あなたとメイラ
水無月やぎ
あなたとメイラ
私は急いでいた。
早くしないと、始まっちゃう。
夕飯の準備もそこそこに、食卓に放置されていたスマホを手に取る。
ロックを解除したら、ウサギが描かれた四角いアプリ、
『あ、
私は「どういたしまして」の代わりに、早速投げ銭を入れた。
いつものオレンジのリボンとセーラー服を身に付けたmeiraちゃんは、視聴者一人一人の名を呼ぶ。ファンの間ではこのルーティンが「出席確認」と呼ばれていた。常連の出席確認があらかた終わった所で、meiraちゃんの雑談が始まる。
meiraちゃんは二十歳の女子大学生なので、この格好は完全なコスプレになる。しかし彼女の高校はブレザーの制服で、憧れのセーラー服を着れなかったことが悔しくて、この
毛先だけピンク色のロングヘアをツインテールに緩く束ね、明るいブラウンのカラコンがこちらを真っ直ぐ見つめる。別にこちらの顔は見えていないのだけれど、スマホのカメラ越しに、しっかりと見据えられているように感じられた。
meiraちゃんはボリュームマスカラにアイラインを引き、グリッターの強いアイシャドウを瞼と涙袋に入れ、真っ赤なグロスを唇に乗せており、全体的にギャルっぽい濃い化粧をしている。しかし二十歳という若さ故か、セーラー服やギャルメイクの違和感は全くなく、彼女が微笑む度に投げ銭が入って行った。
『あれ、質問が来てるかな? えっと、新規さんみたいだね。初めまして〜!……うんうん、「なんで午後七時から三十分しか配信しないんですか?」か。それはね〜、あたしのパパとママが厳しくて、パパ達にバレちゃいけないからなの。二十歳以上だとLivitを自分で登録できるじゃない? だからパパ達には内緒で、いつもスタジオ借りて配信してるんだ〜。ちょっぴり面倒だけど、秘密の時間が楽しいんだよね』
質問した視聴者からは、『答えてくれてありがとうございます!』と返信が来ていた。
誰もいない部屋で、私は一人呟く。
「嘘つけ」
文字にならず、音として消えていく言葉。
meiraの目に入ることもなく、彼女は既に次の質問に答えようとしていた。
『あれ、また質問来てる〜! 今日は質問コーナーになるのかなぁ? まぁ、それもすっごく楽しいんだけどね! それだけmeiraに関心があるってことでしょ?……えっと、「彼氏さんとかいるんですかー?」か。えー、それはちょっと、秘密♡ じゃ、ダメ?』
オレンジをベースに、赤い小さなハートが乗ったネイルが際立つ人差し指をプルプルした赤い唇に当て、小首を傾げるmeiraちゃん。「ダメだよー」のコメントが相次ぎ、彼女は困ったように笑った。いつの間にか、視聴者数は二百人を超えている。
『えーっ、ダメかぁ。じゃあ、どこまで言おうかな……んー、気になる人は、いる?……かも? なーんてね! でもね、あたしがみんなのこと好きなのは変わらないよー! これは本当に本当っ』
ツインテールを揺らしながら見せる笑顔。『みんなに投げチューあげる!』と突き出された、潤いのある唇。不意打ちのウィンク。オレンジのリボンの隙間から、見えそうで見えない胸元。ハート模様の描かれたネイル。
『もう全員に投げチューしたいくらい、meiraはみんなのことが大好きだよ』
私の思いはまた、文字ではなく音として、たった一人のダイニングに吐き出された。
「嘘つけ」
しかし、そう思っても、やはり可愛いのは事実で、再び投げ銭をしてしまった。meiraがモテる、それは紛れもない事実なのだ。
その若さが、その可愛さが、今はとにかく眩しい。きっと、キラキラのアイシャドウのせいだけじゃない。
その眩しさを直に浴びるとヤケドをしてしまいそうで、私は自分を守るために投げ銭を入れる。この投げ銭は、単にmeiraを応援するだけのものではなくて、多分私の唯一の武器だ。
『じゃあ、三十分経ったから今日は終わるね! 今日も来てくれてありがとう、また今度会おうねっ♡ 気をつけ、礼!』
あっという間の三十分だった。すぐにバラバラと顔も知らない人達が退出して行って、ライブ画面が終了する。今日は彼女を求めに、結局三百人がやって来た。
私にもmeiraちゃんみたいな時代があったんだろうか、と思いながら、一人きりの夕飯準備を再開した。
◇
結婚して専業主婦になってから、夫が帰宅するまでの楽しみを探すのに苦労していた。
外で仕事しないくせに、何が楽しみだ、と思われるかもしれない。
しかし、専業主婦とて人間だ。気晴らしや休息を取らなければ、人間としての尊厳を失ってしまう。
夫が多忙で子宝を授かることもなく、結婚から三年が経過している。結婚したらすぐに子どもができて、昼や夕方はお世話で忙しいと思っていたから、この現実は予想とは全く違うものになっていた。夫が出かけた直後から、長い空虚な時間が始まりを告げる毎日。
周りは出産を経験した子達が多いし、子どもがいない友人はみんな、色んな業界でバリバリ働いている。私の同級生で専業主婦を楽しんでいるのは、玉の輿婚を果たし、年中青山や白金に出没するセレブ層しかいない。夫の年収は平均より少し多い程度で、セレブには程遠いし、何よりそういった子達とは、学生の時分から馬が合わなかった。
こうした事情で、誰かを気軽にランチに誘えることもなく、テレビドラマや映画を見たって、感想を共有できる相手がいなかったから、とにかくつまらなかった。運動は苦手で、外に出る習慣もない。アルバイトも考えたが、それはそれで新たな人間関係の毛糸に捕われることになると思うと、腰が引けた。
そんな時に見つけたのが、ライブ配信アプリの
ジャンルが多彩で、ライバーの歌声に聞き入ったり、モノマネを見て笑ったり、ホラーゲームの実況を見て叫んだりした。感想をチャットにすぐ書き込めたし、投げ銭をすれば直接話しかけてくれる機会も増えた。中には応援していたライバーがYouTuberとコラボできるくらい人気になったこともあって、そうした成功体験が、私の投げ銭金額をどんどん釣り上げていった。私の居場所はインターネットにあったのだ、と実感することができた。
でも、所詮私は専業主婦。浪費が夫にバレてはいけない。スマホばかりで遊んでいると思われたくない。元はと言えば、子どもになかなか恵まれないからこうなったのだ、と彼に責任を押し付けたい気持ちすらあった。
念の為、アカウント名は本名の
そんなある日、遅く帰宅し、夕飯も食べずに寝てしまった夫のワイシャツを洗濯しようとして、あるものに気がついた。
肩のあたりに、一本の長い髪の毛がついていた。毛先だけピンク色の、長い髪の毛。
その夜、疲れ切ってイビキをかいていた夫のスマホをそっと確認した。彼は指紋認証を設定していないし、パスコードは私達の結婚記念日のままで変わっていなかったから、盗み見るのは造作のないことだった。
アルバムのアプリを開いてみると、オレンジのリボンがついたセーラー服を着て、あの毛先だけピンク色の髪を緩くツインテールに束ねた女の子の自撮り画像が残っていた。急いでトークアプリも確認したが、そこには女と思しき相手との会話履歴はなかった。何か巧妙な手口でバレないように連絡を取り合っているのかもしれない。
私は、夫のスマホを持つ手に力が入るのを感じていた。
なんで? なんであんなギャルみたいな女にうつつを抜かしているの?
私のどこがいけないの? 「そろそろ子どもが欲しいな」って、休日の度に口走ってしまったのがいけなかったの?
いくつもの言葉が頭を支配して離さない。頭を埋め尽くしていく言葉の波の中で時折、あの毛先がピンク色の髪をした女が顔を出す。まだイビキをかいている夫の隣で叫び出しそうになるのを、必死に堪えた。
何よりも悲しかったのは、他の女の画像を入れておきながら、スマホのパスコードが結婚記念日のままだったことだ。もう私に心がないのなら、パスコード自体とっとと変えて欲しかった。
自分の枕が、わずかに湿気を帯びていく。
夫にはあえて、何も言わなかった。必ず自分の手で、この芽を潰してやると誓ったから。
しかし、それ以上の手がかりがないまま時間が経ったある日、たまたまLivitの「新人」タグで見つけたのがmeiraだった。あの日夫のスマホに入っていた写真と全く同じ子が写っていた。
この子が、夫の浮気相手。
まだ二十歳のようだった。夫とは九歳離れている。仮に夫が十八歳だったとして、その時meiraは九歳。その年の差に、思わずえずきそうになった。
派手な髪の毛を、相手のシャツに付けたままにするような子だ。正しい不倫の仕方を、分かっていないんだろう。
どんな奴なのか、見てみようじゃないの。
この子の何が、夫を引き寄せたのか。
七時なら絶対、夫は帰ってこないし。
そう思って、初めてmeiraのライブ配信を見た。
クリーム色の壁をバックに、ちょこんと座り、ログインしてきた常連の名を呼んでは『ありがとう〜』と会釈する。『投げ銭は無理しないでね』と言って、キラキラのアイシャドウと真っ赤なグロスで色づけられた顔をカメラに近づける。
正直、学問を放棄していつかは芸能界を目指そうとしているような、中身のないバカな女なんじゃないかと思っていた。でも話を聞けば聞くほど、そこそこ聡明な女だと認めざるを得なかった。
視聴者のコメントからトークテーマを引っ張ってきて、それを様々な方向に派生させる。視聴者からの質問にはなるべく答える。とにかく話題が豊富な子だった。
あぁ、こりゃ、夫の好きなタイプだわ。
笑顔が多くて一緒に盛り上がれる子がタイプだったって、昔私に言ってたもんね。でも、そんなタイプとは正反対の私を妻に選んだ彼。「年を重ねてから、一緒にいて落ち着く子が良いなって思い始めたんだ」ってプロポーズの時私に言ったけど、あれは嘘だったんだね。
ただ、セーラー服着てる子が趣味だとは、知らなかったけど。
最近の私達は、時々顔を合わせたって、翌日の予定とか子作りとか、事務的な会話しかしなかった。特に浮気を疑ってからは、帰宅の遅い夫に嫌味を言ってばかり。
ただ私は、夫がまだ好きだった。できれば、まだ側にいて欲しかった。
浮気をする方がもちろん悪いけど、私にも良くない所があったのかもしれない。そう思わせるほど、モテそうな浮気相手だった。私は嫌味を言うのを極力やめて、スマホを見たことは黙ったまま、彼の心が帰ってくるのを待っていた。
しかし、時々チェックすることが習慣化してしまった夫のスマホからは、やはりmeiraの写真がわんさか出てくる。キス顔やウィンク、画角を細かく変えたショットなど、カメラロールはmeiraで埋め尽くされていた。
流石にショックを受けた。私とmeiraは六歳しか違わないのに、やっぱり若い方が好きなんだと思った。
何だか物凄く悔しくて、Livit自体、見るのをやめた。Livitの常連になっていたから、夫の浮気相手なんか見つけてしまったんだ。Livitなんかにハマるんじゃなかった。
様々なライバーへの投げ銭に使っていたお金を他のことに費やそうと思って、最寄駅のカフェに行こうとした。
(あれ?)
カフェまであと少しという所で、駅前商店街に入っていく、紙袋と鞄を持ったスーツ姿を見かけた。この時間にはまだ珍しい。気になったので、そのまま後をつけてみる。
スーツ姿の男はコインランドリーに入っていった。気づかれないように遠目から眺めていると、男は紙袋からセーラー服を取り出した。
(えっ?)
セーラー服と共に、あの毛先だけピンク色のロングヘアーのカツラがもつれるようにして出てきて、男は慌てて紙袋にしまい込む。
私は一旦カフェで心を落ち着かせ、洗濯が終わった頃合いを見計らってコインランドリーに再び赴いた。ちょうど洗濯と乾燥が終わったようで、男は丁寧にセーラー服を畳み、紙袋に入れる。
そのまま尾行すると、コンテナボックスに入っていった。出てきた男は三脚とライトを抱え、今度は駅前のビルに入っていく。ビルの三階にスタジオが入っていた。私は膝から崩れ落ちそうになった。
夫は浮気していたんじゃない。
夫がメイラだったんだ。
化粧とカツラが似合いすぎて、全く分からなかった。しかもmeiraは時々フィルターも使うし、声もかなり高くしていたから、これを夫だと見抜くのは相当至難の業だった。なるほど、高音を出し続けるのは三十分が限界なのかもしれない。
七時が近づき、ビルの外壁に身を預け、私は久々にLivitを開く。そこには配信直前のmeiraがいた。
——最近は、新たなストレス発散法を探しています
職場結婚をする前、社内誌に取り上げられていた夫の言葉。
meiraになることは、多忙な彼にとって新たなストレス発散法だったのだろうか。
私の夫——
『あたしね、この配信でやっと素を出せるようになって。リアルな生活も楽しくて充実してるんだけど、やっぱりセーラー服着てみんなとお話してる時は、もっともっと幸せなんだ。みんなあたしのこと、「可愛い」って褒めてくれるから』
夫が美女ライバーというのは複雑だし、軽い嫉妬すら覚えた。でも思い返せば、大学時代は飲み会でよく女装していたというし、meiraはそれが本気で楽しかったんだろう。
配信はあっという間に終わった。その後、コンテナボックスに三脚とライト、紙袋を戻し、その後私が先ほど寄ったカフェに入って、パソコンやレジュメらしきものと格闘しているスーツ姿の夫を見届けた。そうか、配信の後も仕事してるんだ。
◇
それから私は、meiraの常連客になった。
浮気してないことが分かったんだし、この三十分が彼の癒しになっているのなら。
全て、黙っておこう。
私がmeiraとしての夫を知っていることも、私が男の名前で視聴していることも、今までmeiraに百万投げ銭したことも。
スマホのパスコードが結婚記念日のまま変わってないのだって、まだ私に愛があるからだって、信じている。
仕事で泊まりがけになることはここ一年全くないし、Livitでの配信も週に二、三回と頻度が高い。浮気を疑えるような証拠は、ほぼないに等しい。
『今日も質問ありがとう〜。あ、前回も話したんだけど、この配信は厳しいパパとママには内緒で————』
「嘘つけ」
そう呟いた私の頬は、わずかに緩んでいた。
あなたとメイラ 水無月やぎ @june_meee
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます