Episode 04:八月七日
暗闇の中で、電子音が刻む呼吸数を息を飲んで聞いていた。
今にも、止まってしまうんじゃないか。そんな恐怖は、本当ははじめてじゃないけれど。こんなことは何度経験したところで、大丈夫なんて言えるようにはならない。きっと、重ねた分だけ、怖さは増していく。
寝台の上で眠っている従弟の顔は、ひどく白く見えた。
「……なあ、千紘。怒ってたンだろ、知ってる。…けど、こんな呼び方すんなよな」
祖父は電話口で、いやに落ち着いた口調で「今すぐ来い」とだけ言った。
千紘に最後に会ったのは、喧嘩腰になって切った電話より前。冬季の絵画コンクール以来だった。
半年前の千紘は、夏前よりずっと体が丈夫になって、車椅子も必要なくなっていたのに。
目の前でたくさんの管を繋いだ体は、オレより更に細い。脆い、なんて印象じゃなかった。綻びかけている。今までが強がり過ぎていたんじゃないかとさえ思った。
暗がりで確認する時計の針は、日付を越していた。
つきっきりだったという祖父も祖母も、オレが来るのと引き換えに安心したように家へ戻った。
看護師へ頼んで宿泊許可をもらって今に至る。
眠り続けるままの従弟の白い手をそっと握った。
「………ろ、む、?」
「よう、久しぶり。……なんてザマしてンの」
ゆっくりと開く瞳に映るように顔を寄せて笑ってみせた。笑って。…うまく、笑えた気がしない。
まどろみが残るのか何度かゆっくりと瞬いて、千紘はオレの手を握り返して来る。
「ごめン。電話の、ことも」
「うるさいな、その話はナシ。いいから、ちゃんと眠れよ。それからちゃんと食え。それから――」
「
ふ、と呼気の緩みで笑ったのがわかった。そんなことに安堵する。
ゆるくしか握り返して来ない手に、更に力を加えて握り返した。
「すこしだけ、不安だった。けど、裕が朝までいっしょなら、こわく、ないね」
「居るから、眠れよ」
「……うん。おやすみなさい」
反対の手で、柔らかくてオレより色素の薄い髪を撫ぜる。
元々素直な性格だから、千紘はそのまますんなりと瞼を閉じた。静寂が戻る。
若くして亡くなった伯母さんと、海外赴任で戻らない小父さんを両親に持つ千紘にとって、祖父と祖母は両親と変わらない。
そして、オレは、兄のようなものだ。
オレの挙動を真似て、絵を描き出して。ずっともっと、上手くなっていった。うれしかった。
そんな千紘が床に伏せる度に、オレは――。
「……おやすみ」
陽が昇るまで起きていられなかった。
だから、いつ抜け殻になったのか。わからなかった。
慌しい周りを、オレは放心したままただただ流し見た。
どんな言葉も、どんな挙動も心には残らなかった。点いたままのテレビがそこにある。そんな、浮いた感覚で過ごす。
冷たい手指の温度だけをひどく覚えている。
自分がどうやってそこへ戻ったのか、思い出せなかったけれど、気づいた時には千紘の部屋に居た。祖父母の家であり、オレの母方の生家に当たる。
部屋の外、階下では親戚が集うほか人の出入りが激しいことが窺えた。喜ばしくないざわめきと、諸々の手配に追われヒステリーを起こしたような祖母の声が聞こえた。
「………千紘」
呟きはどんな意味も成さない。
八畳間の和室には、描き掛けのキャンバスとクロッキー帖の山。机の上はきれいに片付けられているのに、オレが座り込んだ床面の周りにだけそれらが乱雑に散っていた。
……ああ、そうだった。一心不乱に、オレが、頁を捲り続けていたんだ。
記憶と挙動が一致しない曖昧さは、オレが逃げ出したがっている証だった。震える指で、また一枚クロッキー帖の頁を捲る。
飛び込みの刹那を捉えたもの。バタフライ泳法の背中。息継ぎの横顔。コンクールには一度だって人物画を上げない従弟が、本当に描きたがっていたものがそこには描かれている。
オレはずっとそれを、知っていた。素描のモデルが誰であるのかも。
頬を伝うそれが、紙面に落ちる前にパタリと閉じる。その後はもう、どう抑えようとしても無駄だった。嗚咽を堪えるのが精一杯で。
両膝抱えて、両目をぎゅっと強く閉ざしたら、ぽっかりと空く大きな闇に落ちて行く感覚がある。
――取り残されてしまう。
いや、取り残されてしまった。そう、感じた。
「入るぞ」
長い、長い静寂を割いた声にオレはようやく現に戻った。
慌てて擦った頬には、乾いてざらついた感触があった。どのぐらいの時間が過ぎたのか。それは視界が闇に慣れていることでわずかには測れる。
聞こえた声が誰の発したものだったのか、オレが返事をする前に後ろの襖は開かれていた。
どちらにせよ、こんな顔を曝すわけには行かない。背を丸めて、まずは耳をそばだてた。
「………――」
廊下も灯りは点していないようだった。薄らとした明るさは、階下からの間接的なそれだった。わずかな影がオレに重なっている。
呼気を飲むような気配がして、オレは肩越しほんの少しだけ仰ぎ見た。
そして、振り返ったことを後悔した。
変わらないその姿は、オレの記憶に焼き付いていた。
襖へ寄り掛かるよう手を付いてオレを見下ろしたその表情は、何と言ったらいいのかわからない、と言っていた。
眉を寄せて、言葉に窮した様子で黙っている。
間違えるはずもない。オレが、記憶から消したくても消せない相手。高橋だった。
すぐさまオレは身を硬くして両膝へ顔を埋めた。
「オレのことは、放っておけよ」
「ずっと篭ったまま返事がないと聞いたから、様子を見に来たんだよ。………久しぶりだな」
部屋に踏み入る気配がすこしでもしたら、全力で追い出そう。
そう、思っていたけれど、高橋がそこから動く気配はなかった。
オレの言葉を待つような間の後で、小さく溜息が聞こえた。
「……とにかくちゃんと、飯を食って寝なさい。そうじゃなくては、困る」
それ以上何もオレが言うことはないと察したのか、静かに襖は閉まって、再び辺りは真っ暗闇の中にあった。
古く軋む階段を降りる音。上る音を覚えていないのは、オレがまどろんでいたからだろうか。
しばらく後に車のキーを回す、エンジン音を耳にした。少しずつ遠ざかる。
ほっとすると同時、大の字に転んで、そのまま本当に眠りに落ちることになった。
再会は、最悪のタイミングだった。
さよならの当日は、前日と違って涙のひとつも零れないでいた。
オレ以上にずっと辛がって苦しんで、悲しむ人間がいたから。
千紘の幼馴染みである、省吾は中でも群を抜いていた。
通夜の間中オレは千紘の部屋で放心していたけれど、省吾は千紘の枕元でずっと呼び掛け続けていたらしい。それは、翌日の出棺の瞬間まで続いて、最後には親戚に羽交い絞めにされるまで傍を離れようとはしなかった。
従弟の幼馴染みであり、同時にオレにとっても子どもの頃の幼馴染みだった。子どもの頃からずっと一緒に居た。千紘の口から何度もその名前を聞いたし、それは関係が薄れてからも変わらなかった。
式を終えて戻ると、泣き腫らした顔を隠そうともしない省吾を前に、オレは何て言っていいかわからず、結果として逆に八当たってしまった。
目に見えた悲しみを表す姿が被害者ぶって見えてしまった。
だってこいつは。全部知ってたくせに、見て見ぬふりをした臆病者だから。
そんな自分勝手な主観を棄て切れなかった。
省吾は力なく笑って返した。殴られても罵倒されてもおかしくなかった。だけどそれが返って来なかったその時にようやく、オレは自分が弱り切った相手を追い詰めているという事実に気づいたのだった。
……本当は、ただ自分を重ねただけの責任転嫁だったのに。
自己嫌悪がひどくて、オレはすぐにその場を離れた。祖父が手入れしている庭を歩いて、池の縁へ屈み込む。
砂を踏む足音が遠くで一度。それからさくさくと音は早くなってすぐ側まで迫った。
「……高橋」
喪服へ身を包んだ高橋がちょうど立ち上がるオレの方へ手を伸ばそうとして、躊躇した末に無理矢理に口許へ笑みを浮かべた。
昨晩はまともには見られなかった顔を改めて見据える。
「変わらない、な。……昨日はろくに挨拶もしなくて悪かった」
気にするなとばかり首を横にゆるく振って高橋が応えた。
オレに触れようとしていた手は、何に触れることなくゆっくりと下ろされる。
「河野とも、知り合いだったのか」
河野は省吾の姓だ。
「昔から休みはこっちに帰って来てたから。……ガキの頃は毎日一緒に居たような幼馴染みでさ、オレもよく遊んだ。十年振りに、会ったけど」
そうか、と短く返る声。
その後の沈黙が、本当は他に何か意図のある質問だったことを匂わせていた。
「なあ、オレ、千紘からほとんど何も聞かなかったんだけどさ」
「二人とも俺の受け持つ生徒だ」
それはぽん、と間を置かずに返って来た。
「
困ったように微笑う。その表情は何も意外じゃなかったけど、言葉にオレは眉を寄せていた。
妙な気分だった。うまく、言葉にならないけれど。
「なあ、高橋」
「もう、会えるはずもないと、……」
「やめろ」
体から驚くほど熱が引いていた。いくら今年が冷夏でも、寒いほど。
それは悪寒のようなものだった。
反射的に言葉を遮って、高橋を強く睨み上げていた。
視線の先には言い淀む様子を持ちながら、何かを言う決意を滲ませる高橋の、思い詰めたような顔がある。
「……それ以上何も聞きたくない」
今は。言わなかったけれど。
今この瞬間聞くべき言葉じゃないことだけは確信していた。
ここは、千紘を送り出す場だから。
高橋に対して微塵の嫌悪感を抱いた、のはオレの中で否めない事実だった。冷えた胸が打って変わって焼けるように熱くなった頭に血が昇りかけてる。省吾の時以上に辛辣な毒を吐きかねない、そう感じたらもうオレの体はくるりと高橋に背を向けていた。
その一瞬の刹那に、高橋の落胆した表情を捉えた。……そういうことも今のオレには要らない情報なのに。拾ってしまう自分を呪いたかった。
重い足で靴先が庭の砂利をわずかに蹴散らして歩いた。
「すまないとは思ってる。だがはっきりさせたい」
聞く耳を持たない姿勢を見せる背中にもめげない言葉が刺さる。容赦なく。
「終わってからの数時間だけでいい、付き合ってくれないか」
ノーと、言えなかった。
ただ、肯定もしたくなかったオレは沈黙だけを返した。
戸惑いをすなおに表すように立ち止まっていた足を、無理矢理に動かして。すぐ傍、どこまで聞いていたのだかわからない、驚くような顔で歩み寄った省吾を手で往なして座敷に戻った。
あたまもむねも、ぐちゃぐちゃに乱れて、いきができなくなりそうだった。
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