引退師

結騎 了

#365日ショートショート 111

 男は「引退師」として名を馳せた。

 人には皆、相応しい辞め時がある。プロ野球選手がバットを手放す、ボクサーがリングを降りる、アイドルがマイクを置く、社長がその座を譲る……。地位と権力、そして富に捕らわれた人間は、そう易々と辞めることができない。分かっていても決め切れず、すがりつき、もがき、ある時は手を染め、そうして惨めな姿を世間に晒してしまう。

 だからこそ、男の商売は単純明快だった。「あなたの辞め時を私が決めます」。無尽蔵の専門知識を武器に、数々の業界の動向を完璧に読み切り、最適なタイミングを提案する。それが「引退師」の事業であった。事前に契約書を交わし、それで一旦は終了。緻密なシミュレーションの果てに、男はある時、契約者の肩を叩く。それに従わない場合は、億単位の違約金が発生するのだ。しかし、逆らう顧客はほとんど存在しなかった。男の圧倒的な実績がそれを可能にした。契約者の多くは不自由ない「次の人生」を歩んでいたからだ。地位と名誉を担保しながら、むしろ辞め時の的確さが価値を持つように辞める。そんな絶妙のタイミング指定であった。誰にも真似できない、しかし驚異的な確かさを武器に、男は業界唯一の存在として世界的に名を馳せ、生ける伝説となった。

 数年後、男はインサイダー容疑で逮捕された。「医者の不養生」という諺はその地位を追われた。

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引退師 結騎 了 @slinky_dog_s11

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