Episode 05:キャンバス

 閑談は長く続きそうだったけど、夕刻陽の落ちる頃、親戚連中は思いの外あっさりと引き上げて行った。

 従弟の父親は海外赴任が長く、式にこそ間に合ったものの、とんぼ返りになった。オレの母さんの姉に当たる母親は、従弟を生んで間もなく亡くなっている。遺族の中心となる両親不在のその場に、長く留まる理由が無いのは当然かも知れなかった。

 省吾は何度かアイコンタクトのようにこっちを流し見ては、オレが素知らぬフリをしたので諦めるように息を落とした。さっき庭先で何があったのか、問い詰めたいんだろう。判ったればこそ、応える気になれなかった。

 無駄に広い客間の和室が見渡せるほどに穴が空き、人が居なくなってから気づく。

 高橋が、居ない。

 冷茶を淹れて出すから、と手伝いに借り出された時に頭数として数えたことは覚えている。そう、縁側に程近い場所に居たことも。あれから少し遅れて座敷に戻った高橋は、オレと距離を置いて座り、省吾や、親戚と閑談していたはずだ。

 紫檀だか黒樫だか、値段の張りそうな長卓に切子硝子の下、水溜りがいくつと出来上がっていた。

 帰ったなら帰ったで、オレは少し気を悪くしている自分に腹を立てはじめていた。

 残る客間には省吾の父親と、省吾、祖父祖母だけだった。

「片したら、オレも、帰る」

 伝えたら、そんなことはいいから今日は泊まって行きなさい、急くことはないだろうと、半ば予想していた通りの言葉が返った。言うなれば手塩に掛けた息子を失ったも同然の祖父祖母だから、そのまま帰るのは確かに気の重いことではある。

 また近いうちに来るから、となだめて空いた茶器を盆に集めて台所へ立った。

 白い泡に切子硝子が水と、差し込む斜陽に鈍く光る。無性に、心に冷えを感じた。

 と、同時に、高橋は帰ったのじゃなく、帰るしかなかったのかも知れないと気づいた。

 ああ、そうか。こんな場に、いつまでも、ましてや最後まで居残れるはずがなかった。何より教師という体面を重んじた人物だ。幼馴染みの省吾とは訳が違う。

 洗い終えた硝子を水切りカゴへ重ね、築年数同等に緩んだ水道のコックをキュ、と音がするまできつく捻った。

 手から雫を払い落として、わずかに残る水気は気にしなかった。

 実際、夏の間にもう何度かはこの家に足を運ぶことにはなるだろう。遺品、整理とか。

 軽い挨拶だけして、表玄関から靴を履いて出た。

 門を抜けるところで、ふとエンジン音が耳を突く。噴かす音や、起動のそれじゃなくて。温める音。

 この屋敷は門の外に石砂利の駐車場がある。いつぞや助手席に乗ったあの車だと気づくのに時間は掛からなかった。

 窓を開け放して煙草に火を点ける高橋の姿が真っ先に目に飛び込んできたから。

 砂利を踏みしめる音はなかなか殺せるものじゃない。気づくのと、足を踏み出すのはほぼ同時でもあった。

 ハッ、として今しがた火を点けたばかりの煙草を咥えたままの顔で高橋がオレを見る。

 煙草を指へ移して、微笑った。

「相変わらず、俺を試しているのかと」

「あっさり忘れて帰ったと思った」

「……乗れよ」

 そんなわけあるか、とばかりに高橋は眉を上げてやれやれと言う。そんな姿は、つい半年前と比べて余裕が増して見える。

 約束は約束だ。観念した気持ちで助手席のシートへ滑り込んだ。

 高橋は、まだ吸いもしていない煙草を、備え付けの灰皿で揉み消そうとしている。

 その手から煙草を引っ手繰った。

「もったいないことするなよ」

「誰のためを思って……」

 遠慮なくひと吸い、肺を充たしてから高橋の唇へフィルタを差し出す。

 言い切る前の動作に、高橋は一度迷うように間を置いてからそれを唇で咥えた。

 それを見届けてからオレは言い放った。

「知ってる」

 アンタのやりそうなことは。

 言外まで伝わったかまではわからないけれど、高橋は鼻で笑った。

 よく温まったエンジンをようやくと動かす。長い時間が経っていたのがわかる。八月の夕焼けに、車内はそれが判る位涼やかだった。

 海沿いを走ると運転席側の光る夕陽が眩しかった。そのおかげで、必然的に高橋を見なくて済んだ。

 道中、高橋は口を開かなかった。沈黙の代わりにカーラジオだけがいやに陽気なテンションで話し続けた。

 車は、やがて都市部へと向かい、オレの通う大学の側を通って程なくして駐車場に停まった。

「………、え」

 思わず声を上げたオレに、高橋は構わなかった。無言で降りるよう促して、そこそこ値段の張りそうな外装の建物のロビーを潜って行く。後ろを追いかけながら、頭の中でオレは地理を整理していた。

 通った道がオレの思う通りなら、ここは大学からいい距離にあるはずだった。

「高橋の家なんだろ、ここ」

 エレベーターが動き出してから訊ねた。ガラス越し見える高層のいくつかには覚えがある気がした。

 高橋は答えない代わりに、困ったような、如何ともし難いといった笑みを見せる。

 ……なんだよそれ。

 イエスかノーしかあり得ないような質問だろうが、と投げる前に扉は開いて、高橋は先を歩いた。運が良すぎる。


 三部屋はありそうな広いマンション。生活感が薄いのは、オレと似ていた。

 靴を脱いで揃え、通されたのはすぐ側の洋室。入るなりふわりと画材の独特の匂いがした。

 高橋が「それ」の横へ立ってオレの視界の真ん中が開ける。

 部屋の真ん中に、キャンバスが立ててあった。

 「目が合った気がする」。そう思って、それをよく見ようと目を凝らしたら、高橋が見越したように壁の照明を点けた。

 オレは弾かれたように退いた。

 目に飛び込んできたものはとてもじゃない、言葉にならなかった。

「なん、………だよ、これ」

 勿論、答えは明白だった。人の形をしたもの。目が合ったと思ったけれど、実際は頬杖にこちらではない何処か遠くを見るような瞳をしていた。

 モデルが自分だと思うのは、思い上がりだけじゃない。この状況が、積み重ねてきたすべてがそれを裏付けていた。

 だから、そんな言葉しか出なかった。

 高橋はさっきのように困った表情のまま、少し考えるように腕を組み、しばらくして足元へ置いていたクロッキー帳をオレへ差し出した。

「描く時間はいくらでもあったからな。もう、締め切りがないのだと分かったら、色を付けたくなった」

 そういうことじゃない。そんなことが聞きたかったのじゃないけれど、それを口にする高橋の顔は満足げに見えて。

 受け取るクロッキー帳の中身は、案の定で、口許が変に歪んだ。

 口振りから、これがあの日――卒業式で受け取らなかったものであることは間違いないだろう。

 捲るページ、捲るページ、褪めたような顔の男が居る。段々と、フォルムを固めて行くそれは迷いのない線で描かれて行く。

 どんな言葉を伝えるより明らかで、どんな贈り物をも凌ぐだろう。

 オレは描いて来た側の人間だからこそ嫌と言うほど手に取るように解ることだった。

 ぞくりと体が震えた。総毛立つのがわかる。

 こんなものを描いて、見せるその心持ちがどういうものか、なんてのは訊く方が馬鹿げている。

 心の機微のすべてを、曝け出したものでしかないのだから。

 ……なんて決意なんだろう。言葉にすれば他愛ないけれど、そう思った。

「ばかだな、アンタ。……あんなのは、ただのお遊びだってわかってたことだろ」

 クロッキー帳を捲りながら、オレは顔が上げられなかった。

「……そうだな」

「すこしは怖がれよ。こんなの見せて、どう思われるだろうとか」

「………。そうだな」

 唇が震えるのを誤魔化しきれなくて、それ以上言葉には出来そうになかった。

 堪えると、咽喉がきゅッと詰まったようになって苦しかった。涙が出るほど。

 濡らす訳にはいかなくて、濡らしたくなくて、その前にとクロッキー帳を閉じた。

 もう立っていられなかった。情けない。抱え込むようにして蹲りながら、声を殺すのが精一杯だった。

 どんな気持ちで描いたのか。どんな風に過ごしたのか。

 あの日、絞り出すようだった「卒業おめでとう」の裏側の機微は。

 全部、嫌になるぐらいわかってしまう気がした。

 わかりたくなかった。

 情けないオレの頭を遠慮がちに撫でるその手の優しさが、拍車を掛ける。

「分かってるつもりだ、自分勝手なのも、非常識なのも。……今更だってことも。それでも、この機会を逃すわけには行かなかった。結果が欲しいのじゃないよ。こうしている森宮を見たら、もう、それだけで報われたも同じだ」

 だから泣くな。空言かと思うような囁きに、はじめて自分が本当に泣いていることに気づいて、鼻を啜った。

 涙が出そうだ、とは思ったけれど、本当に顔を濡らしているとは思ってなかった。

 馬鹿馬鹿しい。両手で顔をぐりぐりと擦り上げた。

「……のどが痛い」

「うん」

「ばかみたい」

「うん」

「……お茶ぐらい淹れろよ」

 くは、と高橋が笑う声が頭上でした。

 優しく、背を擦る手が離れる。

「コーヒーでいいなら」

 その日、オレははじめてコーヒーをブラックで飲んだ。

 「苦い」なんて当たり前のことを口にしながら。苦い顔をしていたかった。

 高橋は、終始薄く微笑っていた。目を、細めるようにして。懐かしむようにして。

 それが何故か、ひどく胸に沁みた。

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