猫に恋をした。

七種夏生(サエグサナツキ

初恋のおはなし

 がうちに来たのは私が六歳の時。

 小学校の入学お祝いにって、祖父母が連れて来てくれた。

 ゲージの奥に丸まる白い毛玉がかわいくて、胸がドキドキしたのを覚えている。

「まっしろ」とつぶやくと彼は首をくるんっと回し、私を見つめた。

 ブロンズの瞳の周りにふわふわの白い毛。


 だから彼の名前はマシロ。


 幼い私が初めて好きになった、恋の相手。





 大人になった今、振り返れば、あれは幻か私の妄想だったのかもしれないと思う。だけど当時の私は本当に彼が人間に見えていて、私にとってのヒーローだった。

 マシロがその姿になったのは私が七歳の誕生日をむかえた日、マシロが生後五ヶ月のころ。

 その日は雨が降らなくて、私以外の子は帽子をかぶっていたから快晴だったんだと思う。

 小学一年生、入学して初めてのゴールデンウイーク明け、帰り道が同じクラスメイトの男の子に傘を奪われた。


「なんでこんな日に傘持ってきてるんだよ」って笑いながら、私の傘を開いたり閉じたりしている。やめてって言っても無駄で、どうしたらいいかわからなかった。

 それはお母さんと一緒に買った大切な傘なの、小学生になったら自分で扱わないといけないから簡単なのにしようね、練習もしようねって。


「返して!」


 大声を出すと、笑っていた男の子の表情がむっとしたものに変わった。


「なにもしてないだろ!」

「して、る……傘、壊さないでよ」


 男の子の声に押され、下を向いてしまった。言い返そうとする私の声は小さくて、言葉尻はほとんど消えていた。

 ダメだ、言わないと……ちゃんとしないと!

 そう思って顔を上げた瞬間、白い毛玉が私の前に現れた。


 みゃあ!


 子猫が鳴らす威嚇の声。

 びくっと肩を震わせるクラスメイトの男の子。もう一度、マシロがのどを鳴らすと男の子の手から私の傘が落ちた。

 傘を拾い、視線を上げると大きな背中が見えた。クラスメイトの男の子より頭二つ分くらい高い身長、白いシャツに同じ色のズボンをはいた少年が、私と男の子の間に立っていた。私を守るように腕を広げて、背中で隠してくれるように。


「な、なんだよこいつ!」


 マシロを見る男の子の目には畏怖の念。対抗しようと力んだが、マシロの圧に押されてとうとう後ずさった。


「べつ、に……嫌いだからやってるんじゃねーよ!」


 捨てゼリフのように叫んだ男の子が、踵を返して自分の家の方向へ走って逃げる。

 呆然とそれを見つめていたが、男の子の姿が見えなくなったところでマシロに目を向けた。

 視線に気付いたのか、マシロが首をくるんっと回して私を見つめた。


 にゃあ。


 それだけしか言わないマシロの表情は、笑っているように見えた。

 六年生のお兄さん達よりちょっと大きいかもなんて考えて、かっこいいなんて感情を初めて抱いた。

 マシロの手のひらが、私の頭の上に乗る。

 にゃあ、と頭上から降る声、大きな手のひらが私の頭をなでる。


「あら、もうこんなところまで帰ってたの?」


 温かい感触にひたっていると突然、背後から声が聞こえた。振り返ると、息継ぎしながら駆けてくる母の姿。


「ごめんね、誕生日だからむかえに行くって約束してたのに……マシロ? どうしてマシロがここに?」


 私の前で立ち止まった母が、マシロを見て首をかしげる。

 マシロも同じように、不思議そうに首を傾けた。


 にゃあ?


「散歩でもしてたのしら。まぁいいわ、帰りましょう」


 ひょいっと母の腕に抱えられたマシロの姿は、普段の愛らしいもふもふペットに戻っていた。

 目を凝らしてもやはりそれは小学六年生くらいの男の子であるはずもなく、白い毛の中にあるブロンズの瞳が私を映してにゃあと鳴いた。





 それ以降いくら観察してもマシロが少年の姿になることはなく、二年生夏休みの自由研究でマシロの生活に密着したけれどマシロはわかいいもふもふペットままだった。

 三年生の夏、さらに研究を重ねたら盾と賞状をもらえて、みんなの前で表彰された。演台で賞状を受け取って振り返った時、傘を奪った男の子と目が合った。

 すぐに視線をそらし窓の外を見ると、青空の中に飛行機雲が見えた。


 再びマシロが化けたのは、次の年の秋。

 小学四年生の夏休み明けだった。


 罵声が飛び交うリビングの隅で、私は膝を抱え座っていた。甲高い声で叫ぶ母と、時々しか声を発さない父の不機嫌な声。

 喧嘩しないで、と仲裁に入った私の顔に父か母どちらかの腕がぶつかったが、二人とも私のことなど気にしていなかった。

 吹き飛ばされた反動で頭を打って、その時の傷とか心のズキズキとかいろんな痛みに耐えて涙を流す私の頭にそっと、大きな手のひらが乗った。


 にゃあ。


 マシロが、大人になっていた。

 三十路超えちゃったと冗談めかして笑う担任の先生と同じくらいの年齢、すらっとした体躯に真っ白なシャツがよく似合う。

 ふぇっと小さな悲鳴をあげて泣く私の耳を、マシロの両手がふさいだ。

 音の無くなった世界で見つめ合う。


 にゃあ。


 一鳴きしたマシロに連れられてリビングを出た。大袈裟な音を立てて扉を閉めたにも関わらず、父と母は私を追ってこなかった。

 その年の冬、「お父さんとお母さん、どっちと暮らしたい?」って質問に「マシロと暮らしたい」と返事をしたら、母と一緒に祖父母の家に行くことになった。





「マシロはお爺ちゃんの顔を見た時に、みゃあって鳴いたんだ」


 五年生になる前の準備期間、春休み。

 棚田が見える祖父母宅縁側でぽかぽか日向ぼっこしている時、祖父が言った。

 母は仕事で不在、祖母は腰を悪くして入院中。だからこのお家には今、私と祖父とマシロだけ。


『お爺ちゃんの家』


 そう言ってしまう私を、祖父は怒ったり責めたりしなかった。


「ゆっくりでいいよ、うん……いつか、『私の家』って胸張って言える場所ができたらいいねぇ」


 穏やかに微笑む祖父が見つめる先、ぽつぽつと桜が咲く山の森林の葉が風に揺れてカサカサ鳴った。

 祖父の膝の上でうたた寝していたマシロもまた、ゴロゴロとのどを鳴らした。

 祖母が他界したのはその二ヶ月後で、「成人式の晴れ姿は見たいなぁ」と言っていた祖父がいなくなったのは二年後の春、中学の入学式を終えた次の日。

 それと同時、マシロも家に帰って来なくなった。





 一人で大丈夫よね、と言われたから期待に応えようと頑張った。

 その努力の成果と祖父が貯めておいてくれたお金のおかげで、大学に行けることになった。

 お爺ちゃんの家を出て一人暮らしをする、という私の言葉に母は小さくうなずいた。


「好きにしなさい。それとここは『お爺ちゃんの家』じゃなくてあんたの……出て行くならもう、その呼び方でいいかもね」


 母が笑った。ふっと、何かから解放されたように。

 その微笑みに触れた瞬間、母が私に手を伸ばした。ぽんっと頭上に乗る手のひら、小さな母の手。

 つむじに伝わる暖かさが懐かしくて、マシロの手を思い出した。

 マシロはもっと大きかった、熱ももっと強くて頼りがいのある逞しい手のひら。つらい時、悲しい時苦しい時、いつもマシロが頭をなでてくれた。

 涙があふれて、雫が床に落ちると同時に母が私の身体を抱きしめた。

 抱かれるのなんて何年ぶりだろう、前回がいつだったかなんて覚えていない。母の背中に手を回すと華奢で折れそうなくらい弱くて涙が出た。


 あぁ、もう本当に、マシロはいないんだ。


 そんなことを考えている自分も嫌で、歯を食いしばって泣いた。


 頭をなでてくれた彼はもう、私の側にいない。





「表彰された時の自由研究のペットって、あの時のやつだよな?」


 大学三年生の春、同じゼミの男子が突然、そんなことを言った。

 わけがわからず黙る私の態度に気が付いた男子が、慌てて言葉を付け足す。


「だからほら、小学校の時の自由研究! あれってほら、俺がおまえの傘をとった時に威嚇してきた……小学校入ってすぐ、小一のゴールデンウイーク明けの!」


 主語がないのか述語がないのか。深く考えてなんとか、それがなにを示すかを理解できた。


「あぁ! あの時の! 私をいじめてた男の子!」

「いじめてたんじゃねーよ! 好きだったんだよ!」

「…………え?」


 という成り行きで、人生で初めての彼氏ができた。向こうは私の顔を覚えていて、苗字が変わっていてもすぐに気が付いたらしい。

 私は顔も名前も覚えていなかったけど。


「あいつさぁ、あの時、俺の顔見てみゃあこって鳴いたんだよ」


 大学三年生の秋、彼氏が言った。大学構内のカフェ、ホットココアを注文した私の向かい側に座る彼の手元には、冷たそうなアイスコーヒー。


「あいつって、マシロのこと?」

「マシロって名前なのか、悪い」

「あの時ってのは、小学一年生の時に私の傘をとったやつのこと?」

「あぁ……ごめんな、あんなことして」

「だから、もう謝らなくていいって。私の気を引きたくてやったことなんでしょ?」

「気を引きたいというか、話すキッカケが欲しかったというか……本人を前にして言うの恥ずかしいな」


 困ったように笑い、彼氏がストローを口に含んだ。カップの中が氷だけになったところでまた、彼氏が話を続ける。


「マシロはさぁ……あ、俺がマシロって呼ぶのはOK?」

「いいよ、別に。あいつ呼ばわりより百倍マシ」

「ごめんな、名前で呼ばなくて」

「だからいいって。で?」

「あぁ、だから、おまえのこと好きだったよな」

「……主語がない」

「マシロが、おまえのこと好きだったって話。俺に対して本気で威嚇してた。あのころってまだ小さい、子猫だったよな?」

「小一のゴールデンウイークなら、生後五ヶ月くらい」

「マジか、小さ。そんな身体でおまえを守ろうとしてたんだな……なんかさ、なにか言ってた気がするんだ」

「なにが?」

「マシロが俺に対して、なにか言ってた気がする。みゃあこって、鳴いたんだよなぁ」

「…………」


 半分正解、なんて言葉は言えなかった。

 そうだよ、マシロはずっと私を守ってくれた、頭をなでてくれていたんだよ。なんて、そんなことは。


 言えない代わりに思い出を語った。


 初めてうちに来た時のふわふわ丸々な愛らしい姿。

 傘を取り返してくれた勇敢な姿。

 ひょいと軽々しく母に抱えられた小さな姿。

 親の喧嘩から私を連れて逃げてくれた穏やかで優しい姿。

 祖父の膝の上で眠る無防備な姿。

 帰って来なくなった日、そうと思わせなかった後ろ姿。


「それでね、それでね……」


 言葉が尽きない私の話を彼氏は微笑みとともに、時折うなずきながら聞いてくれた。

 最後まで話し終えてようやく、背筋を伸ばした彼氏が口を開く。


「マシロに感謝しないとな」

「感謝?」

「つらい時や悲しい時はいつも側にいてくれたんだろ? 俺の彼女を守ってくれてありがとうって、俺もマシロに伝えたい」


 ぽんっと、私の頭に手のひらが乗った。

 温かくて大きな、男の人の……。


「……っ」


 涙があふれて、それが頬を伝う。


「どうしたー?」と冗談まじりに言う彼氏に、「嬉し泣きだから!」と返すと今度は両手で頭をなでられた。

 途端、マシロとの思い出が蘇った。

 いじめられて頭をなでてくれた日、両親の喧嘩で泣いた日。つらい時や悲しい時はいつも……。


「じゃあこれからは、俺の出番だな」


 彼氏が言った。

 私の頭に手を乗せたまま、優しい声で穏やかに。


「今度からは俺が側にいるよ。つらい時や悲しい時、嬉しい時や楽しい時だってずっと俺が、おまえの頭なでるから」

「……名前」

「あっ……あぁ、ごめん。これからは俺が、美耶子みやこの側にいるから」

「……正解」


 ふふふっと笑うと、彼氏の同じような声が聞こえた。

 目を閉じて思い浮かべるのは、随分老けたマシロの姿。


 みゃあ。


 と一鳴きして、くるんっと踵を返したマシロが歩いてどこかへ消えた。





 あなたは私の一番最初の彼氏だけど、好きになった相手としては二番目。

 そう言うと彼氏は「なんだよそれ、誰だよ」といじけるけれど、この想いは口にしない。

 

 絶対に言わない、誰にも言えない恋だけど。


 私は確かに、


 彼に、


 猫に恋をしていた。


 

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