肖像

 この街に来てから、奇妙な夢を見続けているような、気がする。

 しかし残念なことに、今日は果たしてどんな夢を見ていたのか。全くもって記憶にないのだ。夢や睡眠というものは、人間に限らず動物においてもっとも無防備で危険な状態である。もしも仮に、この街の不可思議なエネルギーがそこに作用していたのならば、俺にはきっと成す術もないだろう。

 ぼんやりと窓の外を眺めていれば、ふと天井から影が落ちてくるのを感じる。慌てて振り払うように投げ出された手は、何に触れるということもないままで、すとん、と落ちた。……大きな手のような影だった気がするのだが。どうやら、俺も随分と参っているということらしい。

 見慣れた木製の扉を開けて、いつものように周囲を見渡す。

「本日はどちらへ?」

 相変わらず、か。

 俺が起きるタイミングを完璧に把握しているらしい紅太郎さんは、道化師の面をつけているようにいつもと変わらず口角を上げて、薄く目を開いている。

 だめだ、動揺してはならない。落ち着け。

 体中から脂汗がふきでてくるし、鳥肌は収まるような気配がない。

「そう……すねぇ」

 できる限りの精一杯の取り繕いをするほか、今この瞬間の俺に選択肢は残されていない。

「今日は、三階にお邪魔しようかな、と」

 紅太郎さんは、それならば、あちらの階段からどうぞ、とつまらなさそうに言葉を紡ぎ、そのまま去ってしまった。好都合だ。

 ……思う存分調べさせてもらうとしよう。

 仕事道具の詰まったショルダーバッグの肩ひもを強く握り、相変わらずじめじめとしていて少しぬかるんでいる階段へ一歩、一歩と踏み出す。入り口から二階の居住区へ上がる階段は、長く緩やかなものであったような気がするが、この階段はそれとは違って、壁をくりぬいて作っているせいなのか急で狭い。少しでも油断すると衣服に泥がついてしまいそうだ。そうならないように、と慎重に足を進めていく。

 たどりついた先には、無数の絵画が飾られているようだった。

 この街にやってきてからたびたびこのような絵画を見てきたが、いったい何の意味があるのだろう。

 鞄から一眼レフを取り出し、ファインダーからその絵を覗き込み、そしてシャッターをきろうとして、そしてやめた。

「なんなんだろう、これは」

 一際大きく飾られている絵画には、頭がなく、大きな手のひらには人をたやすく呑み込んでしまいそうな口が、舌が、ついている。白くて弾力のありそうなぶよぶよの肌、大男のような見た目。見ただけで、何か胃から込み上げてくるような不快さがあって、俺はその場で吐いてしまった。酸っぱくて気持ち悪い味が口の中に広がって、思わず涙がこぼれた。

 世の中には、知ってはいけない類のものがある。

 たとえば、これだ。

 歪む視界の中で、絵画の題を読めば、そこには「壁の神と壁の檻」と書かれていて、その絵に描かれたおぞましいものが、例えば壁神様とあがめられている〝トウリ〟だと考えると、記憶にあるあの子の姿が歪み、顔もないのにしゃべりだす。

「ああもう! 黙ってくれ!」

 無意識だった。持っていたカメラをその絵に、しかもそう遠くない距離から投げつけてしまった。ガッシャン、ドゴ、とでも表現できそうな激しい音が鳴ってようやく我に返る。やばい、と思った時にはもう手遅れだった。使い続けていたカメラは、見るも無残な姿へと変貌してしまい、かろうじて中のフィルムだけが体内に隠されたままだ。恐る恐るそのカメラに触れれば、唾液のように、どろりとした粘液が付着している。絵画を見上げると、先ほどの口から何かがたら……と出てきていた。

 もう、うんざりだ。

 早く目的を果たして帰らなければ。

 俺の足は、もう引きずられるがままだった。その絵から目を背けるようにしてきた方向へと踵を返せば、そこには見覚えのない物の塊が出来ているのが見えた。いや、俺はその物に

 駆け寄って、その中の一際大きな荷物を引っ張りだして、中を覗き込む。

 間違いない、これが探し求めていた『日向栄助の手帳』だ。衝動を抑え込んで、慎重にその留め具を外せば、そこには確かに彼の筆跡が連なっている。仕事や打ち合わせのスケジューリング、そして、俺の何かが動き始めてしまったあの日には、「二〇:〇〇 一条要 依頼」と記録されている。

 当たり障りのない日記が綴られているページを飛ばして、その手帳の最後の方を見る。すると、そこには、彼が普段使うことのないだろう筆のようなもので書かれた「一条へ」という殴り書きのページがある。

「一条へ。これを見つけた頃には、俺はこの世にいないだろう……というのは冗談だが」

 ふざけるんじゃない、と心で彼に平手打ちをし、俺は文字を目で追った。


 ***


 一条へ

 これを見つけた頃には、俺はこの世にいないだろう。

 というのは、冗談だが正気でいられる時間はそう残されていないらしい。というのも、気を抜けばすぐに罪悪感を煽られて死にたくなってくるのだ。俺の背後には、妻と娘がいて、絶えず話しかけてくる。人でなし、家族のことを見殺しにした、卑怯者、父親失格……ありとあらゆる罵詈雑言が聞こえてきて、それを俺の命をもって償え、と言ってくる。

 今、こうして冷静に文字にしている時だけが声から逃れることが出来るんだってことがようやくわかった。しかし、この世にいない状態も、本当になってしまうかもしれない。それくらいに精神的に追い込まれているのがわかるんだ。不思議だよな、一条。お前は今平気か。

 しばらくずっと居て、わかったことがある。

 壁神様と呼ばれる少年……お前も会っただろうか。どうやら、俺が不調をきたすようになったのは、彼の手が原因らしい。彼の手は、人間の悪意を貪り食う手なんだ。聞き覚えがあるだろうか。この街は、慈悲と調和と善の街。そこにいる壁神様というのは、善の神というのがこの街の言い伝えだ。しかし、実際にはそうではない。

 この街にいるのは、悪意を食べる悪の神だ。そうして負の力を集めている。それが神の正体なんだ。ではなぜ、その神の依り代として子どもが選ばれるのか。子どもを人柱とすることで、村人の罪悪感を生み出し、それを神が食べているんじゃないのか? そして、すべての真実を知っているのは、この街でただ一人。

 司祭である紫彩。人柱の少年、彼の双子の兄という存在。

 彼だけがただ一人、明確な悪意と罪悪を抱いて、神に仕えている。

 壁の街は、悪意をささげることで恵をもたらしている。そういう〝御恩と奉公〟なんだ。だから、この街にやってきた者は、罪の呵責に耐えかねて自死を選ぶか、悪意を取られて善に染まりここの住人となってしまうかの二択を迫られる。それさえ、俺たちの自由はない。審判が下る。壁神様の審判がな。俺は、前者だったらしい。だから、少しでも考えるのを止めると、今すぐにでも死んでしまいたくなる。お前はどうだろう。一条、お前だったらもしかするとどちらでもなかったりするのか?

 もっと調べようと思ったが、俺はもうどうにかなってしまいそうだ。

 この記録をもって、少年の元へ行こうと思う。こんなに罪で塗れた人間にもわずかなる善意が存在することを証明するために、俺は少年を救おうと思う。あの壁の牢獄から救出してあげたい。お前にも、大変な迷惑をかけた。勝手に巻き込んでしまって申し訳ないと思っている。約束のものと、気持ちばかりのものをこの手帳の内ポケットに入れておいた。用事が済んだら抜き取ってくれ。

 それと、重ねて頼む。

 もしも、お前がこれを見ているときに、俺がその場にいなくて、少年も助かっていないのなら……あの子を助けてやってほしい。あの子は、もう十年以上も成長しないままであの檻の中にいるのだ。人並みの生活を送ることぐらい、許されていいはずだろ?


 ***


「見つかって、よかったね。手がかり!」

 俺は、すぐさま声のする方へ振り返る。

「トウリくん……」

「ぼく、おにいちゃんの力になりたくって、一生懸命探してきたんだよ」

 ぬちゃ、ぬちゃとという耳に障る音を携えて、トウリは近づく。

「だから、今度はおにいちゃんがぼくに協力する番」

「君を自由にする方法だったっけ?」

「ちがうよ、神さまに怒られないようにするんだよ?」

 この時を待ちわびていたとでも言いたそうに楽し気な顔をして、トウリは俺の手を掴んだ。

「……トウリくん」

 だめもとでも、彼の良心に訴えかけようと、俺は少し身をかがめて、彼を視線を合わせる。

「なあに、おにいちゃん?」

「一緒に、この壁の街を出よう。この街は普通じゃない。君がたった一度きりの、君だけの人生を無駄にしていい場所じゃないんだ」

 あわよくば。そんなことを心に浮かびかけて、すぐさまそれは振り払われた。

「できないよ、そんなこと。何をいっているの」

 目の輝きが、突如として一面の蒲公英を思い出すような黄色へと変化していく。トウリは、それにね、と念を押すように重苦しい声で、俺を説き伏せようとしてきた。

「ぼくは、シサイを置いていくようなことはしない」

「それは、なぜ」

「おにいちゃんの善意は伝わるよ。ぼくをかわいそうだって思ってくれているんでしょう?」

 生唾を飲む。

「でも、シサイは、良い子だから」

 目の色が、空中に溶けるようにして元の色へと戻っていく。彼は、はらりと浴衣のような衣服をクラゲのようにはためかせてそして、優しく子供を諭すような言葉でつづけた。

「それに、カナメお兄ちゃんも……もう出られないよ?」

 トウリは、俺を突き飛ばした。

 突き動かされるようにして、俺はその場から駆け出した。

 ぬかるみに足を取られそうになる。どうにか右足で支えて、一歩、また一歩と前へ進んでいく。階段を飛び越えて、風を切る音が呻りのように聞こえてくるはず。それすら聞こえないままに俺は進んで、進んでいった。

 ぴち、と水滴が落ちる音とともに、我に返る。 

 目の前に広がったのは一面の闇だった。

「はは……そんなまさか!」

 勢いに任せて俺はその闇に体当たりをする。しかし、さわさわと土が薄くはがれるほどでびくりともしない。もう、ここには入り口も出口も存在しなかった。

「お兄ちゃんは、悪意から逃れるしかない。ここから出るには、そうするしかないんだよ」

 いつの間にか、近くにしゃがみこんでいるトウリは、にっこりと不気味に笑って、そしてうっとりと頬杖をついている。

「ここは、慈悲と調和と善の街、なんだから」

 俺の中で何かが崩れていくような感覚が訪れた。胸を締め付けられて、息苦しい。周囲の景色が定まらず、メリーゴーランドに乗っているみたいに視界が乱れていく。息をしなければならないとわかっているのに、悲鳴のような浅い呼吸が繰り返されるばかりだ。縋りつくように俺は目の前の土を掴もうとして、そして空ぶってしまう。

「お兄ちゃんも、ようやくこの街の住民になれるね」

 その声は、もう俺には聞こえていないのだろうと、感じて体は地面に落ちた。

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信仰と檻 夜明朝子 @yoake-1201

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