消えたのは、

高黄森哉

心の中の空白

 今日も快晴だが、どこにいても翳っている。見上げても雲一つなく、ビルが影を投げかけているということもない。環境的要因でないとなれば、精神的原因が潜んでいるに違いないのだが、それはぼんやりとしている。丁度、今日の日の雲のように見つかりそうにない。


 こころに空いた穴は、焦燥の形をとって、精神の隙間を埋め始めている。それは自分ではどうしようもないボイドなのだ。なにかあったものが欠けているような気分。それがなにゆえなのか、きっかけが思い出せない。


 道の真ん中だった。非常に乾燥した日差しが降り注ぐ、往来の途中だ。まるで仙人のような老人が真っすぐ、私をとらえていた。目が合う、といった経験は、多少あるがそれは用事を感じさせない、ただの気まぐれが多い。しかし、この老人の眼差しは私に用がありそうだった。


 「さいきん失ったものはないか」と老人は聞いた。それは図星だった。あまりにも的確だったので、その文言の裏に、超人的な理由が含まれていそうだった。最近、失った物。しかし、それは私は思い出せないでいる。


 「思い出せないなら私は教えてやろう。しかし、タダとは言わない。もちろん、対価を払ってもらう。先払いでいい。ひらがなを頂戴しよう」。最初、私はその契約を量りかねていた。文字を貰う、というのは、どういう意味合いを持つのか。そもそも、文字を譲ることはできるのか。それ以前に、私の所有物なのか。


 「二文字差し出せ」。私は一番いらなそうな文字を思い浮かべた。それは、ヱとσだった。σ、の、ヱとσ。この二つはなくても大して困らないだろう。私は、ヱとσを差し出した。すると、老人はたちまち消え失せた。


 私は損をした気分になった。なぜなら、心のざわめきは決して消えてなどないからだ。消えたのは老人とひらがなの二文字だけである。はて、本当に消えたのか見てみようとスマートフォンを開き検索をする。すると、やゆよ、の間にあったはずの二文字は消え去っていた。


 私はコンビニへよる。長い間立っていた気がする。そして、入店し、おかしの棚を漁ると、…………… なじみの深い、何と言ったか、今となってはもう食べることの出来ない、やとゆの間に入るはずの、ひらがなを使用した食べ物が消えていた。


 飲み物もそうだ。炭酸飲料であり、豚の肛門に似た麻薬的な芳香を持った、あの飲み物も消えていた。豚まんの隣にいつもあった巨大な貝も、おにぎりの具として人気なあの昆虫も、みな、消えた。


 大変なことをしてしまったぞ。


 私はそこで働く人たちの雇用を奪ってしまったのだ。生まれた余白を埋めるように、あらたな雇用が生まれたと信じよう。それか別の名前として、この世に存在していて、それゆえに私が見逃してしまったと、そう信じよう。


 この世に存在していて …………。


 ここで、消失に関して新たな仮説が浮かぶ。もしかしたら、あの、やとゆ、もしくは、ゆとよ、の間に入っていたひらがなを持つ、森羅万象は消えたのではなく、最初から、なかったことに、なってはいないだろうか。例の棚や、豚まんの隣に、空間はなかった。最初からそこに何もなかったかのように。


 はっ、と唐突だが、恐ろしい事実に気が付く。おそるそそる、電話帳を開くと、そこに登録されていたはずの名前が消えている。そうか、人の名前に入っていた場合、その人は消えるのか。さっきので、日本の人口の数十パーセントを消したに違いない。これは、歴史に記録されない歴史的大虐殺に他ならない。


 私は憤った。空白を知るだけなら、ここまで盗られることはなかったのだ。つくづく、不平等な等価交換を提案されたものだ。それに、こころの隙間の正体は判明しないまま。あれは、悪魔だったのかもしれない。そうだ、あれは悪魔の取引だ。


 やがて記憶からも消えていくのかもしれない、やとゆ、または、ゆとや、の間の音が入る言葉を羅列する。ああ、あのカメに似た甲殻類よ、あれは美味しかった。頭から啜るのだ、もう食べられない。渓流の王様よ。伝説的熱狂を生み出し、社会問題となった狂気のスポーツも、もう見ることはない。見ものによって姿を変えるアートスタイル、読み方によって展開が変わる小説の技法、触れる動画、もうない。


 羅列の中で、この世でもっとも尊く、素晴らしかった、失われてしまった、ある物を思い出した。それは正確には物ではない。概念なのだ。それはいつも愛の傍らにあった。ああ、もう、あれをすることは出来ない。少なくとも性交の五倍は甘美で、恋愛の八倍の多幸感を持つ、あの儀式を、もう私は恋人と楽しめない。


 とてもじゃない、空虚さに襲われた時、その喪失に感じ覚えがあった。それは以前から感じていた欠落と、おなじ質の物だったのだ。そうだ、この脱落。そうか、あっ! 分かったぞ、分かった。



 ―――――― どうやら私が願う以前に、の、間の文字を差し出した愚か者がいたらしい。


 

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消えたのは、 高黄森哉 @kamikawa2001

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