最終話

 病院で手当を受けたとき、傷の深さはそれほどでもないから縫う必要はないけれど、おそらく傷跡は残るだろうと医師から告げられました。ゴミ捨てに行くときに鍵をかけなかったこと、本当に美樹に申しわけないと思います。

 もし傷跡が残ってしまったら、整形手術でもなんでも受けさせてやりたい、そう思いながら美樹と二人で帰宅すると、夫は美樹を見るなり、「健輔くんね、美樹のことが好きなんだよ」と言い出しました。

「もうやめてよ」

 私の言葉を遮って、夫は、

「健輔くん、気持ちをうまく言えなくて、好きな子に意地悪しちゃうんだ。悪気はないんだから許してあげようね」と言うのです。顔にガーゼを貼り付けられて、頭にネットを被らされている娘に向かって。傷が残ると宣告された娘に向かって。せめて娘の気持ちに寄り添う言葉をまっさきに言ってほしかった、そう思いました。なぜ健輔くんの気持ちを最優先にしてしまうのでしょう。被害者に対して、加害者のことを思いやろうと説得する、それは優しいのではなく残酷な行為であるように私には思います。夫がひどく遠い存在に感じました。

「美樹、無理に許さなくていいんだからね」

 私がそう言うと、夫は私を睨んできました。

「子供のためにならないことを言うのはやめろよ」

「それはこっちのセリフよ! どこまで他人を庇えば気が済むの。もういい、美樹、これからおばあちゃんちに行くよ」

「えっ、おばあちゃんち?」

 ずっと無表情で黙っていた美樹でしたが、ぱっと笑顔になりました。私は妙にほっとしました。

「そう。だから、お父さんにバイバイして」

「うん! お父さんバイバイ!」

「いやだよ、バイバイしないよ。美樹、おばあちゃんちに行くのやめよう。お父さんとここにいよう?」

 美樹は「うーん」と悩んで、「やだ」と言いました。

「え、なんで……?」

 ショックを受ける夫に、

「だって、また健輔くんが来たら怖いもん。おうちにいたくないもん。おうち怖い」

 そう言われて、夫ははっとした顔をしました。私も胸がぎゅっと痛くなりました。

「大丈夫だよ、お父さんが守ってあげるから」

 そう言っても、美樹は首を横に振るだけでした。

「お父さんは守ってくれないもん。お母さんも。だからおばあちゃんちがいい」

 夫は泣き出しましたが、私も泣きました。自分が情けなくて、涙がとまりませんでした。親への不信感と、自宅で襲われる恐怖を幼い娘に植えつけてしまったことを思い知ったからです。




 それから、私と美樹は実家で暮らすことになりました。夫とは離婚せず、単身赴任という名の別居になりました。

 美樹は健輔くんと離れることができて、気持ちが落ち着いてきたようです。すっかり癇癪がなくなりましたし、「待つ」も再びできるようになりました。美樹も落ち着いてきたし、親には申しわけないけれど昼は美樹の面倒を見てもらえたので、私は働きに出ることにしました。

 

 どうにか新生活にもなれてきた、つつじの咲く5月の連休中。

 家でのんびりしていたら、なんと鏑木夫妻と健輔くんが我が家に突撃してきたんです。アポなしです。相変わらず自己中です。なぜか夫も同行していました。まるで使用人のように鏑木家族に付き従ってあらわれた夫に、私はがっかりしました。

 これからどんな会話となるにせよ、美樹には聞かせたくありません。健輔くんと予告なく突然会わせるのも嫌です。美樹のことは自宅にいた両親に任せ、私は鏑木ファミリーと付き添い1名と路上で対面、いや対決となりました。

 何を言われるかと身構えていたら、

「お嬢さんに怪我をさせてしまって、申しわけありませんでした」

 そう言って、鏑木部長は頭を下げました。

「え?」

 臨戦態勢の私は、肩すかしを食らったような気持ちになりました。

「ほら」

 部長に促され、奥様も頭を下げました。

「話は全部聞きました。健輔のこと、私のために預ってくださっていたんですね。それなのに勘違いして……。健輔は美樹ちゃんのわがままに付き合ってあげているんだって、そう思い込んでました……」

 そこで声を詰まらせると、奥様は再び深々と頭を下げました。

「そのうえ怪我まで……。本当に済みませんでした。健輔も謝りなさい」

 奥様にそう言われても、健輔くんは黙って遠くを見ていました。

「美樹ちゃんに怪我をさせたの覚えてるでしょ? 謝らないといけないの」

 そう言われても、健輔くんはまるで反応しません。

「健輔! 謝りなさいって言ってるでしょう! ほらぁ!」

 奥様が声を荒げて、健輔くんの頭をばしんばしんと叩き始めました。その奥様の手は噛み痕だらけで、ここに来るまでに家庭内でさぞ苦労されたことが忍ばれましたが、かといってこのまま見ているわけにもいきません。私は今度こそ、奥様を止めるべきだと思ったのです。

「奥様、やめ……」

 そのとき、部長が奥様の手を掴みました。

「俺たちの大事な息子をそんなふうに叩かないでくれよ……頼むから……」

 奥様はぽろりと涙をこぼされました。

「どうして謝れないの、健輔、どうしてなの……どうして……」

 そのまま泣き崩れる奥様の肩を抱いて、そしてもう一方の手で健輔くんと手をつなぐと、部長は私に向かってもう一度頭をさげると、帰っていかれました。



 あとに残された夫は、何も言わずに私を見ていました。これは私のほうから何か言ってあげないといけないんだろうなと、そうでないときっと夫との関係はこのままなんだろうなと思いました。

「あなたが、鏑木部長さんたちに謝るようにお願いしてくれたんだよね?」

「うん……」

「そっか……」

 分かっていたことだけれど、それでも言葉で確認して、私はほっと息をつきました。

「アポなしで突撃はどうかと思うよ。もし美樹と健輔くんが鉢合わせしていたら、また美樹に悲しい思いをさせることになっていたかもしれないのに」

「ごめん、そこまで考えてなかった……。部長に謝ってもらうことで頭がいっぱいで……」

 やっぱり人は急には変われないものなのでしょう。夫は、娘の気持ちを後回しにしてしまうところは相変わらずです。でも、少しずつでも変わってくれるのなら……。甘いかもしれないけれど、私がしっかりと美樹を守ってやれるのなら、再び美樹に父親を取り戻してやれるのかもしれないと思いました。

「……それで、美樹は?」

「いるよ。今はリビングでおままごとをしてるはず」

 そう言って、私は玄関のドアを開けました。


 その日から、我が家は別居ではない感じの単身赴任家庭となりました。夫婦関係の修復に向かって進み始めたというわけです。



 最後に1点だけ私が誤解していたことがありました。

 美樹がこめかみを切られた日のことです。私は健輔くんが美樹を傷つけるために家に来たのだと思っていました。でも美樹から聞いた話ではちょっと違いました。

 健輔くんは、その日、目的はわかりませんが我が家にやってきて、美樹の着ている服についているボタンを引っ張ったのだそうです。それはツヤツヤしたドーム状のボタンでした。初めて会った日に健輔くんが気に入ったぬいぐるみのボタンと似たタイプのものでしたから、欲しくなったのかもしれません。しかし、引っ張っても取れないので、台所の引き出しからハサミを取り出し、それで美樹の服を切ろうとしたのです。美樹が抵抗したため、カっとなってハサミで美樹の顔を叩いたら怪我させてしまったということのようでした。私が自宅に駆け込んだとき、健輔くんが奇妙なほどぼんやりしていたのは、怪我をさせたことに本人もびっくりしていたせいなのかもしれません。

 健輔くんに悪意がなかったのは認めます。とはいえ、やっぱり美樹は健輔くんと引き離して正解だったと思いました。ハサミは、あと2センチ横にずれていたら目に突き刺さっていたのですから。

 これから私たち家族が再び一緒に暮らすことになったとしても、もうあのマンションには戻れません。別のところに新居を探すことになると思います。新天地で3人でやり直せる日がいつか来たらいいなと思っています。


 あと、健輔くんですが、その後ご家族みんなで必要な支援を受けられることになったそうです。娘が怪我させられたとはいえ、そこは良かったなとも思っています。



 <おわり>

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

懺悔~虐待ママ友と他人優先の夫に挟まれて ゴオルド @hasupalen

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ