第5話 目覚め
さて、再び学校のトイレの個室に私はいるのだが、やはり扉には鍵がない。押しても引いても動かない。蹴り飛ばしてみるか。ルナは今まで何かを力一杯に蹴ったことなんてサッカーボールくらいしかなかったけれど、ここは一つサッカー選手になったつもりでおもいっきり蹴ってみた。すると扉は勢いよく開きルナは個室から出ることができた。外には女子生徒たちが二人いた。十人以上いるものだと思っていたがたったの二人で拍子抜けする。その二人は同じクラスの学級委員長と保健委員の子だ。委員長が、
「ルナさん大丈夫?」と心配そうな顔で言う。保健委員も同じような顔をしている。
「ちょっとお腹が痛かっただけ。もう大丈夫よ」とルナは言う。
「授業が始まっても帰ってこなかったから、先生に見てきてくれって言われて」
「そんなにここにいたんだ。気づかなかった」
「でも大丈夫そうならよかった」
「教室に戻ろっか」
「うん。心配かけてごめんね」
三人並んで廊下を歩く。ルナは思い出す。そうだ。私は一度教室に戻ったんだ。
委員長が教室の後ろの扉を開ける。「戻りましたー」
「お、大丈夫か?」と先生が言う。「はい。ご心配かけました」とルナは言う。
ルナは自分の席に向かう途中、一人の生徒と目が合う。その子はなぜか今にも泣きだしそうな顔をしていた。あれは確か、鈴木さん?ルナは着席して授業が再開する。先生が黒板に数式のようなものを書いている。数学の授業なのだろう。数字は奇妙にうごめいているが誰もそれを気にしない。授業は淡々と進んでいく。ルナは一度目を瞑り深呼吸する。目を瞑ってみたものの暗闇になるわけではなく、なぜか俯瞰から教室全体を見ている視点に切り替わった。教室にはルナがいた。そしてルナを見ている私がいる。夢とはなんて不思議なんだろう。私はそのまま俯瞰の位置で状況を見守ることにした。しばらくするとルナがお腹を抑えて苦しそうにしている。机に汗がポタポタと落ちている。私はこの先に何が起きるのかを知っている。ルナの顔色がどんどん青白くなっていく。手を上げてトイレでも保健室にでも行けばいいのに。我慢すれば痛みが消えるだろうと思っている。そうはならないのに。体が痛みという危険信号を出しているんだからそれに従ってよ。ルナは小刻みに震えている。後ろの席の子が「大丈夫?」と声をかける。大丈夫じゃないでしょ。早く教室から出ていってよ。夢なら自由に動かせるんでしょ。早く私を教室から出さないと。まだ間に合う。なんで動いてくれないの。早く。早く。そうしないと…。
ルナは糸が切れた操り人形のように重力に従ってズルリと椅子から崩れ落ちた。「うわっ」隣の男子生徒が小さく叫ぶ。そう。私は教室で失神した。そして。「なんか臭くない?」周りの誰かが言った。「嘘でしょ」「マジかよ」ルナの周りの生徒たちが机を持ち上げて遠ざかる。「みんな静かに」先生が倒れているルナに近づき、抱き上げ、そのまま教室から出ていった。「ヒューヒュー」と男子生徒が囃し立てる。
私はまだ教室にいる。ざわざわと興奮する生徒たち。委員長と保健委員が掃除ロッカーからバケツと雑巾を持ってきて床を拭いている。「うげー」「きたねー」「ちょっとかわいそうでしょ」「みんな手伝ってよ」退屈な授業に突然特殊なことが起きて、大人しかった教室が動物園のように騒がしくなってしまった。動物園。私が動物園と連想すると、どこかから甲高い猿の声が聞こえだし、クラスで一番体格の良い男子生徒の上半身がみるみる大きくなって、ワイシャツが破けると全身真っ黒の毛で覆われていてなんとゴリラになってしまった。モデルのように綺麗な女子生徒の足は細く棒のようになりフラミンゴに変身して、私が密かに憧れていたあの人はライオンになった。顔は人のままのシマウマ。足を組んで席に綺麗に座るゾウ。巨大なニワトリとそれを捕食するワニ。教室の端から端まで首を伸ばして振り回すキリンのようなヘビ。狭い教室に私が今まで見たことのある動物たちや見たことのない者たちが溢れて空間がなくなっていく。それはどんどん膨れ上がって教室が今にも破裂しそうだ。その教室の中でバリアでも張られているかのように委員長と保健委員は私が汚してしまった床を一生懸命に掃除している。そして一人の女子生徒は自分の席で両手で耳を押さえながら絶叫している。彼女は教室に入った時に目が合った鈴木さんだ。なぜこんなに鈴木さんが気になるのか。なぜか。なぜ。なぜ。視界がぼやけていく。なぜ。彼女は確かあの日給食当番だった。私はあの日、自分の牛乳をこぼしてしまい、フラミンゴになった子がダイエットしてるって言うから彼女の分の牛乳をもらってそれを飲んだんだ。一口飲んで変な味がした。あれはフラミンゴの子が仕掛けたのか。いや。この時も私は鈴木さんと目が合った。彼女は目を見開いて驚いたような顔をしていた。フラミンゴが飲むはずだった牛乳を私が飲んだから。私は。偶然巻き込まれた。だけ…
ルナは思い出す。ルナは給食の時間に変な味のする牛乳を飲んだ。そして腹痛になりトイレに行った。委員長と保健委員が呼びに来てくれた。その時は痛みはだいぶ治まっていた。教室に戻り授業を受けた。本調子ではなかったがなんとかなりそうだと思っていた。しばらくするとまたお腹が痛くなっていった。授業は残り五分ほどだった。好きだった人に授業中にトイレに行くのを見られたくなかった。もう少しで授業が終わるのだから我慢しようと思ってしまった。それが間違いだった。痛みが増していき意識を失った。保健室で目を覚ました時、新しい下着とジャージのズボンを履いていた。母が迎えに来て家に帰った。これが正しい記憶。これじゃあ何をしてもあの学校には戻れない。ルナは無理に記憶をこじ開けたことを後悔した。恥ずかしさに悶えて死にたくなった。枕に顔を埋めておもいっきり叫んだ。喉が枯れるまで叫ぶとルナはベットから出て、転げ落ちる勢いで階段を下りリビングにいる母に「お母さん、私転校する。もう笑っちゃうくらい情けなくてあの学校には死んでも行きたくないわ。ごめん。ちょっとお金の面とか迷惑かけますけどよろしくお願いします」ルナはそう言って頭を下げた。
母は急に早口でそんなことを言われて驚いてしまったが、ルナの開き直ったように清々しい顔を見たら自然と顔が綻んでいた。
「わかったわ。そうしましょ」優しい笑顔でそう言ってくれた。
ルナはそれから牛乳と動物園がトラウマになってしまったが、普通に学校に通えている。明晰夢を見たいとは露ほども思わなくなった。夢で自由に動けたからって何になるのやら。起きてしまった出来事は無しにすることはできない。嫌なことからは逃げてしまえばいい。夢はただの記憶と妄想の世界。
「おはよ」ルナは言う。「おはよう」母は言う。
全ての人に朝が来て、それぞれの一日が始まる。
明晰夢を見る方法 浅野ハル @minihal
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