第22話 おまけ 狭くて世知辛い世界
接客のため商品の前に立ちパンフレットの整頓をしていた美優は、背後から近づいてきたお客さんに気付いて振り返った。
「いらっしゃいませ。」
「お久しぶりー。元気そうにやってるじゃないの。」
引っ詰めた髪型に覚えが有る。
「美濃部さん。ご無沙汰してます。」
かつての上司で先輩でもあった営業の女性だ。60代とは思えないキビキビした挙動は相変わらず。
「ちょっと話したいことあるんだけど、時間取れないかな?」
「はい?いいですけど。」
仕事上がりの時間を知らせると、かつての上司は最寄りの喫茶店の名前を告げた。
仕事を終えて喫茶店に赴くと、窓際の席で手を振っている美濃部が見える。
「あのね、謝らなくちゃいけないと思って。本当にごめんね。」
彼女は、待ち人が席に着くなり、いきなり頭を下げた。
「え?謝罪されるようなこと、何も」
「榎本くんから聞いたわ。あの美容室はわたしの親戚で、一年程店主が外国にいかなくちゃいけなくなってね。折角リフォームした直後だったんだけど、留守の間榎本くんに管理を頼んでいたの。まさかそれを利用して、あなたをカットモデルにしてたなんて。そのせいで、あなたが浮気してるような噂がでちゃったんでしょ?申し訳ないと思ってね。まったく・・・美波のやつ、とんでもないわよ。」
美優は思わず腰を浮かせた。
美濃部と橋岡美波が知り合いだとは知らなかったのだ。
「それは、どういうことですか!?」
「美波の出身大学、あなたのご主人と同じだって知らなかったでしょ?美波はあなたのご主人とは学生時代からの知り合いなのよ。多分、そう、知り合い。」
知り合い?多分?その言い方は、ひょっとして。
美濃部は、それ以上のことを突っ込まないほうがいい、と暗に匂わせている。
「そうだったんですか。」
美波も当時は、秀紀と関係があったのではないか。あるいは最近まで?
喉まで出かかった疑問を、そこで押し留めた。
「榎本くんが全部話してくれてね、あなたにとても迷惑を掛けてしまったって言うから。その、あたしの親戚には関係ないってことを知ってほしくて。」
ああ、なるほど。
要するに店の風評被害を気にしているのか。美優があの美容室のことを悪く思って、言いふらしたりしないかと心配しているのだろう。
「それは、ご心配には及びません。美濃部さんのご親戚には、なにも関係ないですよ。それよりも」
何故、美濃部が美波のことを知っているのか、と尋ねる前に。
彼女が両手で手をひらひらさせる。
そして、耳に顔を寄せ、こっそりと囁いた。
「内緒よ。あたしも、通ってたの。慧也のいたクラブに。」
呆然とした表情の美優に座るよう、両手で肩をおしてやる。
その年齢の割にはなんともお茶目な表情で、片方だけの口角を上げてみせるかつての上司も、軽い音を立てて座席に座った。
その時に美優が思ったのは、呆れるほど下らないことだった。
世間は狭い。
注文を取りに来た店員に、美濃部がコーヒーを追加注文する。
「あ、でもね、榎本くんは、ちゃんとした子だから。心配しなくていいのよ。」
言葉が出ないでいる美優をどう思ったのか、急に優しげな口調になって慧也を庇う。定年退職した先輩は、テーブルの上のお冷を口にした。
美優が、あの後もずっと慧也の勤める隣町の美容院に通っていることを知っていると、暗に示しているのか。
警戒心を募らせる美優の表情が硬化する。
「そんな顔しないで。それと、ちょっとお願いがあってね。」
お願い?
「美優ちゃん、人事に顔が利くって聞いてるの。一度は定年退職したんだけど、もう一回働きたくて、パートかアルバイトでいいから、口聞いてくれない?一度残留を断ってるから、言い難くて。ね、お願い。お金が必要になっちゃったの。年金だけじゃ足りなくて。」
なんでお金が足りなくなったのかは、もう聞くまい。
「わたしにコネなんてありませんよ。昔の同期が何人かいるっていうだけです。言うだけでいいのなら頼んでみますけど。」
まったく世の中は世知辛い。
かつての先輩上司も、こちらの弱みをついてから頼みごとをしてくる。謝罪とか建前もいいところだ。
まあ、現在店舗の方は人手不足だ。経験者が自分から再就職したいと言うのならばきっと美濃部の採用は容易いだろう。美優のコネなどないが、恩を売っておくのは悪いことではない。
「よろしくね!」
定年を迎えてなお、年金だけでは足りないという先輩は、頭を下げた。
手を出さなきゃ有りなのか。 ちわみろく @s470809b
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