第4話 襲撃、流血、そして……

 2月15日の噛みつき事件の数日後、なんと夫が「健輔くんにチョコをあげるよう、美樹に言ってくれ」と言い出しました。馬鹿も休み休み言えと思いました。

 なんでも健輔くんはチョコをもらえなかったことを引きずっていて、ずっと家で癇癪を起し続けているというのです。それで部長が夫に頼んできたとのことでした。

 「健輔くんの癇癪は鏑木家で考える問題でしょう、うちには関係ない」

 そう言ったのですが、これで最後だと、チョコを渡せばもう鏑木家と縁を切ってもいいと夫が言うので、愚かな私はしぶしぶ美樹にチョコを持たせました。スーパーで買ってきたポッキー1箱です。

「これを健輔くんに渡してほしいの」

「なんで?」と娘は不満げです。

「健輔くんは、美樹からチョコが欲しいんだって。だから、あげてほしいの」

「やだ」

「どうして?」

「だって健輔くん、嫌いだもん」

 そうだよね……。それでも何度もお願いすると、美樹はむすっとした顔で承諾してくれました。

 しかし、一緒に鏑木家のお宅のドアの前に立ち、インターフォンを押している間に、美樹は逃げ出しました。一気に階段を駆け下りていく美樹を私は慌てて追いかけました。でも、美樹を捕まえる気にもなれなくて、少し離れたところからついていきました。

 一体どこへ行くのかと思ったら、近くにある児童公園に美樹は入っていきました。ママさんたちが何人か固まって立ち話をしていたので、私は会釈だけして、離れたところで美樹を見ていました。

 公園で遊んでいた子供たちは、美樹を見つけると駈け寄ってきました。中には幼稚園で仲良くしている子もいました。美樹はその場でポッキーを開封し、みんなに配って、自分も食べ始めました。そして何やらおしゃべりしながら、楽しそうに笑いました。それはここに引っ越してくる前にはよく見た、美樹のいつもの笑顔でした。健輔くんがうちに来るようになって以来、自宅ではもう見ることがなくなってしまった美樹の楽しそうな笑顔でした。私は申し訳ない気持ちと、罪悪感で喉の奥がつんとしました。なんて自分は馬鹿だったんだろうとやっと目が覚めたのです。乱暴な子と一緒に生活させることで強い子にするだなんて間違っていました。美樹はこんなふうに友達とお菓子をわけあって笑える子なのです。何も変える必要はないのです。癇癪だって、こっちに引っ越してくる前はなかったのに。

「美樹、ごめんね」

「あっ、お母さん」

 美樹はしまった! 見つかったという顔をしたけれど、私が怒っていないのを察して、にっこりしました。

「はい、お母さんにもあげる」と差し出されたポッキーを私は泣き笑いで受け取りました。



 それ以来、健輔くんはうちに来なくなりました。美樹がチョコをあげなかったので、むしろ向こうから無視されるようになったのです。でも、願ったり叶ったりでした。

 ただ、夫は私を非難してきました。奥様や健輔くんが可哀想だというのです。そのくせ美樹のことは可哀想だとは思わないようでした。



 お互いに避けているこの状態がずっと続けばいいのにと思っていました。そうすれば平和なのに。しかし、そうはいきませんでした。

 それは、ある日曜日の朝のことでした。

 夫はまだ寝ていて、美樹はリビングでテレビを観ているときに、私はゴミ出しに行きました。鍵をかけずに出て行ったことをこれほど後悔したことはありません。

 ゴミ出しを終えて階段をのぼっていると、4階のあたりで子供の泣き叫ぶ声が聞こえました。我が家は5階です。声は上から聞こえました。私は恐怖で息苦しさを覚えながら、全力で階段をかけあがり、家に駆け込みました。

 私の目に飛び込んできたのは、床に座り込んで泣く美樹と、すぐ側に立って美樹を見下ろしている健輔くんでした。美樹は顔から血を流していて、健輔くんは手にキッチン用のハサミを持っていました。それを見た瞬間、かっと頭に血が上ったような、それでいて全身から血の気がひくような感覚に襲われました。

 私は悲鳴をあげて健輔くんを突き飛ばすと、美樹を抱きしめました。

「出てって!」

 私が怒鳴っても、健輔くんはぼんやりと立ったままです。私の言葉がまるで理解できていないかのように、ぼんやりしていました。

 私は夫の名前を大声で叫びました。何度か叫んだら、「もう、そんな大声で何?」と暢気な顔で夫が起きてきました。鈍感な夫にイライラしながら、「健輔くんをうちから追い出して」と言いました。

 出血している美樹を見て、さすがに夫も目が覚めたようで、私の言うとおりに健輔くんを連れていってくれました。健輔くんは逆らうことなく妙におとなしくて、それがかえって恐ろしく感じました。何を考えているのかわからない怖さとでもいいましょうか。

 脅威が去り、私はやっと娘の怪我を確かめることができました。こめかみのあたりをざっくり切られて、そこから血が出ている姿はあまりに痛々しく不憫でした。美樹はもう泣いてはいませんでしたが、どこか諦めたような顔をして私を見返してきました。なぜかわからないけど、見ていて不安になる顔でした。

 美樹の様子は気になるけれど、まずは病院だと思って、日曜にやっている救急病院をスマホで調べていると、夫が帰ってきました。そして「事故だって」と言い出しました。

「何が」

 私がスマホをいじりながら聞くと、

「健輔くん、美樹を傷つけるつもりはなくて、たまたま置いてあったハサミを持ったら、美樹の顔に当たっただけなんだって」

「そんなわけないでしょ!」

 私は夫を睨みました。

「うちに来られなくなった逆恨みでしょ! それにハサミだって台所の引き出しにちゃんとしまってたんだから。前にお菓子の袋をそのハサミで開けたのを健輔くんは見たことがあるんだよ。これは事故じゃない。悪意があるに決まってる!」

「子供のしたことをそんなふうに決めつけるなよ。まだ5歳なんだし悪意なんてないだろう」

 私はついにブチ切れました。

「どうしてあなたってそう赤の他人ばかり庇うの!」

「庇ってるわけじゃない。俺は公平に物事を考えてるだけだよ」

「公平? どこが? あなたは他人にいい顔したくて娘を犠牲にしているだけじゃない。ひとりっ子の教育とかそれっぽいこと言うけど、あなたはただ単に人と喧嘩したくない、争いたくないだけでしょ!」

 夫もイラついた顔になりました。

「人と争わないことの何がいけないんだ。喧嘩なんかしないに越したことないだろ。だいたいきみは俺の優しいところが好きだって言ってたよな。それを今さら欠点みたいに言われてもさ!」

「……私とは喧嘩するんだね。娘を傷つける他人とは喧嘩しないのに」

 夫はむっつりと黙り込みました。すっかり感情が暴走してしまっていた私は、さらに言葉を続けようとしましたが、

「お母さん……」

 美樹の声にはっとしました。我に返ったのです。今は言い争っている場合ではありません。まずは美樹の治療が最優先です。私たちは美樹の顔にタオルを当てて家を出ました。しかし、鏑木部長に声をかけられて、なんと夫はそのまま鏑木家へと行ってしまいました!

 あ、もうこの人とは無理。離婚したい。

 夫に対して初めてそう思った瞬間でした。

 私も勝手なもので、赤の他人に優しい夫に惹かれて結婚したくせに、子供ができたら、今度は赤の他人に優しいという理由で離婚しようとしています。赤の他人に優しくするためには、平気で我が子を犠牲にする人だなんて思わなかったのです。娘が傷つけられて怒るどころか加害者をかばうような人を受け入れることができませんでした。


<つづく>

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