成するあたしのデスク。自慢じゃないが片付けは割と苦手な方で、中央にでんと鎮座したデスクトップの周りには書類やら文房具やらが無秩序に散乱している。


 そんなあたしの右隣の席にはひとりの女の子—―浅緋 紅葉あさあけもみじ

 今年入社して来た高校新卒の18歳だ。

「おはようです、じゆんさん!」

「……おはよう、紅葉もみじちゃん」


 軽快にあいさつしながら、紅葉もみじが目の前に差し出して来た一冊の書面。


 タイトルは『今期の目標について』。

 社長の訓示を始め今年の売上目標や利益目標がグラフを用いてつらつらと書き連ねられている。毎年同じ事が書かれていないか?、と思いながら一番下の確認欄に、回覧済みのハンコを押す。――と言うのがいつものパターンだったが……。


 それよりも目についたのが、先の“一文”である。

 印刷したかの様な丸みをびたフォント。発色はつしよくも鮮やかな赤色で回覧書類の中央に、でかでかと書かれている。


 それだけではない――――


 書面には、他にも「頼んだ資料まだ?」とか「仕事終わったら遊ぼう」などと言った文字が、様々なフォント、様々な色合いで、向きも大きさもバラバラに書き殴られていた。

 無論、この回覧文書はあたしが目を通す前に、上司や同僚、後輩たちの目を通っている。こんな落書きがされていれば、大騒ぎだろう。

 本来ならば――――


 とりあえず、紅葉もみじから回覧文書を受け取る。

 彼女はにっこり微笑ほほえむとデスクに座って呑気のんきに掃除を始めた。

 配属されてまだ数ヶ月の彼女のデスクはこざっぱりしていてそこまで念入りに掃除する必要性も感じないが……それでも丁寧ていねい天板てんばんいている。


 ……そんな事してる場合じゃないと思うんだけどな。

 どこかそそっかしい――まぁ今どきの娘である。


「ちょっと、手を貸してあげようか……」

 あたしは独り言をつぶやくと、その文字の中の「頼んだ資料まだ?」と言う鮮やかなブルーで書かれた文字を爪先つまさきで引っがした。ペロンとがれて宙ぶらりんになったその”文字”を指先でつまんだまま、右隣のデスクへ振り向く。


紅葉もみじちゃん」

「はい?」

 ブラウンの髪をはためかせ、紅葉もみじが座ったままあたしを見上げて来る。

 その肩を、ぽんっと軽く叩く。勢いに乗せて手につまんでいた”文字”を彼女の肩に押し付けた。

 ぺったりとシールの様に張り付いた”文字”は、一拍いっぱく置いて紅葉もみじのブラウスのそでにじみ――消えて行く。


「あ!」

 紅葉もみじが唐突に何かを思い出した様にデスクの掃除を中座し、パソコンを立ち上げた。焦った様子でアプリを立ち上げると、印刷をかける。年季の入ったプリンタからひねり出された資料のたばをたんたんっと勢いよくデスクに叩きつけて整え――さっそく朝のコーヒーをたしなんでいる課長のもとへと持って行った。


青葉あおば課長。今日の会議の資料を用意しましたぁ!」

「忘れてたでしょ?」

 差し出された資料を受け取る課長。四十代後半の彼からすると、高卒で入った紅葉もみじはまるで娘の様。甘い態度を隠そうともせず苦笑いする。


「またやっちった……」

 などとつぶやきながら、紅葉もみじがあたしの隣に戻って来る。あたしより頭半分小柄で、ちょっと明るすぎじゃないかと思うブラウンの髪を肩辺りで切り揃えている。ベージュのブラウスはゆったりを通り越してぶかぶかで、ただでさえ童顔な彼女をさらに子どもっぽく見せている。

 あたしから見ても可愛かわいらしい。

 まあ男受けが良いのも分かる。


「思い出して良かったじゃない」

 眼鏡メガネの位置を直しながら、あたしは彼女に笑いかけた。

 黒いふち眼鏡メガネに、同じ色の髪を背中まで伸ばし、簡単なヘアゴムでまとめている。

 ゆるふわ系の紅葉もみじとは対照的。これがあたしのスタイルだ。


 ……地味って言うな。


じゆんさんに声かけてもらわなかったら忘れてた!」

 ほがらかに微笑ほほえ紅葉もみじ

 一応こちらは年上で、先輩で、なんなら今年からは上司の立ち位置でもあるので敬語も忘れないで欲しいところだが――


「でも紅葉もみじちゃん。あたしが頼んだお買い物も忘れないでね?」

「え?」

 あたしの言葉に紅葉もみじがきょとんする。

「え? ……じゃなくてね。

 備品の発注! 見積もり取って『稟議書』起こしておいてねって言ったでしょ?」

「わ、忘れてましたぁっ!」

 慌てて業者へ電話をかける準備を始める紅葉もみじ


 今のところ、備品の発注が彼女にできる唯一のお仕事だ。

 一通りの事は無難にこなせているが、忘れてすっぽかされる事もこれが初めてではない。

 ――ご多分に漏れずまだまだ学生気分が抜けていないご様子だ。


 まあ、それはそれとして――――……

 ――――これが、あたしの“能力ちから”だ。


 人から人への”想い”を”文字ワード”として“見る”事ができる。

 この”文字ワード”は媒介ばいかいを必要とし――例えば回覧書類など”紙”であれば何でも良い――そこに、印字される様に発現する。人から人への伝達なので、”想い”を伝えたい人間が、伝える対象の人間に、この”紙”を渡すことが必要だ。


 例えば今の場合、課長が「頼んだ資料まだ?」と言うメッセージを紅葉もみじに差し向けたまま回覧書類を渡した事で、”文字ワード”が“見える”様になったと言う事だ。この”文字ワード”はあたしにしか見えず、あたしにしか引っがす事も――そして貼り付けて伝えることもできない。


 なので、他の「仕事終わったら遊ぼう」と言うのも、誰かから誰か――内容からして紅葉もみじを含む若い後輩たちの誰かだろう――に向けたメッセージが“見えて”いるものなのだ。

 まあ、こんな仕事に関係のない私信は放っておいて良いだろう。

 放置すれば、時間とともにこの文字は消えて行く……。


 さて、以上を踏まえて先の”一文”である。


 ちょっと面白わね。

 あたしは胸中でほくそ笑んだ。


 ところでこの“能力ちから”には、ひとつ欠点がある――――

赤城あかぎ君」

「はい青葉課長、何でしょう?」

貴女あなたにも頼んでおいた資料はまだでしょーか?」

「あ…………っ!」

 ジト目で見上げて来る課長の視線に追われながら、あたしは大急ぎでパソコンを立ち上げた。


 ――――この”能力ちから”。自分自身には使えないのだ。


 ◇◇◇


「ねえ、好きなんだけど」


「文面からすると女の子よね……」

 ランチのサンドイッチを頬張りながら、あたしは回覧文書をひたすらに眺めていた。そんなあたしに対し、対面の席に座る男の同僚が、手にしたスマホ越しにチラチラと視線を向けて来るのを感じる。

赤城あかぎ、社内回覧を読みながら食うメシは美味うまいか?」

「ええ、美味おいしいわ」

「……そっか」

 触らぬ神にたたりなしとばかりにぼそっとつぶやいて、彼は手にしたスマホに視線を戻した。


 奇異なヤツだとでも思われたのだろう。


 そんな事はどうでも良い。

 あたしは、ひとり探偵ごっこを進めていた。


 この“能力ちから”で見える“文字ワード”は、ある程度書き手のキャラクターが反映されている。男なら男らしくゴシック体で、女の子なら女の子らしく丸いフォントで。と言う具合にだ。

 もちろん、それはあくまで傾向として――と言うだけであり、例えば営業部のバリバリのキャリアウーマンは、これでもかと言うほどかっきりとしたフォントが“見える”し、その時の心情によっても変化する。


 が、とりあえずは見た通り、この丸っこいフォントからして女の子が誰かに当てた“想い”と考えて良いだろう。

 総務部は経理部・管理部と「島」を共有している為、全体としては12人の所帯だ。総合職とあって女子が多く、女8名男4名の構成。あたしを除くので候補の女子社員は7名。


 更に候補を絞る事が可能だ。

 現時点で確認印を押している女子はあたしを除いて2名。この“能力ちから”は、紙媒体に触れた人間の心情しか見えないので、回覧文書に触れていない人間は除外できる。

 その為に朝から回覧文書をキープし続けると言うはた迷惑な事をやっているのだ。

 対象はあたしの同期である海老沢えびさわ。もうひとりが例のお調子者の高卒新人、浅緋 紅葉あさあけもみじである。


 しかし、海老沢は既婚だ。候補から外すべきだろう。

 すると、メッセージの出し手は紅葉もみじに限定される。


 次に受け手だ。

 こちらの候補は3名。青葉課長、あたしの同期で目の前でスマホをいじっている美空みそら主任。そして後輩・舛花ますはな ……名前は確か「しよう」、だったか? 彼はあたしの3つ下――要するに紅葉もみじの5つ先輩だ。しかし、彼は大卒なので勤続年数では2年しか違わない。


 まず青葉課長はない。

 回覧文書のスタート地点は彼なので、彼が紅葉もみじから文書を受け取る事はできないからだ。

 次に美空。あたしと同じ27歳独身。ただでさえ冴えない感じのサラリーマンだと言うに、紅葉もみじから見て歳が一回りも上だ。きゃぴきゃぴした感じの紅葉もみじとは釣り合わない様に思う。……多分。


 となると残るは舛花ますはな君だ。

 少々不愛想ぶあいそうであるが、仕事はできる。見た目にも中々の好青年である。

 彼女カノジヨがいるかどうか知らないが、独身かつ単身世帯なのは総務部の立場上、承知している。


 舛花ますはな紅葉もみじ。大卒の先輩と高校新卒の後輩。


 この推論に不自然は無い。新卒の娘が同期あるいは先輩の男に惚れるのはお約束だ。そうならなかったあたしが言っても説得力は無いが、そんなものだろう?


 こんな能力がなくても想像がつく答えに辿り着いてしまったが……


 推理が納得の行く結論にいたり、あたしはにやりとしてペットボトルのミルクティーを飲み干した。レジ袋にぽいぽいっと手早くゴミを放り込み、口を縛る。

 ――そして、「ねえ、好きなんだけど」の“文字ワード”をペりぺりと剥がすと、わざとらしく「どっこいしょ」と声を上げてデスクから立ち上がった。


 紅葉もみじはあたしの右隣。舛花ますはな君は彼女の対面に席を持っている。

 あたしは思わせぶりに青葉課長の背後を回り、「島」の反対側に回り込んだ。青葉課長はデスクに突っ伏してご就寝中。美空はスマホゲームに熱中している。他も各々おのおの、スマホをいじったり食事に夢中だったりで、あたしの妙な動きに気付いていない。

 ――唯一、紅葉もみじが丸い目を更に丸くして、「?」の疑問符をたたえてこちらの動きを追って来た。その彼女にくすっと笑いかける。


 そのまま、舛花ますはな君の背後まで近寄ると、

舛花ますはな君」

「はい?」

「昼休みが終わったら、トイレの石鹸せつけんとトイレットペーパーを補充したいから手伝ってくれる?」

「良いっスよ」

 彼は経理部所属なのだが、この雑用に嫌な顔をする事もなく笑顔で引き受けてくれた。総務には青葉課長以外、男がいないので、男手おとこでが必要な雑用では大体彼に白羽しらはの矢が立てられる。


「あ、わたしも手伝う!」

 にこやかに手を上げて立候補する紅葉もみじ

 やはり、そう来たか。


「ダメよ。男の子じゃないと男子トイレ入れないでしょ……」

 とあたしは一瞬考える様な素振りをして――

「いや、ちょうどいいわ!

 じゃあ貴女あなた舛花ますはな君でやっておいて」

「え……っ! 舛花ますはなさんと……!?」

 あたしの言葉にきょとんとした表情をする紅葉もみじ。そこを見計みはからって――――


 舛花ますはな君の肩を叩く。例の”文字ワード”を貼り付けて。

「じゃあ、舛花ますはな君。新人の面倒見めんどうみを頼んだわよ」

 丸っこいフォントの可愛らしい”文字ワード”が、彼の背中辺りに吸い込まれて行く……。

「え……あれ……、はい……??」

 不思議そうな表情であたしの顔と紅葉もみじの顔を見比べる舛花ますはな君。当の紅葉もみじはぱっと顔をそむけてしまった。


 これは……どんぴしゃりの様だ。


「それじゃ、ふたりともお願いね」

 笑いをこらえながら、あたしはゴミを捨てに颯爽さつそうと廊下に躍り出たのだった。


 ◇◇◇


 数日後、想定外は思わぬところからやって来た。


赤城あかぎさん、この『稟議書』を経理の舛花ますはな君に渡して下さい」

 はきはきとした口調で『稟議書』を渡して来たのは樺茶かばちや かおり。営業部のキャリアウーマンであたしの先輩格だ。そのキャラクター通り、ばっちりとしたメイクにつややかな黒髪をあごのラインできっかりと切り揃え、クールな銀縁の眼鏡メガネをかけている。


「え……?」

「何か問題でも?」

「ああ……いえ! 何でもありません!」

 あたしはきょどりつつ、何とか平静を装って彼女から『稟議書』を受け取った。


 営業と総務は隣の部屋だ。

 自分で直接渡しに行けよ!

 と愚痴ぐちりたくなったあたしだが、手渡された『稟議書』の表紙を見下みおろして唖然あぜんとしてしまった。理路整然とした内容。一緒にホチキス留めされた見積書とも一ミリのズレがない。流石さすがのきっかり具合だ。

 それは別に良い。


 問題なのは、その表紙に丸文字ででかでかと書かれた「今夜一緒に食事しよう」の文字。

 当然、あたしの“能力ちから”であたしだけに“見えて”いる“文字ワード”だ。

 あいつ……こんな丸文字で表示される様なキャラだったのかよ……。


 いやいや、そんな事はどうでも良い!


 宛先は――――本人が言っていた通り、舛花ますはな君……。

 ――これは、意外……!


 確かにあたしがかおりから書面を預かったりすることはまれだ。なので彼女の心情を“文字ワード”で読んだ事などあまりない。まったく気が付かなかったし、あたしの回りでも噂にも聞かなかった。

 あたしがうといだけかも知れないが……。


 いずれにせよ――。

「これは……可哀想な事をしちゃったかしら……」

 思わず廊下でひとり、頭をく。


 あたしの“能力ちから”は、ただ“見る”だけではない。数日前に紅葉もみじに資料の印刷をうながした様に、”文字ワード”を貼り付ける事で相手の無意識にわずかだが干渉する事ができる。

 それが当人の望む方向であれば良いが、本人の意志にそぐわない場合は、良からぬ方向へうながしてしまう効果もあるのだ。


「やばいなぁ……。紅葉もみじとかおりと舛花ますはな君でややこしい関係にならなきゃ良いけど……」

 預かった『稟議書』に視線を落としつつ、軽率な行動だった事を反省しながら自分の「島」へと戻る。


 ……そー言えば『稟議書』で思い出したが、紅葉もみじに頼んだ注文は進んでいるだろうか? 見積もり取って『稟議書』を起こせば上司であるあたしに回して来るハズだが……。


 「島」には相変わらず、青葉課長、美空主任の他同期・後輩らいつもの面々めんめん

そして舛花ますはな君と紅葉もみじ

舛花ますはな君。営業の樺茶かばちやさんから『稟議書』。確認してひかえておいてくれる?」

「了解っス」

「よろしくね」

 渡し際、ペりぺりと「今夜一緒に食事しよう」の文字を引き剥がし、彼の背後をすり抜け様に貼り付ける!


「……ってあれ? これ、間違ってるっスね」

「どこが?」

 舛花ますはな君の言葉に釣られて『稟議書』を覗き込むあたし。かおりらしいしっかりとした文面に間違いなどあるハズないと思ったが……。


「ホントだ。年度が去年のまま・・ね。まあ年度の始めにやりがちなミスではあるけど、樺茶かばちや係長らしくないわね!」

「しゃーない。出し直してもらいますか!」

「良いじゃない。樺茶かばちや係長にツッコミ入れられる機会なんて、そうそうないわよ」

「冗談じゃないっスよ! かおり……あ、いや樺茶かばちや係長にそんな事言ったら殺されるっスよ」

 貼り付けた”文字ワード”の効果もあっただろう。思わず本音が漏れかけた舛花ますはな君に、あたしはケラケラと笑う。


「あ!」

 唐突に声を上げたのは対面の自席で何やら作業してた紅葉もみじ

「ついでにこれもお願いです~!」

 立ち上がる勢いで小柄な身体からだをめいいっぱい伸ばしてデスク越しに差し出して来たのは『稟議書』。その紙面にはでかでかと例の”文字ワード”。


「ねえ、好きなんだけど」


「…………」

 どうやら忘れず作業を進めていた様だ。その事は感心だが……


 差し出された『稟議書』を紅葉もみじの手からかっさらう!

「ちょっと! 舛花ますはな君に渡す前に、あたしの目を通すのがルールでしょ!」

「え……っ! いや、わたしはちゃんとじゆんさんに渡そうと…………」

 いかにも予想外、と言う表情でこちらを見つめて来る紅葉もみじ

 だが、あたしにそんな嘘は通用しない。

 ばっちり”文字ワード”が“見えて・・・”いるのだから!


 今どきの子らしく怒られ慣れていないのか、紅葉もみじは黙ってぺたんと座席に座り込んでしまう。

「まぁまぁ……。ちょっと忘れてただけだよな、紅葉もみじは!」

「はぁ……?」

 すかさず後輩のフォローを入れる舛花ますはな君。それに対しマヌケな声を上げたのはあたしだった。

 あんたも女の子にそんな気のいたフォローが言えるキャラだったか!?


 ……いや、もしかしたらあたしが先日貼り付けた“文字ワード”が、思った以上に効果を発揮しているのかも知れない。だとすれば、これは非常にマズイ。

 かおりと舛花ますはな君の関係がどの程度のものなのか知らないが、彼の思考を強制的に歪めたのは事実だ。


「と……とりあえず、樺茶かばちや係長に差し戻しなさいな!」

「そーっスね……!」

 うなずいておもむろに内線をかける舛花ますはな君。

「あ、樺茶かばちや係長っスか? 舛花ますはなっス。お疲れ様です。

 さっき赤城あかぎ主任に渡してもらった『稟議書』なんスけど、間違えてる箇所があるんで出し直してもらっていいスか?

 ……え? 自分で持って来いって? ……仕方ないなぁ……!」


 ガチャリとやや乱雑に受話器を置く。

「じゃ、ちと行って来ます」

「いってらっしゃい」

 ため息つきつつ満更まんざらでもない表情で席を立ち、廊下の方へ向かって行く舛花ますはな君の背中を笑顔で見送りつつ自分の席に戻るあたし。


「ねえ、……じゆんさ……赤城あかぎ主任」

 ぽつりと紅葉もみじ

「何?」

 なくあたし。

 上司に対して「ねえ」はないだろ、と思いつつ、それよりも先程自分の頭越しに『稟議書』を回そうとした紅葉もみじの態度に、やや不満を持っていたのだ。


赤城あかぎ主任って、……舛花ますはな先輩と仲良いんですね?」

「はぁ!?」

 予想外の反応に、あたしも素っ頓狂す とんきような声を上げてしまう。


 何を言い出すんだ、この小娘は!?

「ほら、今も仲良さそうにしゃべってたし、舛花ますはな先輩の事、良く分かっているみたいだし……」

 こちらから視線を逸らし、ぽつぽつと呟く紅葉もみじ

 ……そー言う風に見られてたのか、あたしは……?


「ないない!」

 あまりに的外れな話に、あたしも半笑いで首を横に振って否定する。

 あたしはこの”能力ちから”で人の思考をある程度覗き見る事ができる。舛花ますはな君に気がある紅葉もみじからすれば、あたしがことさら彼の事を良く理解している様に見えていたのだろう。

「あたしと舛花ますはな君はタダの先輩後輩!」

「そうなんですか?」

 うむとうなずくあたし。


 変な方向に話を持って行かれてしまったが、これは逆にチャンスである。

 あたしは紅葉もみじの耳元に口を近付けて、小さな声で伝えた。

「それに舛花ますはな君、営業の樺茶かばちや係長に気があるみたいよ」

「え!? そうなんですか……!?」

「ウワサではね」

 今しがた知ったばかりの情報を、さも前々から気付いていたかの様に伝える。


「何か、意外な組み合わせですね~……」

 紅葉もみじは、唖然あぜんとした表情で舛花ますはな君が姿を消して行った廊下の方へ視線を送る。彼は彼で年度ひとつ書き換えてもらう作業に出た切り戻って来る気配がない。おふたりで色々話し込んでいるんだろう。


 紅葉もみじもそれは何となく察した様だ。

 これで、この子も舛花ますはな君にはこれ以上ちょっかいは出さないだろう。

「さ! そー言う話はめにして、仕事しなさい」

 紅葉もみじをデスクに向かわせて、二度と余計な真似まねはすまいと心に誓いながら、あたしも仕事モードへと戻って行った。


 ◇◇◇


「ねえ、好きなんだけど」


「『稟議書』のチェックお願いです~」

「…………」

 『稟議書』の紙面にもはや見慣れた一文。

 以前に比べればやや小ぶりで、申し訳なさそうに紙面のすみっこに寄っているが、しかしはっきりと書かれていた。


 舛花ますはな君が席に着き、その後ろにあたしが立つ。こう見えてパソコンに強い彼に、あたしがあれこれ教わりながら仕事をする。いつものありふれた光景だ。

 そのあたしたちに向かって、いつかと同様にデスク越しに『稟議書』を突き出して来る紅葉もみじ。その彼女が手にした『稟議書』に、またもこの”文字ワード”。


 ほぼあたしと舛花ますはな君のあいだに差し出された『稟議書』。

 さて、どちらに向けて差し出されたものだろう? と舛花ますはな君。先日あたしが叱ったばかりなので、例え自分に差し出されたものだとしても、受け取る事に躊躇ちゆうちよしたと見える。

 しかし、“文字ワード”が見えるあたしには一目瞭然いちもくりようぜんだ。


「いい加減にしなさいよ!」

 あたしは思わずきつめの口調で、紅葉もみじの手から『稟議書』を奪い取った!

 そこまで語気を強めたつもりはなかったが、自分が思っている以上にきつかったらしい。隣でスマホをいじっていた美空が、びっくりした様にこちらを振り向く。


「何度も言わせないでね!? 『稟議書』を起こしたらまず直接の上司であるあたしに見せること!」

「え……っ! ち……違います!

 わたしはちゃんとじゆんさんに……!」

 相変わらず見え見えの嘘を言う紅葉もみじ

 あたしにはしっかりと“見えて・・・”いるのだから!


「……ほら、見てみなさい!

 表題は間違えてるし、金額の計算も違っているじゃない!

 だからまずあたしに見せなさいって言ってるの!」

 しどろもどろの紅葉もみじに対し、あたしは言い返す間も与えず矢継やつばやに指摘する!


「もう一度やり直しなさい!」

 びしっと『稟議書』を突っ返す!

 さすがにしゅんとした表情で、黙って受け取る紅葉もみじ

 あたしはそんな彼女を尻目に自席に戻る。


 ……正直、焦っている自覚があった。

 紅葉もみじ舛花ますはな君を諦めてない様子。彼にその気がまったくなくても、あたしが軽率に貼り付けた”文字ワード”の効果で紅葉もみじの気持ちが無理やり伝わり、無意識下に影響を与えているのだ。

 これ以上、紅葉もみじが彼に干渉を続ければ、この辺りの人間関係にヒビが入りかねない……。


 その後、あたしの心配を他所よそに、紅葉もみじ舛花ますはな君は黙々と仕事を続けていた。

 何度かふたりでやり取りがあり、その度にあたしはびくびくしていたが、彼と彼女が何の書類をやり取りしようが、そこに何の“文字ワード”が描かれる事もなかった。


 その様子を見て、あたしは心の中でほっと息を吐く。

 どうやら紅葉もみじ舛花ますはな君への気持ちは薄らいだ様だし、彼の気持ちに歪みを生じさせたと言う事にもならなかった様だ。

 元はと言えば、これはあたしがいた種である。

 紅葉もみじが心の中にしまっていた言葉を、舛花ますはな君に伝えてしまったのだ。

 余計なお世話以外の何物でもない。


 時折やらかすのだ。

 “見える”と言っても、たかだか10文字程度の極めて簡素な一文で見えるに過ぎず、その前後の文脈まで読めるわけではない。伝える必要のない事、伝えるべきでない事を伝えてしまう失敗はこれが初めてではなかった……。


 時間が経って冷静になるにつれ、酷いことをしたのは自分だと言う気持ちが強くなり始めた。勝手に自分で失敗してそれを取りつくろう為に紅葉もみじつらく当たってしまったのだ。


 ……後で謝らなくちゃなぁ……。


 正直あまり仕事に手が着かないまま時が過ぎ、時刻はまもなく終業時間。

残業して仕事を終わらそうと頑張る者、周囲の仲間としゃべり始める者、早々に帰宅準備を始める者……。

「それじゃ、お先に失礼します」

「お疲れ様ー」

 舛花ますはな君もいそいそと立ち上がっていそいそと廊下へ向かって行く。気の抜けた返事を返しながら、あたしは何となく彼の行方ゆくえを視線で追う。その視線の先にはかおりがいた。仲良くしゃべるその様子から、関係を隠す気はまったく感じられない。

 やっぱ気付いていなかったのはあたしだけか……?


 特に繁忙はんぼう期でもないこの時節、青葉課長や美空、海老沢ら他の面々も追随ついずいして帰りの支度したくを始める。そんな中、紅葉もみじはいまだパソコン画面とにらめっこしていた。


 ……やっぱ、日中怒った事でへこんでいるのだろうか?


「……紅葉もみじちゃん?」

「はいっ!?」

 余程想定していなかったのだろう。あたしの声かけに飛び上がって反応する紅葉もみじ

「あ……、ごめんなさい!

 集中しててびっくりしちゃった……!」

「驚かしてごめんなさいね……」

 あたしは一拍置いてゆっくりと言葉を続けた。


「あのさ、今朝けさ怒鳴どなったりしてごめんね? 流石さすがに言い過ぎだったと思うわ。あれは本当にあたしに差し出していたんだよね」

「いえいえ! わたしもまぎらわしい渡し方しちゃって、ごめんなさいです!」

 小さな頭をペコリと下げて、紅葉もみじが謝る。


 ”文字ワード”が見えるあたしには、事実と異なる事がはっきりと分かるのだが、見えないのが普通なのだ。

 ならば、普通に合わせるべきだろう。


 この話はもうそれでおしまいだ。


「ところでさ」

 あたしは自分にそう言い聞かせる為にも、話題を変えた。

「さっきから悩んでいる様だけど、分からない事でもあるの?」

「えっと……、『稟議書』直そうと思ったんだけど、あれこれいじってる内にわけ分からなくなっちゃって……」

「どれどれ?」


 座席に座ったままあたしは、紅葉もみじの近くに寄り、彼女のパソコン画面を覗き見る。画面には表計算ソフトで作られた『稟議書』の書式が表示されていた。どうやら、計算式を壊して直せなくなっている様子だ。


「これくらいなら、直してあげるわよ」

 紅葉もみじの前に身を乗り出してキーボードを叩く。舛花ますはな君ほどではないが、新卒の子に比べればあたしだってそれくらいの技量はある。


「お前ら残ってないでさっさと帰れよ~」

 などと言いながら帰宅して行く青葉課長に「これ終わったら帰ります」と気のない返事を返しつつ、さくっと『稟議書』を直す。


「わぁ、ありがとうです!」

 ぱっと笑顔を作ってお礼を言う紅葉もみじ。彼女も怒った事を気にしてはいない様だ。

「どういたしまして!

 さぁ、さっさと作って帰りましょ?」

「はい!」


 紅葉もみじはさっそく出来でき上がった『稟議書』をプリントアウトする。小走りにプリンタに駆け寄って用紙を手にすると、ハンコをぼんっと勢いよく押し付ける!


 焦るな焦るな。また失敗するから……。


 などと思いながら一部始終しじゆうを見つめていたあたしに、紅葉もみじはニコニコしながら『稟議書』を差し出した。

「それじゃじゆんさん、チェックお願いです!」

「はいよ」


 それを受け取って――――

「…………」

 ――――あたしは言葉を失った……。


「……紅葉もみじちゃん、数字は直ったけど、表題がまた違ってるわよ……。

 よく見たら日付もおかしいし……」

「ええっ! またやり直しっ!?」

 紅葉もみじは慌てて席に戻り、あたふたとすでに電源を落としてしまったパソコンを再び起動させようとする。


 その彼女の手を、あたしは静かに制した。

「いいわ。また明日あしたにして、今日は終わりにしましょ?」

「……分かりました」

 がっくりと肩を落として紅葉もみじうなずく。

その彼女の肩にそっと手をおいて、あたしは微笑ほほえんだ。


「そんな事してると時間なくなっちゃう!

 実はさ、怒鳴どなったおびにケーキでもおごってあげようと思ってたんだけど……時間ある?」

「ホントですか!? 嬉しいです~!」

 紅葉もみじが嬉しそうに飛び跳ねる。


「もうさ、どうやってお詫びしようか今日一日ずっと考えていたんだから!」

 これは嘘。

 今、気持ちが変わったのだ。 


「それじゃ、帰る用意するから待っててくださいね!」

「急がなくていいわよ」


 ばたばた帰り支度じたくを始める紅葉もみじを尻目に、『稟議書』をデスクの上に軽く放る。


 準備ができた紅葉もみじに促され、あたしもパソコンの電源を落としてカバンを肩にかける。最後にデスクの上の『稟議書』の――紙面にちらりと目をやって……。


「口ではっきり言ってくれれば良かったのに!」


 引っぺがしたところで、貼り付ける場所がない”文字ワード”。

 ――――この”能力ちから”。自分自身には使えないのだ。


「ねえ、好きなんだけど」


 ――おわり――

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