Episode 09:あまい、
「何が不満なんだ、結局」
八月も指折りになった金曜の午後。野暮用で大学に出てきたオレと水落は学食のテラス席にいた。席でいつもの様にふんぞり返った水落は、あくびを噛み殺す。頬杖を付いて、オレを見遣る視線は眠気というより、面倒なものを見る目をしている。
図書館で課題を広げたものの、まるで手に付かなくなったオレは先日の出来事を零した。水落はくーっと唸った後、後頭部を掻いて脱力ながらに「相談は有料になりました」と不遜な顔で言いやがった。
真向かいへ腰を下ろすオレは水落の前にカツカレーの皿を無骨に置く。勿論、奢らされた。
「ボン、今更怖気づいたなんて言うなよ? お膳立てはしてもらったんだ、ここまでしてもらってお前、まだひねた態度取るって言うんなら手に負えねーぞ」
「べ、っつに……、だから、そもそも、……」
落ち着かないオレは訳もなく、親子丼のねぎを箸で突いた。
アドバイスは欲しいけど、説教はされたくない。わがままなのは承知だ。
「『オレは好きじゃない』。まだ言う? お前、あれだろ、どうせ高橋帰った後でマス掻いてたクチだろが」
「……ッ、あ、あの、なあ……!」
直下型爆弾落とした水落は臆するまでもなく続ける。
オレの唇がぱくぱく動く。
「嫌なら突き飛ばしてでもやるべきだったな。しねえの解ってるけど。脳垂れてないで、さっさと抱かれて来いよ、男だろ」
ぺらぺらと述べたら、スプーンを手に「戴きます」と手を揃え、今度は目も留まらぬ速さでカレーを平らげ始める。
腹が減っているから短気なのか、オレの肝の小ささに腹を立てているのか。きっと後者なんだろう。
「怒ってンの」
呟いた声に一瞥だけが返る。特に返事もなく、水落は手を止めない。
観念してオレも丼に手を付け始めた。
食べている間、水落は無駄話をしない。いい加減さの合間に見える躾や振る舞いの良さは可笑しくて、だからこそ魅力的に映える。
次の言葉を得られるのは、やっぱり皿が綺麗に片された後だった。
「怖い怖いって眺めてるだけじゃ、欲しいもんは手に入らんぜ。言うなればお前、期限付きの無料券持ってるんだ。躊躇してたらどうなるか、想像は易い。……だろ?」
「何でなんだろ、な。オレもわかんねーよ、正直。なんで、ダメなのか、とか」
出来るもんならやってるさ、という具合だった。減るものじゃなし。食器を重ねるオレを横目に、水落は溜息を吐いた。
トレーに乗せた食器を返却口へ戻しに行こうとするオレの手からそれを奪って行く。戻ってくると、オレの袖口を引っ張ってずかずかと歩き出した。
「水落、何処行くんだよ。まさかふける気?」
入り口、門構えの側まで早足は続いて、門壁に追いやられる。
じ、と合わせる視線。訝しんでいたら、何気なく唇を重ねられた。軽く啄ばんでおいて、水落はふん、と鼻で笑ってみせた。
「避けないでやんの。バカだね、ボンは。……近いんだろ、行って来い。当てが外れたら戻ってくりゃいい」
「……無茶振りしやがって」
ほれ、と背中を押されて敷地外へ放り出され。
戻って行く水落の背中を見送りながら気づく。
何が近いって? ……気づいてたのか。
あの日風にさらわれたオレの言葉は、いつの間にか埋め合わされて正しく認識されていたらしい。そういうところ、本当に抜け目がない。
戻ったら冷やかされるんだろう。仕方なく一歩と、アスファルトを歩き始める。
まだ、夏休みは終わっていない。確か、盆から2週間は休みが取れるような話を聞いた覚えがあった。そうだ、去年の夏のことだ。
公衆電話の脇を通って、ふと一報だけでも入れておくべきかとも思いつつ。足がそれを無視した。
……ところで何階だったっけ。
そんな初歩的なことに気づいたのが、ロビーへ辿り着いてからだった。腕時計を一瞥する。午後二時。
ポスト前の天井隅にご丁寧に監視カメラがあった。不審者になるのは避けようがない。やっぱり公衆電話に寄るべきだった、と踵を返そうとしたその時。
近くエンジン音が聴こえた。駐車場へ一台の車が駐車するのが見える。――高橋の車だった。
訳もなく逃げ出したい衝動が込み上げる。脈が跳ね上がるのがわかる。逸る気持ち裏腹、体が頑としてその場を動こうとしない。ロビー下の階段を上がって来る高橋へ、情けなく半身背けて立ち尽くす姿を曝す恰好になった。
「………何してるんだ、そんなところで。もしかして、待ったか?」
そんな何気なく偶然を喜ぶみたいな声で話しかけるなよ。
可愛げもくそもあったもんじゃない、そんな言葉が浮かぶけれど、口にすら出せないぐらい体は硬直していた。馬鹿馬鹿しい。
セカンドバッグを脇に挟んだ高橋が傍らへ並んで、悪びれずオレの肩へ手を置いて。
顔を覗き込んでくるから、否応にも目が合う。
「どういう顔だ、それは。面白いやつだな、お前」
来いよ、と笑って腕を引かれるままに歩いた。
どんな顔をしていたんだろう。自分でもよくわからなかった。きっと、それはそれはおかしな顔だったんだろう、か。
エレベーターへ乗り込んだ後は、自分で歩いた。
「休みだと思ってた、出掛けてたんだな」
「部活動のな。去年よりは忙しいよ、担任持ってることだし、な」
「ふう、ん。……いきなりきて、悪かったな」
対面式のキッチンで湯を沸かす高橋が笑う気配がする。
マグをふたつ手にして戻って、ひとつを差し出す。
「この間からサプライズ続きだな。俺は構いやしないけど、何があったのかな」
「……なんも」
珈琲の匂いが立ち込めていた。また苦い顔していられる、そういう訳のわからない安堵をしてマグに口をつけてひと口。
オレは目を見開いた。湯面はミルク色。
「……あまい」
「森宮が苦い、苦いって言うから。気を利かしてやったんだ。カフェオレなら飲めるだろ、砂糖たっぷりの」
余計なことを。確かに、甘い方が好みには合っているし美味くはあるけれど、オレは理不尽な怒りを覚えていた。高橋のそういうところが憎らしくて堪らないんだ。
むくれながらマグで顔を隠すようにして甘いカフェオレを味わった。対面の高橋はムカつくほど機嫌が好い。
「部員の二年生が、森宮のことを褒めてたよ。先輩の手前、ずっと言わずにいたけれど自分は森宮先輩の絵が好きでした、ってさ」
「……描かないからな」
「いいよ、描かなくても」
「いいのかよ」
高橋は両目を細めて笑んだ。そんな顔されたら立つ瀬がない。甘いカフェオレと甘い顔をする高橋を前に、苦い顔をしきらない妙な顔をするオレが居る。
「なんで高橋はそんな余裕かましてンだよ。去年は、アンタがうろたえてたクセに」
正直な叫びだった。このパワーバランスは、居心地が悪い。かと言って、今のオレがそれをどうしたら覆せるのかもわからない。
「自覚と、開き直りの精神、かな。あまり、褒められたもんでもないだろうが。……あの頃の俺は、自分の気持ちなんて考えられなかったし、考えようともしていなかったから」
「……自覚、したんだ」
「したね。まんまと嵌められた気分だったよ、冬休み中森宮のことを考えさせられたし。あれは、本当に巧いやり方だな、と思った」
しみじみと言い放つ高橋には余裕しかない。嵌めたわけじゃないのに、それが決定打だったとでも言うように高橋はごちる。
あの時、オレは……?
「オレは、そんな事何も考えてなかった。ただ、もう一度」
「――だろうな、だからこそ”嵌められた”んだよ。お前にとって、それが特別な意味を持たないことが分かってても、俺にはそうではなかった。……挙句、思いの丈を詰め込んだものを手元に残す羽目になった。あの時は堪らなかったね」
「…………」
オレは首を捻った。絵を描いてくれと頼んだ時は何も考えてなかったのは事実だ。だけど、卒業式のその時、受け取れなかったのは決して「何も思わなかった」状態ではあり得ないんだ。
その時、オレは確かに辛かったんだから。
「どうした」
「なんとも思ってないなんてのは、うそだ。あり得ない」
温くなったマグを置いて、席を立つ。高橋の腕を引く。
つられる様に立ち上がった高橋をソファへ押し付けて強引に座らせ、唖然としている上に、跨る。
「オレ、いつから好きなのかな」
遊びだってわかりきってたはずなのにな。思いながら、ぐっと鼻先まで顔を寄せた。理性が、止めてくれ、止めろ、って叫んでいるのがわかる。体中が熱かった。
息のかかる距離で、射るような真っ直ぐな高橋の目にオレはとうとう耐えられなくなって目を伏せた。
不思議だよな。それでも距離を無くそうとする。触れたがったみたいに、自分からキスをした。
「………今は?」
問われて耳がカッと燃えるように熱くなる。
「……き、じゃない、なんて……」
言えるかよ、もはや。好きじゃないなんて。
好きだなんて言いたくないが、嫌いだなんて言うつもりもない。わがままだらけだった。
ずるずると崩れ落ちて高橋の肩口へ顔を埋めた。
高橋の手が頭を撫ぜる。
「大人は狡いんだ。勝算がないのに、追い掛けるはずはない。……というのは、言い過ぎか。臆病風に吹かれ続けたのは、事実なのだし」
「なに、それ。……好きだとか言ってない」
「じゃあ、言う?」
「言わない」
「……いいよ、俺が好きだから」
な、……んだこいつ。なんだこいつ、なんだこいつ。
脳みそ耳から零れ出る、っていう比喩を何かで見たことがあったけど、まさしくそういう感じだった。つまり、恥ずかしいってこと。
意味のわからない論法だった。それなのに、言い返す気にも、否定する気にもなれない。
もう、完全に完敗だった。何を張り合ってるのかわからないけれど。
じれったいぐらいだった。いや、多分オレは焦れてた。
高橋はオレを上に乗せたまま、動じない顔で千紘に叱咤激励されたことをぽつぽつと話している。
手を出す気配なんてない。出して欲しいのかって聞かれたらそうじゃないけど、普通こういう時に冷静で居られるものか。高橋の会話なんて耳に入って来ないオレは、独りで逡巡した。
焦れすぎて、自分から身体を起こして高橋の側を離れて、煙草を咥える。目に付いた先、テーブルの上に置いてあった、高橋の愛煙だ。
「まだ吸ってるのか。身体によくないぞ」
言いながら、咎めるにしては優しい口調で高橋はジッポをカチリと鳴らして開き、火を点けて寄越す。
唇差し出して焦がす穂先、吸い込む煙草の味は、オレの喫むそれより癖がある。
「高橋がやめる、ってンなら考える」
「俺が基準か。難しいな、口寂しさが治らないから」
なんだそれ。肩竦めて苦笑した。俺もと火を点ける高橋の姿を横目に、そういえば嗜むのを知りこそすれ、見るのが初めてだ、なんてことに気づいた。つい、まじまじと見てしまった。
「そういえば、河野が体育大の推薦枠にエントリーしてるよ。夏のインターハイの成績が芳しかったからな、………何見てる」
「ムカつくぐらい、似合うのな」
高橋が破顔する。
再会してから、高橋はよく笑うようになったな、と思う。
その、笑顔の先に居るのがオレ、なのか。
「………高橋」
「うん」
静かに相槌打つ高橋の顔を見据える。
にわかに、視界がぼやけて溺れた。
「オレ、高橋が好きだ」
言葉は囁くように小さく零れた。
なんで、泣いてるんだろう。
せっかく口にした言葉の反応が、見えない。
溺れた視界を拭おうとして、まだ点けたばかりの煙草を手探りに灰皿で揉み消した。
次から、次から溢れて止まらない。馬鹿みたいだ、そう思った。
高橋は何も言わない。何も言わないけれど、沈黙が痛くないことがとても奇妙な感覚だった。
次第に咽喉が焼けるように熱くなって、声すら殺した。
たった一言、それだけに何だってオレはこんなに感情を煽られているんだろう。自分でもわからなかった。悲しくないのに、辛くなんてないのに、本当に、胸が一杯だった。
不意に高橋の手が、オレの肩を抱いた。引き寄せられて、胸に包まれたら、いっそう何かが昂ぶって遂にオレはしゃくり上げて泣いた。
「西海が言ってたよ。『裕は泣かないんだ。泣いてるところは誰にも見せない。でも、誰にも見せないなら、誰の前でなら泣けるんだろう』って。お前にとって、俺が吐き出せる場所になれるのなら、これ以上幸せなことは、きっと無いよな」
あやすような声色で高橋は語り掛ける。
包み込むように頬を撫でた高橋の掌は濡れたに違いない。
そんなことには目もくれないで、オレの額へ、頬へ、唇を寄せた。
まだ輪郭がぶれる視界を、瞬いて払って高橋を見る。
馬鹿みたいに真面目に、オレに付き合ってくれた、オレの先生。
やっと、反抗期を棄てられる。そんな気がした。
腕の中は温かい。そんな当たり前のことを、ようやく、尊くて愛しいと素直に思えた。
そう、素直に。
雨天決行 紺野しぐれ @pipopapo
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