私は星になりたかった。

私は人魚になった。



暑い夏の夜。鎌倉の少し淀んだ海の砂浜で私は一人しゃがみこんだ。

夜空に輝く星の輝きは綺麗で、空に浮かぶ満月は海に月光を落とした。

私の肌や砂浜は月光でほのかに照らされていて、青白く光っている。

波の音、風の音、動物の鳴き声。

街の光は全て消えて、街は眠っている様だった。それは今日だけでなく、少し前からずっとだった。少し前からこの街からは人が消えた。古い建物があった場所は全て更地になっていた。

建物が消えて、少し先に鎌倉の大仏が薄っすらと見える気がする。気のせいかもしれないがなんとなくそんな気がした。


私は海辺でずっと一人だった。街から人が消えてから私はずっとここで一人だった。なぜ街から人が消えていってしまったかは知らない。朝、ずっと遠くにある家で目覚めたら街から人が消えていた。

私は長い間眠りすぎたのかもしれない。

食べ物を探しに街に出たりもしたが、場所によっては街は跡形もなく消えていた。高台の上の粉浜辺からはずっと向こうにある、少し崩れかけた民家の中になら食べ物があった。

勝手に持っていくのはすごく申し訳なかったが、私が生き延びるにはこの他なかった。

その民家は運良くドアが壊れていた。ドアどころか玄関が壊れていた。屋根が上から潰れてしまっていた。民家の中の柱もところどころ歪み、曲がっていて、場所によっては折れていた。


サバ缶を開く。少し錆びた蓋。棚がないので浜辺に置きっぱなしだった。潮風で錆びてしまったらしい。ギギギ、缶が開くときの音が錆のせいで少し耳障りな音を立てた。サバの缶詰であることは分かっていたが、味までは知らなかった。見ると、透明な液体に浸ったサバ。どうやら水煮のようだった。

もともとは缶に書かれていたようだったが、缶の周りのシールの塗装が少し剥がれかけて白っぽくなっていた。サバという文字は大きな文字だったので恐らく誰でもわかるであろうサイズで書かれていた。

少し外の温度で温くなった水煮。箸を持ってきてしまうのは流石に気が引けてしまって箸がなかったので親指と人差し指で摘んで口に運ぶ。程よい塩味と油の甘み。普段ならマヨネーズをかけたくなったかもしれないが今はそんなことを言ってはいられない。


「ごちそうさまでした」

静かな海岸に私の声だけが響く。缶と蓋がぶつかり合う金属音。昔は聞こえなかったけれど今日ははっきりと聞こえる。小さな音ですら全てはっきりと聞こえる。

水面を跳ねる魚の音。そよ風の音。木の実が落ちる音。鳥が飛び立つ音。

自分の呼吸の音や心臓の音まで全てはっきりと聞こえた。いつもの聴力の三倍ぐらいになってしまったみたいな気分だった。



砂浜に寝転んでふと思った。

夜は何回目だろう。

たまに地面が揺れて雨が降って、高い波が来て。

そのたびに高台に走って。

海と鬼ごっこしている気分で、何もないこの日々の中で唯一の遊びだった。

海も私と遊ぶのに飽きたらずっとずっと向こうに帰っていく。

そしてまた海は私と遊ぶために地面を揺らして私を呼びに来る。グラグラと地球の内側から大きな力で私と砂浜を揺らす。

海は結構寂しがり屋さんのようで、一日の中で結構しつこくやって来るときも少なくはない。私を一日に何回も呼びに来る。私はその度にそんなにしつこくするなら私を向こうに連れて行ってくれればいいのにと思う。


もし私が走らず、待っていたら向こうに連れて行ってくれるのだろうか。

私は空に手を伸ばして星を手で仰いだ。

眩しい星。名前は知らない。名前なんてないのかもしれない。


そういえば母が昔言っていた。

「眩しい星は孤独に見えるけれど、実際は輝きが眩しすぎるだけで周りには小さな星がたくさんあるのよ」って。

私は今は孤独だけど星になれば孤独じゃなくなるのかもしれない。

私は星になりたい。星になって、他の星と一緒にいたい。私だって海と同じように一人ぼっちは大嫌いだ。私だって輝きたい。誰かが砂浜に寝転びながら眺める星になりたい。

銀河の片隅でもいい。ひっそりと小さな星でもいい。私は星になりたいのだ。




地面が揺れた。海が近づいてくる合図だ。私のところに海が来る。

いつもなら追いかけっこをするけれど、なんとなく今回は捕まってみたい気持ちになった。捕まって、海が帰っていくときに一緒に私も海の向こうに連れて行ってもらおうと思った。

私はウトウトとして眠い目をこすりながら海のことをここで待つ。海に捕まってもっと向こうにさらってもらえるように。


ごごごごご。足の先の少し向こうにある海が泣いている。

大きな海の壁が私を抱きしめようと迫ってくる。

私の身長よりずっとずっと高くて大きな海。海が私を抱きしめたがっている。

なんとなく私は眠りに落ちかけながら手を伸ばした。早く海の手のひらに触れたくて手をのばしたのかもしれない。眠気で意識が朦朧としてくる。

足に海が触れる。指先に海が触れる。上から海が降ってきて私を抱きしめる。

目を開くと目に塩がしみて歪んだ星が海越しに見える。


「おやすみなさい。また明日」

私はまた目を閉じた。




私は人魚になった。

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月ヶ瀬千紗の短編集 月ヶ瀬 千紗 @amamiya_rain

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