Episode 03:フィジカルパートナー

 ろくに灯りを点けない部屋の、光源は線路高架の見えるベランダ窓から差し込む月光だけ。

 電車の走る音が近く聴こえる。

 オレの殺風景な部屋と比べれば、物が多い。壁の一面を埋めた大きな棚には、科学書籍と、その一方で洋楽のレコードがびっしりと詰めてある。

 上がるのはまだ三度目だった。その度に水落はジャズを掛けて香に火を焚いていた。雰囲気作りには手を抜かない、って言っていた。

 煙を扇いで馴染ませて、水落はベランダ側のローソファに腰掛けるオレの隣についた。

「お前が苛立ってるのはさ、ボン。「お前」を見てもらえなかったから、だろ」

「……その話は、あまりしたくない」

 テーブル上に置いたコンビニの袋から缶ビールを手にして、プルタブ開けながら、水落はふうん、と煽るように笑う。

「女装映えのする、女顔だからって理由でノンケに女の代わりにされてるんだ。金銭絡まなきゃ、やるはずもなかった、……だろ」

 オレの言葉なんててんで聞いちゃいない。憶測を並べて、ぐびぐびと缶を呷って、片膝頬杖でオレの反応をじっと待った。

「最初はそうだと思った。でも違った。…別に、センパイにオレを受け入れてもらいたいって思ってるわけじゃないから」

 淡々として吐いた。

 なるほどねえ。感慨深げにため息と吐いた水落は、また一口と缶を傾けて酒を含む。

 ……そのまま、後頭部を片手に支えられ、頤に手を添えられるまま唇が重なった。

 隙間から、舌と一緒にアルコールが流れ込んで、息をする要領で飲み込んだ。

 接触は浅く、そのまますぐに離れた。濡れた唇を指で軽く拭うのを、水落が咽喉で笑った。

「飲むなって言うくせに」

「もっと素直に吐けよ。その方がおもしろい」

「……おもしろがってンじゃ、ねーよ」

 ムッとなりながら、水落の手から缶を引っ手繰った。

 一口、二口、咽喉を滑る酒は、正直なところまったく美味くなんてないけれど。

 確かに、酒のせいにならできる気がした。

 水落も今日は止めなかった。は、と呼気零して肩口に頭預けるオレをそのままに、缶を奪い返すこともしないでいた。

 鼻腔を、あまい匂いが擽る。香が、いい具合に充ちていた。

「ノンケは、嫌いだ。どうせ、一時の気の迷いでしかねンだろうから」

「いつかは離れていくんだから?」

「別れるのが、道理だから」

 間を読み取って差し挟んだ水落が、声を詰まらせたのがわかった。

 はっとして、頭を上げたそこには、困ったような顔の水落が居た。

 オレの頭を自分の肩口へ押し戻すようにして、また、いつもみたいに頭を掻き撫ぜた。

「………なるほどな」

 この会話で、水落が何を知ったのかはわからない。ただ、水落はそれ以上そこでは聞かなかった。そのまま、ゆっくりとオレを組み伏せて、いつもと同じように戯れた。

 相変わらず、遊びの域を出ない接触。オレが望んでそうしているのだから不満も何もなかったけれど、交わらない関係を受け入れられているこの現状に不可思議を感じていた。

 もっと即物的な相手なら、力尽くで掘られていただろう。

 事終えてくったりと絨毯上に転がりながら、息を整えた。

 テーブルを足蹴に追いやってオレの隣へ寝転がった水落は、まじめ腐った顔で天井の梁を睨んでる。

「お前、好きなヤツ居たんだな」

「…………」

 声はぼそりと小さくて。独り言かのように水落はそのまま瞼を閉じて、眠ったように見えた。

 しみじみと、言葉は融けた。

 好きか嫌いか。単純な言葉では表せない気が、オレの中ではしていたのに。オレにはまだまだ信じられていないことだったのに。

 あっさりと、そしてあんなにしみじみと呟かれてしまったら、それを自分でも信じてしまいそうだった。

 あんなの、一時の迷いみたいなものだろうに。

 隣の寝息は、いつまで経っても聴こえて来なかった。

 オレも、いつまでも眠れそうになかった。




 "ヒロ"に化けること数度目。嶋谷と会って、一月が経っていた。会っている最中の"ヒロ"は口数が少ない、寡黙で引っ込み思案を演じた。…ぼろが出てからじゃ遅い。

 水落の説得はあったのか、嶋谷が公然とキスをしたりすることはなくなった。

 それは、オレを安心させたけど、金を受け取っている手前、心苦しさが残った。

「ヒロ、何か気に病んでいるのかい」

 セルフのオープンカフェに腰を落ち着けたところで、嶋谷はそれとなく聞いて来た。水落と同じで、そういう機敏に敏い人だった。

「役に、立てている気がしないので……」

 周囲に人はそれなりに居る。声色や、口調を気遣って話せば、自然と声は密やかになった。

 そろりと伸ばした指で、嶋谷はオレの頬を撫でて微笑う。

「代償は君のプライド。……もしくは、好奇」

 軽く目を見開いたオレに、嶋谷は続けた。

「どこまでできるか試したい、そう言ったら君を傷つけることになる。水落に釘を刺されているからね」

 それは、誘いも同然だった。

 強要はしない。だけど、自分の要望は明確に伝えてくる。狡いけれど、本能には忠実だ。

 選ばせてあげるよ、と嶋谷の口角を上げた笑みが言う。

 ぎゅ、とテーブルの下、スカートの裾をオレは握った。

「………センパイ、場所移しませんか」

 できるだけ、顔色は変えずに口にしたつもりだ。

 嶋谷は顔を上げずに瞳だけを動かしてオレの瞳を覗き込む。ラテを一口嚥下して、たっぷりと間を取ってから唇をゆっくりと開いた。

「君が構わないと言うのなら。俺は、断るべくもないよ」

「別に、オレは傷ついたりしない」

「ヒロ」

 声色こそ抑えたけれど、その呼称が出た瞬間、咎めるように鋭く声を挟んで首を振られた。

 あくまで公衆では女で居ろってことだ。

 ……そんなの、誰も聞いてやしないと思うけど。

 水落も好みそうなカフェ・ジャズを耳にしながら、一杯分のカフェオレを飲み干す。たった一杯なのに、嶋谷はひどくゆっくりと時間を費やした。

 まるで、オレの気が変わらないか確かめているみたいに。


 繁華街のひとつ路地を曲がれば、立ち並ぶファッションホテルに、男女が連れ添って入って行くのは傍目に何の不思議もない光景だ。多分、きっと、オレと嶋谷の姿も。

 手馴れた様子で嶋谷はオレを先に部屋へ通した。

 夕刻を過ぎた部屋は薄暗い暖色の灯りだけをベッドサイドと入り口で点していた。

「このことが知れたら、俺は水落に叱られるかもなあ」

 言葉の割、口調は軽い。楽しそうにさえ聞こえる口振りだった。ベッドサイドに腰掛けて、おいで、と腕を広げる。

「叱られるかもしれない、でもきっと、だから余計に気にかかる。目の前に、美味しそうなケーキが置いてある。ひと口ぐらい、指先で掬い取って舐めてみたい。……君にもそういう感情、あるでしょう」

「……、センパイは、自分を偽らないんですね」

 両膝跨いで腕の中納まるように、ベッドの上へ乗り上げる。

 至近距離で背を抱いたら、いくら身なりがそうであっても、オレが女じゃないことなんて骨格で判ってしまうのに。嶋谷の手は、確かめるように態と骨の在り処を探って服の上を滑った。

 肩口、肩甲骨、膨らみのない胸、硬いばかりの感触を伝える。

「自分の、欲望にはね」

 鼻先を首筋へ埋められる。女ではないことを、確認しているんだな、と感じる。

 そこに嫌悪感を感じることもないけれど、この人にとって性差を感じずに相手を認識することはない、そういう事実を突きつけられた気がした。

 そして、それはそっくりそのまま、アイツと重なってしまう。

「こうして触れてみたら、女の子とは違うのがよくわかる。……でも、不思議と、嫌な感じはしない」

「当たり前だ、……脱いだらもっと明白なのに」

 だけど、オレは脱がなかったし、嶋谷も無理に脱がそうとはしなかった。オレは、あくまで、"ヒロ"のままで居たかった。この人はそれを望んでいたはずだし、オレはオレで――、

 暴かれたくなかったのかも、知れない。

 あくまで女に見える風貌に欲情した体の火照りを、唇で解いた。それだけなら、ただ女に奉仕してもらうのと何ら変わりない。

 オレ自身は慰めなんて必要なかった。ただ、この胸に圧し掛かる罪悪感を拭いたかっただけだった。

 きっちりと秤が釣り合う関係を保ちたかった。

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