Episode 06:気の迷い


「……見るんじゃなかった」

 何度目かの呟きを、水落がローソファで寝そべりながらうんざりした顔で聞いている。

 うんざりさせるぐらいには、何度目だかわからない。それでも、水落に会うたびと言っていい。零さずにはいられなかった。

 高校の頃の因縁教師が葬式の日に待ち構えたようにオレに肖像画を見せ付けた。

 水落にはそれだけ伝えてあった。愚痴った、と言う方がニュアンスとしては正しい。

 その日、夕方まで水落の家で課題をこなすという題目でぐだぐだと管を巻いていた。

 気が重い。これから、嶋谷と会う約束だった。

「お前さー、……いつまで続けるの」

 うわばみには昼も夜も関係ない。缶ビール片手に頬杖をつく水落の視線を受けながら、オレは用意されたこの度の新しい衣装に足を通して行く。濃紺のワンピースは、背中にジッパーがついている。体が硬いオレは、それを引き上げるのに四苦八苦するハメになった。

 肩越し、水落に一瞥。黙って体を起こした水落は、片手にオレを招く。

 傍で屈んで、待った。

「いつまでって。……いつまでだろうな。センパイが飽きるまで?」

「お前、ソレ」

 ジッ。力任せに引き上げられた金具が悲鳴のように音を上げる。

 背後で、心底呆れ返った風な盛大な溜息が聞こえた。

 振り返るオレの顔を、半ば真面目な顔で凝視して来る。

「何処までマジで言うワケ。ちょっと、同情するぜ」

「誰に」

 水落は頭を掻いて髪を掻き上げて、唇をむぐむぐと動かす。

 馬鹿馬鹿しくて言う気にもなれない、ってことか。

 ひとりで煮え返りそうに悶えている水落は、すこし可愛く見えた。

 横目に笑って、オレの視線はこの、足に纏わせたホワイトベージュのストッキングに移る。

 なんだって女はこのクソ暑い季節にこんなものを履いてられるんだ。

 忌々しいと思いつつ、回数重ねるうちにどうせなら極めてやるという気持ちが勝っているから、手を抜くことはしたくなかった。このために女友達から彼女に着せる名目でアドバイスを仰いだぐらいだった。

 どうせなら、女より女になり切ってやる。

「……すーっかり慣れちまって。ボン、慶史けいしとは何もないんだろうな?」

「ハイハイ、ない、ナイ」

「オジサンハ心配デスヨ」

 水落は時々、嶋谷のことを慶史、と呼び捨てた。紹介された当時はただの元同期だと思っていたけれど、実のところそんな浅い仲ではなかったらしい。少なくとも、呼び捨てられるほどには親交があったことに、オレは信頼を見出していた。

 いい加減に見えて、最低限のことはきっちりと揃えるタイプだった。

 ……スカートの下から手を突っ込んで腿撫でるような奴だけど。

 片手に薄手のニットカーディガンと何も入っていないに等しいクラッチバッグを拾い上げる。

 仕上げに、無防備に投げ出されたサルエルから伸びる脛を蹴り上げて、玄関まで早足で歩く。

 背後に呻き声。

「俺とはご無沙汰のくせに……」

 そんな憎々しげな言葉だって、これっぽっちも本気じゃない。遊び相手に不自由はしていないのが水落だった。

 聞く耳持たないオレが靴のストラップを留め終える頃には、「気ィつけてなー」と、ひらひら手を振って見送る。

 そういう、冗談の上手い水落が、オレは気に入っている。

「いってきます」


 大体、振り返ってみれば水落が誘って来ないんじゃないか。

 嶋谷の駆る車の助手席でシートベルトを締めながらに思う。

 高橋はこの手のルールには煩くなかったけど、嶋谷は別だった。何かあってからじゃ困るから、と真顔で諭される。

 ……話を戻そう。あの晩以来だ。

 それ以前にしても、凡そ水落の誘いがあってそれに応えて来たはずだった。ご無沙汰も何もあったもんじゃない。

 やっぱり、ただの言葉遊びだ。そもそも、大体、好きなヤツがどうのこうの、

「――どうしたの、怖い顔をして。さっきの店、やっぱり口に合わなかった?」

 オレはようやく我に返った。真顔で、フロントガラスの中央に置かれた芳香剤の瓶を凝視し続けていた。

 車内ということもあって、オレは寛ぐままにシートに背を伸ばした。

「ちょっと、考え事。……センパイと、あと何回ぐらいこういうこと続けられるんだろうって」

 ただの考え事じゃあ気が悪い。あれこれ曝け出すにはあまりに本人が絡まなさ過ぎて不躾だった。咄嗟に口をついて出た言葉はオレにしては出来が良すぎたけど、ちらりと横目に見た嶋谷の顔色を損ねることはなかったようで、ホッと内心胸を撫で下ろした。

「アッハハ、何だか、らしくない言葉だなあ。……すこし真面目に話をしようか」

 運転中は気を逸らせないんだよね、と彼は言った。確かに運転中は目が合うことがなかった。会話にも、あまり集中できている感じもなかった。もちろん、事故を巻き起こすぐらいならその方がいいから、オレもなるべく無駄な言葉を掛けることはしない。

 海沿いの国道を走る車は、店を閉めた海の家とその駐車場で停まる。

 陽はとっくに沈んで、それでもわずかに仄明るい青みの空模様がきれいだ。車を降りて、植え込みの側の欄干へ寄る。なだらかな階段を下りた先は砂浜と海がある。すこし離れに、花火遊びをするグループが見えた。

 鍵を閉めた嶋谷が隣へ並ぶ。

「実のところ、根本にあった問題は解決済みだったりするんだ」

「……婚約の話だっけ」

「そう。元々長男の兄貴が家業を継ぐ継がないで揉めていたもんだから、飛び火したんだよね。夏前に縁談が向こうで纏まったついでに家業も継ぐことになって、オレは晴れて自由の身、という訳」

 嶋谷はすっきりした面持ちで言って、握手の右手を差し出した。何の握手なのか意図を汲めないままに応じて手を差し出すと、手を掴む勢いでするりと引き寄せられる。

 言動の割に、派手で強引な挙動を好む人だった。辺りに人気が少なく、夜闇が加わればそれが顕著な気がした。

「面白いよね、こうも簡単に主義を塗り替えられるものなのかな」

 抱き寄せられても、身長差はそうない。肩口に顎を乗せると、嶋谷の手が骨張る背を抱いた。

 塗り替えたつもりでいても、隠しようのない男の体であっても、

「それでも、今目の前に居るのは裕じゃなくて、ヒロだ」

 繕わない地声にぼそりと声を落とす。

 否定するように、腕の力が強まった。

「構わないよ。それこそ、いつ言い出そうか迷っていたことだから。あんまり似合うものだから、嫌だと言うまではそのままでも構わないと思っていただけだ。楽しんでくれているようだったし」

「………」

「君が言いたいことは大体予想が付いてる。今までは君の思う理想を振舞っただけなのでしょう。だったら、これからは本当の君を見せてくれないか」

 辺りを包む潮風は生温い。それなのに、ひやりとした汗を掻くのを覚えた。

「……主義替えなんて、卑怯だ」

 あくまで金銭の関わる上に成り立った契約だ。オレは嶋谷がノンケであることを信頼していたから乗れた契約だったのに。

 これじゃあまるで、あの時と変わらない。

 去年の夏の、高橋と。

 そう思ったら急に嫌気が差して、嶋谷の腕を振りほどいていた。

「ノンケなんて、おことわりですよ。オレは、アンタがオレに惚れる可能性がないって解り切ってるからこそこうして居られたんだ。リスク背負ってなんて、そんなの……」

 怖い。

 オレにとっては、自分が他人の生き方を変えてしまうなんてことが信じられなかったし、その責任を負わなければいけないなんて末恐ろしいのだ。

 だけど、言われた嶋谷にしてみれば、それは全く違った意味に聞こえたのかも知れない。

 力ずくに欄干を背に押さえつけられた。抗えないほどに強い力だった。両足が、情けなく震えた。

「……そっか、対価があればこそ、か。だったらオレも遠慮はしない方がいいね。足りない分は払うよ。だから、満足するまで付き合っていて貰おうかな」

 片手を、欄干の上から強く鷲掴まれる。上手く股間へ足を潜り込まされたことでワンピースの裾が引っ張られ、身動きは充分に封じられていた。頤を包むように手を添えられ、唇を重ねて来る。二度、三度と啄ばんでは、深く望むのを拒む気にもならなくなった。今更だ。これまでだって何度として来たことだ。

「張り合いがないなァ……。もっとも、拒まれたらもっと手荒にしたくなるのだけどね。割り切って積極的になってくれたら、弾んでもいい。……君が望んでるのは、そういうことなんでしょう、つまるところ?」

 至近距離、鼻先合わせる距離で覗く瞳は少し据わって見える。普段の柔和さは見る影もなく、ぎらぎらとした欲を光らせていた。

 金にしか興味がありません、なんて煽ったのはオレだ。嶋谷が憤るのも、わからなくはない。

 だけど、積極的になるだけの理由もなかった。割り切れない相手と、リスクを冒すのはもう、嫌だった。

「……センパイが割り切れなくなったんなら、もう続けらンない。アンタまでアイツみたいになったら、オレもう……」

 言いながら、「もう」なんて言葉は嘘だと思った。今この瞬間にそれは塗り替えられていた。

 オレにとってノンケの象徴である嶋谷は、同時に高橋と同じだった。

 女であるからこそ、と言う嶋谷を前に、高橋とのあの時間もあの感情もすべては気の迷いで済ませられていた。

 それをこんな風に覆されてしまったら、オレは今日までのオレ自身をとても肯定できなくなってしまう。

 あれを気の迷いだと、言えなくなってしまう。

 体がにわかに震えるのを感じ取って、嶋谷の手を握る力が弛んだ。

 頤に添えていた手がするりと頬から首筋をひと撫でして、下ろされる。

「君って本当に、ずるいヤツだな」

 言葉の割に、諦めを含んだ揶揄のような呟きだった。

 遠く、シュー・パチン、と火花の弾ける音が聞こえる。

「帰ろうか。……ちゃんと送るから、乗ってよ」

 興が削がれたのか、嶋谷はいつもの柔和さで微笑って、車へと踵を返して行く。

 オレが少しの迷いを挟む間に、車を側まで着けていた。扉を中から開いて促す。

 乗り込みながら、思った。

 こんな風にやり込まれたように微笑わせてしまうのは、何人目で、一体何度目なんだろう。と。


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