孤独の妖精姫

冬城ひすい

現実と物語の狭間

放課後の校舎は朝ほど活気に満ちてはいない。

朱にほんのりと淡い紫とオレンジ色が混ざった夕陽が不思議な雰囲気を醸し出す。

時折吹奏楽部の練習する音や合唱部の歌う声が届くばかりだ。

中学二年生の常盤歩夢は図書室で係としての役割をこなしていた。


「Cの棚の……ここか」


放課後に図書室を訪ねてくる生徒はそういない。

だから歩夢はいつも本棚の整理に精を出していた。

その時、ふと違和感に目を止めた。


「あれ、こんな小説あったっけ……?」


一冊だけ他の本に比べてほこりを被った小説を手に取った歩夢は本の表紙に目を向けた。


「【孤独の妖精姫】? 聞いたことないな」


その言葉に反応するようにぱちぱちと電灯が明滅する。

すぐに見慣れた図書室の景色が暗転し、次の瞬間には真っ白な部屋で膝をついていた。


鼻を刺す消毒の匂い。

かすかに花のようないい香りもする。


「――ねえ、君は誰?」

「え――」


ぽつんと置かれたベッドの上には一人の少女が座っていた。

背中に絹のように艶やかな黒髪を流し、夜空の瞳を持っている。

その様子に歩夢はごくりと喉を鳴らした。

それほどにこの少女は幻想的な儚さを纏っている。


「あの、聞こえてる……?」

「ああ、うん」


歩夢はそこでようやくこの場所が病室であると認識する。

同時に花の香りの原因はこの少女なのだと気づいた。


「僕は常盤歩夢ときわあゆむって言うんだ」

「あゆむ……くん。私は月城つきしろあやめ。どうやってここに入ってきたの……?」

「ええと……小説の中から?」

「ふうん」


あやめはベッドから降りると覚束ない足取りで歩夢に歩み寄り、そっとしゃがんだ。


「不思議……。君と会うのは初めてのはずなのに、心がぽかぽかする。なんでだろう……?」

「そ、それは分からないけどさ。ここがどこだか分かる?」

「それは――」


あやめは言葉を紡ごうとするが、なかなか声に出せないでいる。

その様子から、とある一つのことが浮かび上がる。


「もしかしてあやめも知らないの?」

「よく分からない気持ちなの。さっきまでは覚えていた気がするけど、今はどうしてこんなに真っ白な病室にいるのか分からない。ここを知ってるけど、知らないの」

「なんだか変な感じだね……」


歩夢の持ち合わせている言葉ではそれしか見つからなかった。

なぜなら歩夢自身、ここがどこかを理解できていないからだ。


「じゃあ、あやめが覚えていることはない?」


その言葉にあやめはこてん、と首を傾げる。

そして歩夢の手を取り、その部屋で唯一の窓に手をかける。


「私が覚えているのは私の名前と君と会ったことが初めてじゃないかもってこと。あとはここから見える景色がとっても綺麗ってことくらいかな」

「わあ――!」


目の前に広がった一面の草原に歩夢は感嘆の声を上げる。

美しく萌え出た緑の芽。

柔らかく包み込むような太陽の光。

点々と小さな集団をつくる小花の数々。

そのすべてが合わさって一つの絶景を作りだしていた。


「あゆむ……くん」

「言いづらかったら歩夢でいいよ。僕もあやめって呼び捨てにしちゃってるから」

「歩夢……。うん、こっちの方がずっとしっくりくるね」

「実は僕もあやめって言葉にしっくりきてるんだ」


互いが互いの名前を以前に口にしたことがあると感じ始めていた。

どちらも記憶にはないが身体は覚えている、そんな奇妙な感覚だ。

あやめは歩夢の言葉に頷くと一つの提案を持ち掛ける。


「歩夢。私は自分が誰で君とどこで会ったのかを知りたいの。協力してくれないかな?」


無類の本好き――言い換えれば物語好きな歩夢の内側からふつふつと言葉にできない気分の高揚が湧き上がってくる。

それは子供の頃にだけ見られる正義のヒーローへの憧れや翼で空を飛ぶといった憧れに近い。


「――うん。僕も君のことを知りたい。だから力を貸すよ」

「ありがと、歩夢」


もう一つ、歩夢の胸にはとある感情がむくむくと育っていく気配があった。





ぴぴぴぴっ、ぴぴぴぴっ


耳元で目覚まし時計の音が鳴っている。


「……うる、さい」


ぱん、と思い切り目覚ましを叩くとアラームが止まる。

重い瞼をこすり、ベッドから起き上がるとぼんやりした頭で思い返す。

歩夢の眠気が消えていない理由は放課後の出来事を思い出し、考えていたからだ。

そんな歩夢を嘲笑うようにベランダでカラスがかあかあと喚く。


「まったく……」


歩夢はリビングに行き、黙々と一人の朝食を終えると身だしなみを整え、制服を着る。


「今日の放課後も図書室に行こう」





キンコーンカンコーン


昼休みのチャイムが鳴ると別のクラスから一人の生徒がやってくる。

狼のような凛々しい顔立ちをした男子生徒であり、歩夢の友達である。


「歩夢! 一緒に飯食おうぜ!」

「ああ、いいよ」


生徒は屈託のない笑顔を浮かべながら歩夢の前に座る。

手には大きな二段弁当を抱えていた。


「……春翔は相変わらず、そんなに食べて平気?」

「もちろんだぜ。食った分は動けばいいんだ。むしろこの~……」

「循環?」

「そう、それそれ。その循環を大切にしてるんだよ! っていうかお前は相変わらず言葉知ってるよな。俺も小説読んだらそうなれるか?」

「それはその人次第じゃないかな。ただ文字に目を通しただけじゃあんまり意味ないと思う。夢に出てくるまで読み込んで初めてってところじゃない?」

「まじか……」


露骨にしょげ返る春翔に歩夢は励ましの言葉を用意する。


「あ、でもさ、春翔が本を読んでる姿ってあんまし想像できないから、今のままでもいいと思う!」

「……励ましに見せた追い打ちだな。まあ、俺は生まれてから今まで絵本すら読んだことねえからな! その代わりスポーツは万能だぜ?」

「……そこは認める。僕がどう足掻いても勝てないよ」

「だろ!」


犬上春翔いぬがみはるとは常盤歩夢の小学校からの親友である。

スポーツを得意とする春翔と読書を得意とする歩夢。

一見相性が悪そうに見えるが、実はかっちりとハマる歯車のような二人だった。


持参した弁当を頬張り、雑談が落ち着いたところで歩夢は昨日の放課後に起きた不思議な出来事を思い出す。

すべては明かせないと考えた歩夢はもし、という仮定として話す。


「もし春翔が本を開いたら知らない病室に知らない女の子といて、その子が『会ったことがある気がする』『わたしの正体とこの場所がどこなのか知りたい』って言ったらどうする?」

「それって、アニメとかの話?」

「そうかも」

「まあ、俺だったら目の前で困ってる女子がいたら手を伸ばすよな。でもお前が言った状況なんて起きっこねえよ。だから夢だって割り切って向き合うかもな」

「普通、そうだよなあ」

「なんだなんだあ? 今日のお前は歯切れも悪いし、大丈夫か?」


歩夢はやはり他の人には話せないと考える。

春翔は怪訝そうな顔をしつつもそれならばと、ある提案を持ち出した。


「気を悪くしないで聞いてほしいんだが、お前んちの母親って入院してるんだよな?」

「うん、そうだよ」

「もし悩んでるんなら俺よりも大人その人に聞いてみろよ。きっと解決するぜ?」

「そうしてみるよ。ありがとう」

「おうよ!」


一週間に一度、母親の見舞いに行く習慣のある歩夢は、明日がその日だった。





「待ってたよ、あゆむ」


その日の放課後、歩夢が本を開くと窓枠に腰掛けたあやめがいた。

セミロングの黒髪が風に揺れている。


「夢じゃなかった……」

「ひどいなあ。わたしとの出会い――ううん、再会はそんなにいやだった?」

「そ、そうじゃないんだ! ただどうして小説を開くとここに来れるのかって不思議に思ってたんだよ」

「へえ……何か分かった?」

「実は友達――春翔って男子にそれとなく聞いてみたんだけど、こんな出来事は起こりっこないってさ」


純白の病室の中には花の香りが満ちている。

爽やかとも甘やかとも取れる穏やかな香りだ。

窓の外に広がる草原を背景にあやめは頷いた。


「だよね、やっぱり。わたしも色々と考えてみたんだ。そしたら――何を思い出せたと思う?」

「勿体ぶらずに教えてほしい。僕はこの場所のこと、そしてあやめのことを知りたいんだ」

「ふふ、じゃあ教えるね。わたし、この病室は君の学校に一番近い病院の一室だと思うんだ」

「ちょ、ちょっと待って! ここは夢じゃないけど現実でもないよ! 窓を開けたら視界一杯の草原なんてさ!」


慌てる歩夢の様子を見守っていたあやめはそっと指を伸ばす。


「あそこ、見て」

「――あッ!」


あやめが示した病室の壁の片隅には笑顔に見える染みがあった。

それは歩夢にとって見覚えのあるものだ。


「母さんの病室にあったのと同じ……」

「歩夢のお母さん、病気なの?」

「うん。生まれつき身体が弱い母さんは僕を生んでからもっと具合が悪くなったんだ」

「ごめんね」

「ううん。この染み……特徴的だから覚えてたんだ」

「ならきっと歩夢のお母さんが何か知ってるんじゃないかな? わたしもあと少しで全部思い出せそうなんだ……」

「春翔と君に勧められたからなあ……うん、少し早いけどこれからお見舞いに行ってくるよ」


あやめがこくりと頷く姿を見た次の瞬間には、歩夢は現実に戻っていた。





鼻を刺すような消毒のにおい。

かすかに花のようないい香りもする。

歩夢は何百何千と見舞いに来ていた病院の一室を、今更ながらにあやめのいた病室のように感じていた。


「母さん」

「歩夢。お帰りなさい、と言ってもお家じゃないから違うかしらね?」


春風に揺られるタンポポのような印象を与える母親はにっこりと微笑む。

身体つきは細いが、不健康と断定するほど弱ってはいない。

歩夢がベッドの傍まで行き、母親の腕に抱え込まれると照れくさそうに笑った。


軽く挨拶をした後に、最近の出来事を母親に聞かせる。


「まあ、そんなことがあったの!?」

「そうなんだ。そこにはあやめっていう一人の女の子がいて――」

「あやめ……」


母親はその名前を聞くと歩夢の言葉を遮るように何かを思い出す。


「もしかして、その子の名字はムーン――月が付いていなかったかしら?」

「うん、付いてたよ。月城あやめって名前だった!」

「信じられないけど……でも本当にそんなこともあるのかしらね。歩夢、これから言うことをよく聞いてね」


困惑に眉が八の字を描きつつも、母親は信じられない言葉を口にする。

それに歩夢は一際驚いたのだった。





玄関の扉を開けると真っ暗な闇が歩夢を寂しくさせる。

だがいつもとは異なり、固く握りしめた小説を片手に自室へと駆け上がる。

学生鞄をベッドの足元に放ると部屋の電気もつけずにそっとページを開いた。





「あやめ!」


いつもの時間帯ではないからか、あやめの姿は病室になかった。

この世界は現実と時間の流れも同じだ。

開け放たれた窓に半透明のカーテンが静かに揺れている。


「もしかして!?」


歩夢の脳裏にはあやめが外で倒れてしまっているのではないかという想像が浮かぶ。

胸を駆ける焦りが身体を突き動かした。


「あやめー!」


歩夢が窓から夜の草原に飛び出すと、すぐに青い月が幻想的な光で冷たい色どりを与える。


――その時だった。


草原に倒れている人影を見つける。


「あやめ!?」

「ん……にゅ」


奇怪な音と共に目を覚ましたあやめは歩夢の顔を見ると一瞬固まった。

そしてすぐに視線をそっぽに向けてしまう。


「ど、どうしてこの時間にこの場所に……? 私の寝顔、見たよね……?」

「そんなことはいいんだ! 僕は、僕は本当に心配したんだぞ……! もしもあやめがどこかで倒れてたらって!」


歩夢の大きな声が遮る物のない夜に響きわたる。

それはあやめのことを心から思っての行為だった。


「……ごめんね。私、歩夢を心配させた」

「いいよ。僕も感情的になってごめん……」


再び静寂を取り戻した夜に歩夢は切り出す。


「この世界のこと、あやめのこと、全部分かったよ」

「聞かせてくれる……?」

「もちろんだよ」


どこからともなく蛍が飛び立ち、いつの間にか星が流れ始めた。

二人の間にはわずかな距離しかないが、それは同時にとても遠い距離でもある。


「この世界はやっぱり僕の開いた小説の世界だったんだ。タイトルは【孤独の妖精姫】。そしてこの物語の主人公は月城あやめ――ううん、妖精の少女・アイリス=ムーンだよ」

「あいりす、むーん……。本当だ、確かにこの名前を私は知ってる気がする」

「アイリスは小説の世界で病弱な女の子で、他の妖精たちが綺麗な街並みを歩いているのを見て、”一度でいいから同年代の子たちと遊びたい”と思っていたんだ。でも途中で陽光と妖精たちの活気に呑まれて具合が悪くなる。そんな時に手を差し伸べてくれたのが妖精たちが住まう世界で少数派だった人間の男の子だったんだ。その男の子がただアイリスの話し相手になってあげるっていうオチのない話だよ」


それを伝えるとあやめ――アイリスの夜闇を凝集したような黒髪が美しい金髪へ、黒瞳も青瞳へと変わっていく。

そして最後にガラスのように透き通った羽が背中に生えた。

草原に佇む少女はまさに妖精と呼ぶにふさわしい姿になっていた。


「全部、思い出した。私はアイリス。そっか……そうだったんだね……」


アイリスは歩夢の背に手を回し、優しく抱擁した。


「私はもともと病弱な歩夢のお母さんが自分の寂しさや辛さを分かってほしくて描いた絵本の妖精だったんだ。彼女は歩夢にそれを見せるつもりはなかったんだろうけど、君が小さい頃に意図せず見られて気に入っちゃったんだ。複雑な気持ちだったろうけどお母さんはその絵本を小説にしたため直した。それを母校である君の通う中学校に寄贈したんだよ」

「僕も母さんからそのことを聞いたよ。小さい頃、確かに夢中になってた絵本があったんだ。それがアイリスの本で――僕は今物語の中の君とこうして話してる。どうして僕は絵本のこと、アイリスのことを忘れてたんだろう?」


アイリスは燐光を纏いながら人差し指を立て、微笑んだ。


「そう、それが私が記憶を忘れてしまった原因なんだ。あの絵本は彼女を除けばわずかな人しか知らないもの。特に思い入れを持ってくれていた君が月日を重ねて忘れてしまえば、認識してくれる人が減って物語の私の記憶も消えるっていう影響が出たみたい」

「僕がいるこの不思議な世界も僕の母さんが?」

「うん、きっとここは君のお母さんが思いを込めて書いてくれたからあるんだ」



「ふふふ」「あはは」



二人の間にむずがゆくなるような笑いがこぼれた。

この不思議な出来事は決して夢ではない。

現実と地続きの物語なのだ。


「アイリス」

「どうしたの、歩夢」


「僕が君のことを好きだって言ったらどうする?」

「それは病弱な妖精――それも物語の中の私に?」

「そうだよ。僕は君と話す時間は少なかった――ううん、僕が忘れていただけでもっとかもしれない。不治の病にかかっても生きる意志を曲げなかった君に――優しく微笑みかけてくれた君に、僕は誰にも言えない恋をしたんだ」


「――もう、忘れないでいて。私も二度と忘れないから」


現実と物語が入り混じるこの境界の地で、人間の少年と妖精の少女がもっとも幸福なひと時を紡いだのだった。

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