Episode 07:よいどれ
オレは"ヒロ"のまま、水落の部屋に戻った。嶋谷はいつも通り、最寄駅まで送ってくれたけれどその足でオレはメトロに揺られていた。公衆電話から、思い出したように後付けの連絡を入れた。最終電車まであと数本、そんな夜半。
地下鉄の階段を上り終える頃、水落は自転車を横に付けてコンビニエンスの壁に凭れて待っていた。
連絡の後、十分と経っていないはずだった。近いのも事実だったけど、早すぎる。
「何かあったと思うじゃん。……万が一ヒロちゃんだったら、この辺は夏の馬鹿が多いしよ」
ニケツは無理か、とワンピースを見下ろして笑う。自転車を手押しにゆっくりと歩き出す水落からはビールの匂いがした。
一体、いつまで飲んだくれてたのだか。下手すりゃ一日中でも飲んだくれてそうだ。
「えらく気に掛けてくれンのな。そのヒロは襲われたところでカマ野郎と笑われるだけだと思うけど」
「たまには俺にも"ヒロ"と遊ぶ時間があったっていい。そうだろ?」
「デート的な意味で?」
「デート的な意味で」
深い意味なんてありゃしません、と水落は大きく頷いて反芻する。目の前の信号機が赤に変わる。ぴたりと足を停めた水落の片腕が、すんなりと俺の腰を抱く。
やや高い位置にある顔を覗き見れば、唇だけでニッ、と笑って見せた。
「ああ、でもやっぱり俺はボンの方が好きかな」
「あ、そ」
嶋谷とはこういう軽口の具合がやっぱり類友だ、と思う。冷たくあしらった所で、それを苦にもしない辺りも。
信号待ちの数秒、機嫌が好い水落の鼻歌を聞きながらビル群をそれとなく見上げた。
「――……ぁ」
フラッシュバックする光景。辺りをぐるり、見渡す。間違いない、先日見た景色と似ている。
高橋の住むマンションの近くだ。
心臓が、跳ねた。
「水落、ニケツ」
信号が変わるのを待って、オレは促す。
どうやって乗るんだよ、と怪訝な顔をする水落を急き立てて、走り出す自転車の荷台に横向き飛び乗った。
男二人を乗せて、自転車ははじめウロ、ウロ、と蛇行して、それから徐々にバランスを取って走った。
「何かまずったか、俺?」
「……高橋ンちの近くだった」
「……は?」
聞こえねえよ、と言う水落に、オレは何も言い返さなかった。そうだ、水落は高橋の名前すら知らない。
見覚えのある高層ビルは後方へ遠のいて行く。ホッとした。
それでも、跳ねた心臓が落ち着いたのは水落の部屋のローソファに腰掛けてからだった。
ローテーブルの上に缶ビールの空いた山があったのを、水落が無造作にビニール袋へ投げて片す。
「それで。慶史となんかあったから俺のところへ来たんだろ」
改まった水落は俺の真向かいへ胡坐を掻いた。見透かすように瞳の奥を覗き込んで来る。
とにかく暑くて堪らなくなったオレは、遠慮なくストッキングを脱ぎ捨てた。
「……うん、まあ」
言い澱むオレの言葉を、水落は頬杖ながらに待っている。
その表情は既に言いたいことをまとめてあるみたいに感じるのは気のせいなのか。眉ひとつ動かす様子がない。
「お前、もうちょっと自分の気持ち大事にしてやったら?」
心底呆れるように吐き出された息は言ってもしょうがないのはわかっているけれど言わずに居られないという風で。
そんな顔されるのが何だか居た堪れなくって、オレは背を向けて屈んで、着る時にも苦戦したワンピースのファスナーを下ろしてくれとせがんだ。
無言をファスナーが割く。
「まるでオレが、自暴自棄にでもなってるみたいに言う」
「違うのかよ。……違わないだろ、なあんも」
間髪入れない返答はぶれない。
肩越し振り返ってわかった風に言うな、なんて一睨みしたって、水落は動じない。確信があるみたいに。
ワンピースを肩から落としながら、隣の障子を開いて、部屋を跨いだ。
さすがに下着姿までは見せる気にならない。いや、上なんて着けてないけど。ボクサーに履き替えて、畳み置いたデニムに足を通しながら水落の元に戻る。
「初めっから、オレは変わってない。約束破ったのはセンパイだ。だから、……もう付き合えないっつった」
「……そっか。そっちはケリ着いたんだな」
「ンだよ、煮え切らない言い方すんな。残るはどっちだよ。お前だって言うの?」
淡々とした口調を崩さないそのくせ、まだるっこしい言葉しか使わない水落にオレは腹を立てた。
胡坐掻いて向き合う。そんなオレの頭へ手を伸ばす水落は、むんずと髪を引っ張り上げた。
ずるりとウィッグが脱げ落ちる。
「好きな奴も居ンのにこんな真似までしてよ。そうまでしてどうにか金が欲しいなら、もっと別な方法取ってるだろうがよ。むざむざそんな目に遭いに行って、プライドすり減らして、そんで? お前は何を手に入れたって言うの、ボン?」
「質問に、質問で返す奴があるかよ」
元はと言えば水落が紹介した商談だけど、と揚げ足を取るつもりにはなれなかった。それほど、水落の目は馬鹿みたいに冷めてた。マジの目だった。マジなところなんて、見たことないけれど。
少し狼狽して語尾が震えたオレの竦みを、水落は逃さない。
顎掴まれて至近距離に凄まれる。
「誤魔化すなって言ってんの」
「……別に、ただの暇つぶし。でも、結果的には要らないことした気がする」
観念したったらおかしいけれど、オレは思うままを答えたつもりだ。
落ちたウィッグを拾い上げて、片手で器用にくるくるりと回す水落は、納得が行かない様子で口を曲げている。
まだ的外れなこと言ってるんだろうか。
「なんてった、お前が好きな教師」
一瞬、肩がびくっとした。
その言い方じゃあまるで。言おうかと思ったけど、水落がいつもみたいに揶揄する調子じゃないから、何か言い出せなくなってしまった。
「………高橋」
「前にお前、ノンケだから別れるのは道理、つったよな。まるで、付き合ってたことがあったみたいな言い方だったけど、そいつの事なんだろ。……本当にどうでもいい相手の事、ンな長い間引き摺らねえし、あの絵のことだってありがとうの一言でおしまいだろ」
「水落には関係ねーじゃん。……愚痴られンのが面倒っつうなら、もう、言わねーよ。ごめん」
「煩せえ、最後まで聞け。嫌いな相手から贈られたようなモンなら、それこそ記憶から消してるだろ。いい加減認めろよ……直視したくねえぐらいには、意識逸らせてねえんだから」
ばぁか。微笑って、水落はオレの両頬を摘まんで弾くように伸ばした。
ああ、やれやれ、って呻きながらローソファに移動して寝転ぶ。
「今日は厄日だ。水落に釘刺されるなんて」
心の底からの声だった。認めたくないと思っているのに。
大体、何でそんなに水落が怒って諭す必要があるんだか。
胡坐のまま、唇尖らせて船を漕ぐ。落ち着かない。
「だってお前、すなおじゃないんだもん。…ビール取って来い、ビール」
伸ばしたつま先でちょちょいと背中を蹴って来る。
「飲みすぎ。酒くさいぞ、お前」
「ちゅーしないからいいんです」
「したいのかよ、ちゅー」
「しない」
「しないのかよ」
「……しないよ」
ホラホラ、行った行った、つま先で急かされてオレはやむなく立ち上がった。隣の部屋の冷蔵庫を開けたら、ビールなんてひとつもなくて。ちょっとよかった、と思うんだった。と同時に、この、ビールばかりで埋まってるはずのここにひと缶と残ってないのは呆れもする。
ミネラル水のボトルがあったから、それを手に戻った。
水落は目を閉ざしていた。ほんとは飲み疲れて眠いんだろう。
頬に冷たいボトルを触れさせると、のろりと瞼を持ち上げる。
「ちょっと羨ましいぜ、ボンが。……ちゃんと真正面から、応えてやれよ。好きなんだろ」
「…………今更」
「遅いか? むしろ今だからなんじゃないの。ま、お前の好きにすればいいけどな」
サンキュ。小さく唇だけで呟くように漏らして、水落はボトルを受け取る。何考えてるんだか、何も考えてないのだか、そろりと伸びた左手が俺の頭を描き撫ぜた。
犬猫を愛でる時の、あの、掻い繰るように。
そしていつもそういう時、水落は眩しいように目を細めて微笑うんだ。
それは、高橋の微笑い方にも似てたし、嶋谷の微笑い方にも似てたけど、やっぱり何かが違う。そんな、気がした。
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