ぼく しってるもん

麻々子

ぼく しってるもん

バスが来た。ぼくは手のなかのお金をにぎりしめた。

 このバスに乗って四つめの停留所でおりる。四つめの停留所の近くに、おばあちゃんの家がある。

ひとりでバスに乗るのは始めてだけど、おかあさんとは何回も乗っているし、もうぼくは一年生だからだいじょうぶ。

 ぼくの目の前にバスがとまった。

後ろから乗って、おりるときに、運転手さんの横にある箱のなかにこのお金をいれるんだ。おかあさんから何回もきいたことを、頭のなかでもう一度くりかえした。

 ぼくは、バスにとびのった。

 そのしゅんかん、ぼくの頭のなかはまっしろになってしまった。

 あれは、何?

 おかあさんとバスに乗ったときには、一度だって、あんなもん、なかった。

 前から三番目の座席のよこに、黒い大きなかたまりが、デカッとねている。

あれは、たしかに、犬だ!

 なんで、なんで、あんなおおきな犬がバスに乗ってるの?

 なんで、なんで、ぼくのだいっきらいな犬がバスのなかでねているの?

 バスをおりるのに、あの犬の横を通らなきゃならないじゃないか。

 ぼくはゴクンとつばをのみこんで、一番近くの座席にヘナヘナとすわりこんだ。

 犬は、なんだただの人間のこどもかっていうようにちらとぼくを見ただけで、ぼくから目をはなした。

 ぼくは、犬の横に座っている人を見た。黒いめがねをかけた女の人は、まっすぐ前をむいていた。

 ああ! ぼくしってるもん。

 ぼくは、うんうんとひとりでうなずいた。 あの犬は盲導犬っていうんだ。テレビで見たからしってるんだ。犬が人間の目のかわりをするんだ。ぼくのきらいな犬とはちがうんだ。

 ぼくのきらいな犬は、まきちゃんちの犬みたいなやつだ。

 ぼくが、もっともっと小さかったときのことだ。いとこのまきちゃんちにあそびにいった。まきちゃんちには犬がいた。その犬はまだ小さいくせにぼくだけをいじめるんだ。おかあさんやおばさんが「にげるから、おいかけられるのよ」なんていったけど、ぼくがじっとしてると、よけいにぼくにとびついてきた。ぼくの手や足は、あのちび犬のつめや歯できずきずになってしまった。

 ぼくがなきだすと、おばさんが「ブラックはノリ君がすきなのよ」なんて、わらっていった。なにがブラックだ。あのなまいきなちび犬め。おかげでぼくは、どんな犬でも犬というだけで、そばに近よれなくなってしまんたんだぞ。

 ぼくは、小さいときのことを思い出して、くちびるをとがらした。

 バスのなかの犬が、ぼくをにらんだ。ぼくの心の声がきこえたのかなぁ。おまえのことをいったんじゃないよ。ぼくは、前の座席の背もたれに頭をかくした。

 心臓がドキドキして、お金をにぎっている手のなかがあつい。

 ぼくは、盲導犬とブラックが全然ちがう犬だって思えるように、テレビで見た盲導犬の物語を思い出してみた。

 盲導犬はちゃんと訓練されていている。小さいときからおかあさんとはなされて、ひとりで人間の家でくらすんだ。おおきくなると、いろんなことを勉強する。遊びたくっても、訓練のときは、じっとがまんするんだ。ぼくにもできないようなことだって……。「まて」といわれればいつまでだってそこでじっとしている。何時間でも何時間でもじっとしてるんだ。だから、すごくかしこくって、人間をかんだりしない。

 ぼくは、うん、うん、とうなずいて、前のシートの背もたれからそっと顔をだした。

 あっ、まだにらんでる。

 ぼくと犬の目と目があってしまった。だめだ。盲導犬とブラックはちがうんだっていうぼくの気持ちが、へなへなとなえてしまった。

 バスが次の停留所で止まった。中学校の制服を着たおねえさんが三人乗ってきた。

 犬を見つけると、「わっ、かわいい」って声を上げた。

「さわってもいいかな」

「頭、なぜたいね」

「そんなことしちゃ、だめなんじゃない」

 ぼくは、おねえさんたちをにらんだ。盲導犬がお仕事をしているときはさわちゃだめなんだぞ。やさしく見守ってやらなきゃいけないんだ。

 ぼく、しってるもん。

 おねえさんを見ていた犬が、またぼくのほうを見た。そして、ニヤッてわらった。

 ウッウッ、ぼくは息がつまりそうになった。

 次の停留所で、おばさんが乗ってきた。

「あら、盲導犬だわ。さすが頭良さそうな顔してるわ」

 おばさんは小さい声でひとりごとをいった。

 おばさんは、前のほうにスタスタ歩いていって、犬の横を通りぬけた。犬はおばさんを見上げていたけど、おばさんが通り過ぎると、また前足の上に顔をのせた。

 おばさんみたいになんでもないような顔をして、ぼくもあの犬の横を通れたらなぁ。

バスが三番目の停留所で止まった。

 ぼくはいいことに気がついた。後ろかおりればいい。お金はおりてから走って前へ持っていけばいいんだ。

 ぼくがそう考えてにんまりしたとき、ぼくの後ろに座っていたおばあさんが大きな声をだした。

「ちょっと。後ろの戸をあけてください」

 ぼくの背中がカチンとかたくなった。

 バスに乗っていた人みんな、おばあさんのほうをふりむいた。

 運転手さんが「だめだめ、前へきてください」っていった。

「犬がいるだろう」

 おばあさんはこわい声をだした。

「ちゃんと通れるじゃないですか」

「わたしは犬アレルギーなんだよ」

「わがままだなあ」

 運転手さんはチッといって後ろのドアをあけた。

ぼくは、みんなの目がぼくを見ているような気がした。

 盲導犬はね、こわくはないんだよ。

 みんなの目がそういっていた。

 ぼくは下をむいて、かたを小さく小さくすぼめた。

 しってるよ。ぼく、しってるもん。盲導犬はいい犬なんだ。

 ぼくは胸のなかでつぶやいた。

おばあさんは、ふりむいているみんなの目を無視してバスをおり、前のドアからお金を払っていった。

次の停留所でぼくはおりる。

 あのおばあさんはしらなかったけど、ぼくはしってる。盲導犬は、ぜんぜんこわくないんだ。

 そんなとこに犬なんかいないよっていうような顔をして、ただ、横を通りすぎればいい。それだけさ。

 バスが止まった。

 ぼくはたちあがって歩きだした。のどがからからになっている。足が、足がふるえている。犬なんていないよ。あれは人間がぬいぐるみを着てるだけさ。ぼくは、ぼくにいいきかせた。

あと、一歩で犬とすれちがう。

 ちょっとだけでいいから、座席のほうによってくれないかな。

 犬が顔を上げた。

 ぼくを見た。

 は、は、は、は、……。

 ぼくは犬なんて何とも思ってないよって知らせるために、かるくわらってみせた。

ぼくの足は知らない間につまさきだっていた。ぼくは座席にからだをくっつけるようにして犬の横をすりぬけた。

 ぼくはいそいで、にぎっていたお金を運転手さんの横の箱になげいれた。そのまま、目をつむってバスをおりた。

道に足がついたとき、ぼくのからだからドッと力がぬけて、ひざがカクンとしてしまった。

「だいじょうぶ?」

むかえにきてくれていたおばあちゃんが、ぼくのうでをささえてくれた。

 ぼくはおばあちゃんの顔を見て「うん」とうなずいた。

「バスに、盲導犬が乗ってた……」

 ぼくはつぶやいた

「まあ、ノリ君は犬が……」

 ぼくは、おばあちゃんがいいきらないうちにつづけていった。

「とってもかしこくってね。立ち上がったり、ほえたり、ぜんぜんしないんだ。とっても、かわいくってね、頭、いい顔してるの。ぼく、ぜんぜん、ぜんぜんこわくなかった……。ほ、ほんとう……だよ」

 ぼくは、ちょっとことばにつまって下を向いた。そして、そのまま顔があげられなかった。

「あら、さっきの風で、おばあちゃん、目にゴミが入っちゃったみたい」

 急におばあちゃんがいった。

「ノリ君はどう?」

「うん」

 ぼくは下を向いたまま、おばあちゃんがさしだしてるハンカチをうけとった。

ぼくは、おばあちゃんのハンカチで目をごしごしこすった。顔を上げると、やさしくわらっているおばあちゃんの顔が見えた。その後ろで、バスがどんどん小さくなっていった。




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