Episode 08:絵を描くということ

 遺品整理に再びと足を運んだ屋敷で、千紘の部屋と蔵、合わせても結構な数のカンバスとスケッチブックの処理に困った。

 棄てるなんて出来そうもない。

 ただ、このままにも出来なくなる恐れが出てきたのだった。

 祖父も祖母もいい歳で、人の手を煩わさずに暮らしたいからと、屋敷を手放す方向へ、話は進んでいた。

 オレにとってはただひとつ、息の出来る場所だったのに。

 せめてあと数年、オレが大学を出るまで待っていてくれないかと頼み込んだけれど、自分の体力に自信がないのだか、返事はあまりはっきりとは貰えなかった。

 オレが、西海の血を引くとはいえ、森宮の人間だからなのか。

 多分、そんなことはないのだろうけど、そういうことも過ぎった。

 昼過ぎには省吾が顔を出した。

 素潜りの後の、海パン一枚でずぶ濡れたままの姿は、日に焼けている。

「このあいだぶり。情けないとこ見せちまったな、ヒロ兄に」

 ちょうどオレは蔵の陰にカンバスのほこりを払って並べていた。

 首を伸ばして事情を理解した省吾の口から、ああ、と息が漏れる。

 ずぶ濡れの姿はまさしくつい少し前まで海に潜っていたのがよくわかる。ビーチサンダルの濡れた足跡が軌跡を残していた。

 首から下げたタオルで海焼けした髪をわしわしと掻けば、水滴が陽光に光った。

「千紘バカなのは知ってるから別に、今更。海バカも相変わらずみたいだけど」

 もちろん、と応える省吾は白い歯を見せて笑う。

 隣へ来て屈んでは、カンバスを眺めはじめる。

 オレはひと通りを並べ終えた手のほこりを払って、一応の客のもてなしに麦茶を注ぎに場を離れた。

 盆へ並べて戻るころ、慣れたように我が物顔で省吾は縁側へ腰掛けている。

「ヒロ兄、戻ってくればいいのに。屋敷、売ッ払うぐらいならさ。……ここが他人の家になるのだけは嫌だな、俺」

「あと三年は難しいだろ。……オレだってヤだよ。千紘の部屋も、あんま弄って欲しくない。出来るだけそのまま、残したいって思ってる」

「ふらっとさ、帰って来て別の人間が居たら、嫌じゃん」

 盆は過ぎたばかりだった。迎え火を焚くここに、千紘は戻って来たんだろうか。隣に腰掛けて、盆を傍らへ置いた。

 目で微笑って謝辞を伝える省吾は、グラスを一気飲みして空ける。

「なあヒロ兄。高橋に頼んでくれよ」

「……何を」

「個展だよ、千紘の。数いっぱいあるんだろ、だったら、一度ぐらい人の目に触れてもいいんじゃないか。悪い話じゃないと思う。高橋なら喜んで手伝ってくれるはずだ。連絡取ってるんだろ、当然?」

 省吾の提案はオレの予想外だった。少し面食らった。

「当然、ってこたないだろ。……担任なんじゃなかったか、お前が自分で頼めばいいのに」

 別に、高橋に連絡取ることが億劫だと言うわけじゃない。でも、態々俺の口から言うことかよ、と思ったオレはそう反射的に口にしていた。

 省吾の顔が、あからさまににんまりとして歪む。

「こういうことは、ヒロ兄の口から言わせた方がいいみたいだから」

「………要らんお節介だよ」

 葬式の日のことを思い出した。省吾は、あの時のオレと高橋の会話を聞いていたのかも知れない。思い出すなりムカムカと来て、麦茶を飲み干したグラスで省吾の頭を軽く殴った。

 にやにやとしたまま省吾はグラスを置いて立ち上がる。

「この間はとてもじゃないけど聞ける雰囲気じゃなかったけどさ、高橋に何見せてもらったの」

「うるせー、お前には言わない」

 言えるかよ。口の中で呟いた。

 子ども染みた返事だったとは思う。唇だけで笑う省吾の顔を上目に見止めて余計腹立たしくなった。

 千紘バカなだけで、千紘の気持ち以外には鈍感なんじゃなかったのか、コイツ。

「さ、ってとオ。もうひと泳ぎして来ようかな。……多分、もうそろそろ今年は泳げなくなる」

「くらげに刺されちまえ」

「ひっでェ」

 じゃあな、と手を振るのに、振り返して見送った。

 クマゼミの羽音だけが残る。

 祖父と祖母はさっそくと老後ホームのお試し宿泊に出掛けた後で、振り返った座敷は誰も居ない。それは、いつか来る日のことを想像させるに易かった。

 ため息が零れる。

 気の済むまで取り留めのない考えを巡らせた。そしてオレは、重い腰を上げて座敷を踏み、古めかしさを感じさせるようになった黒電話の受話器を持ち上げた。

 回して、回して、ああ、覚えている。数度しか繋げたことはないのに。自分に力ない笑みが漏れた。

「もしもし」

 オレにしては、すなおな行動だったと思う。

 電話は数コールで繋がり、一時間後には高橋が車を寄せていた。

 二週間ほど振りの姿だった。

 座敷へ上げて、茶を出す。個展の話はすぐと提案した。高橋は、二つ返事で頷いた。省吾の言う通りだった。 

「森宮は、描かないのか」 

 訊ねて来る高橋に悪気がないのはわかっている。

 それでも、その言葉にオレはきっと苦い顔をしてしまったんだろう。 

「描きたくない理由があるのか。ずっと、訊きたくて訊かずにいたが、……玄之内先生のことか?」 

 恐る恐るというように高橋は言葉を紡ぐ。

 真摯に注がれる眼差しが逸れることはない。沈黙を守ることにも、オレはそろそろ疲れているのかも知れない。

 開いた唇からは、オレ自身が驚くぐらいすなおな言葉が漏れた。

「自分と向き合うのが怖いから。絵を描くことは、オレにとってアンタを思い出すことと切っても切り離せないものになってしまったから、……」

 そっと視線を外す。直視していることさえ本当は難しい。

 本人を前にしてなおオレは、自分の気持ちと葛藤しなければならない。誤魔化しようもない事実だ。 

「俺が森宮にとって枷になっているのか。……俺のすることは、お前を苦しめるだけなのか」 

「アンタのせいだけど、アンタのせいじゃない。オレが拘ってる。……どうしたらいいか、わからないだけだ」 

「………どうしたい?」 

 視線を外していてもわかる。高橋は真っ直ぐにオレに視線を注いでいる。裸に剥かれているような気にさせられるのに、実際はそれで何かが伝わるわけじゃないことがもどかしい。オレは座卓の下で、固く手を握り締めた。

「お前は、どうしたい。俺もそれが知りたい」 

 庭先を理由なく睨み続けるオレの側で衣擦れの音がする。

 振り返るより前にすぐそこに高橋が居ることに気づいた。気づく頃にはそっちを向いていた訳だけど。

 高橋は薄く微笑んで、オレの肩を引き寄せる。

 目が泳ぐのを避けられないオレは、抗わずにその勢いに紛れて高橋の胸に額を預けた。懐かしい、匂いがする。

 無意識と胸いっぱいに吸い込んで、焼ける様に身体が熱くなった。

 何を、しているんだオレは。 

「森宮が拒まないなら俺は調子付くぞ。もう、お前は俺の教え子じゃないんだから」 

「……そう、か」 

 落ち着いた声色の裏に、少し速い鼓動。触れ合うから表も裏もようやく読み取ることが出来る。怖いのはきっとオレだけじゃなかった。余裕振っているのじゃない。ただ、失いたくないだけなんだ。

 一度は逃さざるを得なかった、瞬間を。 

「――なんてな」 

 高橋はゆっくりと抱擁を解いた。腕の中で静かに息をするのが精一杯だったオレはその表情を追いかける。

 ゆうるりと、穏やかに微笑う。

 さて、とひと呼吸置いて立ち上がった。

「今日のところは大人しく帰るよ。お前から連絡があっただけでも充分なご褒美だったからな。あまりがっつくと、後が怖い」 

「何馬鹿なこと言ってンだか、……」 

「お前が絵を描かなくても、お前を好きなことに変わりはないって言ってるの」 

 斜陽が差し込む。日影の下に、高橋の優しい顔が見える。直視出来なくて、オレは茶器を片す振りをして台所へ立った。

「個展の件、知り合いを伝に尋ねてみるよ。また、連絡する」 

 蛇口を捻って水洗いに手を浸すオレの側で高橋は言う。ぽん、と背を軽く叩いて「じゃあな」と通り過ぎた。

 きし、きし、僅かに軋む床を踏む音が遠くなるのに耳を澄ませて。引き戸が閉まる音を聴くと共にオレはへたり込んでいた。 

 ああ、どうして。

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